8 和戦へのそれぞれの思惑



和平の予測の根拠

 湾岸情勢の見通しは相変わらず不透明であり、無条件撒退を拒絶するイラク軍は、クウェートの要塞化を進めているし、アメリカも強気で兵員増強の路線をとっている。また、2月8日に行われたブッシュ大統領の示唆により、チェイニー国防長官は20万人の増負を行い、遅くても1991年1月末までには、合計で43万人に達するアメリカ軍を送りこみ、アラビア半島に駐留させると発表した。
 ワシントンの強硬姿勢と巨大な軍事動員計画を前にして、日本のメディアはアメリカ軍の攻撃態勢が完了すると考え、外交的な解決の希望が遠のいたということで、非常にペシミスティックな空気に支配されている。おそらく、戦争になる可能性を七から八くらいにして、いつ戦闘開始になるかについての議論が話題を提供しているようである。
 しかし、和平と戦争の可能性について考察する時、その比率が日本の一般的な考えとは逆に、外交を使った和平の方が七だと、私は予想する。その根拠は戦争観に基づいており、戦争は兵器や軍隊の規模ではなくて、むしろ、補給と兵站によって決定するものだから、現在の状況は戦端を開くのにふさわしくない、と私が判断しているせいに他ならない。
 そうは言っても、将軍たちは戦闘行為を待ち望んでいるものであり、予想しないような突発事件をきっかけにして、軍事行動が始まりかねないという点で、クウェートを挾んで対峙する両軍が戦争に突入する可能性もかなりあると言える。
 イラクとアメリカの両国を見た場合、ともに大統領を頂点にした共和制を採用し、文民支配の政治体制をとっているので、軍人が支配する国とは政治形態が異なるから、たとえ独裁的なトップに支配されていても、政治的な判断が軍事的な選択に勝ることは、疑いの余地がないと考えてよさそうだ。
 もっとも、この前提が誤っているということになれば、以下の分析のかなりの部分が有効性を失うが、それでも、和平の可能性は5割以上と言えそうである。なぜならば、当事者たちの政治的利害についての心理を分析し、中束地域が秘める歴史的な条件や国際政治の力学が構成するマトリックスが全体の動きを支配することに思いを至せば、疑いの余地がほとんどないからである。


ブッシュとサダム・フセインは戦争を回避したがっている

 アメリカの世論のかなり大きな部分が、民主主義を守るという大義もないまま、中東の封建土候の利権を守るために、アメリカの青年たちが血を流すことに反対しており、未だ戦死者が出ていない段階で、派兵中止の声が全米に広まっている。
 だから、優勢な空軍力を駆使して、アメリカ軍がイラクに先制攻撃をしかけ、短期間に軍事制圧を実現するにしても、最低でも5000人から2万人の水準で、アメリカ軍の死傷者が出ると予想されているから、ブッシュ大統領は開戦したいとは思っていないはずだ。それでなくても、11月の中間選挙では上院は善戦したが、下院では共和党が敗北しただけでなく、知事選挙では大惨敗を喫しているので、ブッシュは2年後の大統領選挙が苦しくなっている。
 戦端を開くことによってアメリカの青年が血を流せば、1992年の大統領選挙での再選は、ほとんど絶望的になると考えられる。また、万が一にも、軍事作戦が予定通りに成功しないで、サウジの油田が破壊されることにでもなれば、世界経済は致命的な打撃を受けてしまい、ブッシュは合衆国の200年の歴史において、最低の大統領だと歴史に記録されることになる。
 東部のエスタブリッシュメントの嫡子の彼には、そんな不名誉なことには耐えられないだろうし、それだけの博打をイラクを相手にしようなどとは、聡明な彼なら考えないだろうと予想し得る。
 ブッシュが軍事行動を決断する唯一の動機は、クウェートのアメリカ大使館員の救出の場合だが、それはアメリカにとっても大きな賭になるに違いない。なぜならば、次に予想されているのは大戦争であり、アラブ全体を敵に回して戦うだけの、不退転の覚悟が必要になるからである。
 もう一方のイラクの側について見ると、サダム・フセインは世界最強のアメリカ軍を相手にして、本格的な戦争をやるというつもりは、最初から持ち合わせていないはずだ。自らの力の限界は彼自身がよく心得ており、そうであるが故に、弱みをカバーするために人質を取り、神経戦で相手を撹乱する戦法を採用してきたのだ。そして、その過程でさまざまな和平のメッセージを送り、アラブ人に特有なメンツを立てることで、行き違いを打開したいと苦慮し続けたのである。
 サダム・フセインにすれば国民の期待に応えて、ルメイラ油田で味わった屈辱感をぬぐい、名誉ある撒退を保証されて軍隊を凱旋させ、領土的な野望を二つの島の占有で満たせば、矛を納めることに異論はないはずだ。
 なぜならば、サダム・フセインはいくつかの読み違いを犯しており、フランスやソ連が味方にならなかったことや、全アラブが敵対して孤立した事実に対して、大きなショックを受けているはずだからである。


和解の選択をとるサウジ

 クウェート問題の陰の立て役者はサウジであり、サウジ王室の判断が決め手になって、これからの動きの方向を決定づけるに違いない。なぜならば、傭兵の主人公としてすべてを決める立場にあり、しかも、サウジがあまり自己の利益を追求し過ぎると、目の前で起こったクウェートの例からして、元も子もなくなることを教訓として学び、非常に用心深くなっているからである。
 だから、早とちりをしたスルタン国防相が、最終的な和解案の領土問題を持ち出して、ワルバ島とバビヤン島の名前やルメイラ油田について発言した後で、あわてて取り消したハプニングまで発生したのだ。
 この失言はヨーロッパのカジノで遊びなれ、プレーボーイの浮き名を流したファハド国王の目にはあまりに早く出しすぎ切札に見えたから、サウジの政府は急いで切札を隠したのだが、それはもはや後の祭りになってしまい、世界中の政治のプロに手の内を読まれてしまった。
 サウジにとってイラクは不愉快な隣国だが、万が一にアメリカがイラク軍を粉砕してしまい、中東の中心部に真空地帯が出現すると、今度はより恐ろしいイランと向かい合うことになる。イラクは豊かではない社会主義国家だが、イランはシーア派のファンダメンタリストで、宗教の面では大きな影響力を持つ。だから、メッカとメジナの守護者に過ぎない、宗教的には権威のないサウジ王家にとっては、クウェート侵攻直前の7月のメッカにおいて、トンネル事故の大惨事を発生させていたから、イラク以上にイランは相手として扱い難いのである。
 そんなこともあって、ファハド国王にとってイラクの消滅は、クウェートの消滅とは比較にならないインパクトがあり、和平を通じたイラク軍の撤退が最良であり、しかも、カネで解決するにこしたことはないのである。
 なぜならば、領土問題に焦点が集まると、奪い取ったイエメンの北部領土に大きな油田の存在が予想されているので、サウジにとっては国境線の引き直しは、触れられたくないすねの傷みたいなものだからだ。
 それを見抜いたトルコのオザル大統領は、ジェダでファハド国王に会見する前に、トルコのメディアを総動員して、キルクーク地方はトルコ領だというキャンペーンを行い、それを無言の圧力に使う作戦をもって、サウジやアメリカから莫大な援助を引き出している。領土問題に関して既成事実が否定されると、中東で最も大きな打撃を受けるのは、イスラエルと並んでサウジだというのが、あまり知られていない大きな秘密である。


和平の道に立ちふさがる存在

 こうして見ると、主要な当事者は軍事的な衝突を望まず、できるかぎり外交的な解決を選択したがっているが、いったい誰が軍事行動への指向をしているのだろうか。
 その答えの筆頭にくるのはイスラエルであり、イラクの原子爆弾と軍国主義を危惧して、この際、どんなきっかけでも利用して、一気にイラクの軍事施設を叩き潰してしまい、後顧の憂いを取り除きたいと念願していることは、極右グループの内閣の言動によく現われている。
 願うことならアメリカ軍の機勢を利用して、イラクの軍事力を根こそぎにしたいと考え、キッシンジャーなどを通じて戦術奇襲を訴え、イラク軍は3時間で全滅できると精力的にキャンペーンを行っている。旧約聖書のアポカリプスからすると、メソポタミアの地でハルマゲドンが起こり、その先鋒部隊がイラク軍だという想定らしいが、果たして古代の予言は的中するであろうか。
 いずれにしても、パレスチナ問題との関連において、ユダヤ人の入植地についての解決がない限り、中束の平和は訪れないと思われるが、イスラエルが膨張して領士的に拡大すればするほど、イスラエルの生存条件は選択の幅が狭くなる。そして、軍事的に最も重要なゴランとバッカの両高原を残し、西バンクスやシナイ半島に関しては、現在が返還交渉を始める上で、最良のタイミングかも知れないのである。
 また、もう一つの軍事指向の要因になっているのは、ゴルバチョフの軍事力削減政策の対象になり、ペレストロイカに弓を引く状態にある、ソ連の赤軍の強硬派の将軍たちである。彼らはポスト冷戦のあおりをもろに受けて、かつて謳歌していた特権的な地位を失ったために反ゴルバチョフ派を構成しており、そのリーダー格のマカショフ将軍が、バグダッドに陣取って軍事顧問団を指揮している。
 このタカ派の赤軍の将軍たちにとっては、イラクをめぐる戦時体制はチャンスだが、彼らは、軍事挑発の要因としては非常に危険である。現に、ゴルバチョフ大統領がノーベル平和賞をもらった時、通常カザフ共和国のセミパラチンスク実験場を使うのにその時はオスロに近いノバヤ・ゼムリヤ島で、核爆発の地下実験をして、嫌がらせをしたという噂が伝えられている。
 その辺りに謎の一端が潜んでいるらしく、プリマコフ・ソ連特使のバグダッド訪問の後で、ブッシュの態度が硬化した原因があると見られている。湾岸問題は複雑なマトリックスの中で、難解で微妙な展開をしているのであり、全体としては和平の方向に向かって、着実に進んでいると思われるのである。


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