『賢者のネジ(螺旋)』第八章 大杉栄と甘粕正彦を巡る不思議な因縁
( 基本参考資料 )


(A) 「戦時宰相論」 中野正剛      
(『朝日新聞』昭和18年1月1日 掲載 )
 



国民の愛国熱と同化 西郷南洲曰く「仏蘭西二十万の兵、三年の糧ありて敵に降りしは、余り算盤に精しかりし故なり」と。

 老虎クレマンソウ曰く「今やロシヤは吾人を裏切つた。されど余は戦争を行ふ。憐れむべきルーマニアは敵に降つた。されど余は戦争を行ふ」と。又「巴里を喪失せば、ロアール河の線に拠り、ロアール河支へずんば、ピレネイ山脈の線に拠り、断じて敵を反撃撃滅せん」と。ナポレオン三世の屈服せし所、クレマンソウは見事に之を克服した。戦時宰相たる第一の資格は絶対に強きことにある。戦は闘争の最も激烈にして大規模なるものである。闘争において弱きは罪悪である。国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず。指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。前大戦の際帝政ロシヤは滅びた。されどブレストリトウスクの屈辱講和の後、レイニンは昂然として日うた。 「ペトログラードを失はばモスクワに拠り、モスクワを失なはばシベリアに、シベリアを失なはば、カムチャツカの一角に、同志と共に理想社会を建設して世界革命を指導せん」
 と。
 これは武力戦、経済戦が絶望となりたる後、猶ほ思想戦によりて積極的抗戦の強行を決意したのである。然るに今次大戦に於て、「巴里の文化を救はんが為に」仏蘭西は降伏した。西郷南洲をして之を目撃せしめば何と嘆ずるであらう。巴里の「建物」を以て「文化」なりと解する所に、人民戦線以来の誤れる唯物的世界観が覗はれる。


 非常時宰相は絶対に強きを要する。されど個人の強さには限りがある。宰相として真に強からんがためには、国民の愛国的情熱と同化し、時にこれを鼓舞し、時にこれに激励さるることが必要である。カイゼルは個P人として俊敏であつた。されど各方面の戦況少しく悪化すると、忽ち顔色憔悴し、何時もの颯爽たる英姿は急に消え失せた。ヒンデンブルグ、ルーデンドルフは個人としては固より強かつたに相違ない。されど彼等が真に強さを発揮したのは、タンネンベルヒの陣中、戦地を煙硝の臭に浸して居た際である。全軍の総指揮権を握つた刹那、彼等は半可通の専制政治家に顛落した。独逸の全国民があれだけ愛国心に燃え、最前線の少年兵が虚空をつかんで斃れても、猶ほ巴里の方向ににじり寄らんとした光景、それが彼等の眼には映らなかつたのか、彼等は国民を信頼せずして、之を拘束せんとした。彼等は生産能力に対して何等の認識なく、「補助勤務案」なるものを提出し、「満十五歳より六十歳に至る全男女に労役義務を課する」ことを強行した。これが所謂「ヒンデンブルグの絶望案」である、それは国民の自主的愛国心を蹂躙して、屈従的労務を要求するものであり、忽ち生産力を減退して、随所に怨嵯の声を招き、遂に思想の悪化による国民的類廃を誘致したのである。ヒンデンブルグとルーデンドルフとは、戦線の民衆即兵士と共にある時には強いが、国民感情から遊離し、国民から怨嵯せらるるに及びては、忽ち指導者としての腰抜けとなつてしまつた。あれだけの権勢を把握しながら、政治屋どもに嚇かされ、遂には政治家の真似して「名誉ある休戦」など言ひ出し、やがて左翼敗戦論者に死命を制せられたのは、軍服に似合しからざる一大醜態である。彼等は黔首を愚劣にし、卑怯にし、遂に敗戦主義を醸成して、自らその犠牲となつたのである。


 尽忠の至誠を捧げよ 大日本国は上に世界無比なる皇室を戴いて居る。忝けないことには、非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄たらずともその任務を果し得るのである。否日本の非常時宰相は仮令英雄の本質を有するも、英雄の盛名を恣にしてはならないのである。日本の非常時宰相は殉国の至誠を捧げ、匪躬の節を尽せば自ら強さが出て来るのである。山崎闇斎の高弟浅見絅斎は、日本主義に徹底した儒者であるが、幕府を憚り「靖献遺言」を著して支那の先烈を語り、日本武士に節義を教へた人である。玄洋社の創設者頭山満翁の如きはこれを味読して部下の青年を薫陶した。その「靖献遺言」の労頭には、非常時宰相の典型として諸葛孔明を掲げてゐる。固より国体は違ふが、東洋の一先烈として我等に非常時宰相の必須条件を教ゆるものがある。諸葛孔明が兵を用ふること神の如く、民を視ること慈父の如く、文武の大宰相として蜀漢の興廃を担ひて起ち、死を以て節を全うせし所は、実に英雄にして忠臣の資質を兼ねる者である。彼が非常時宰相たるの心得は出師の表にも現はれて居る。彼は虚名を求めず、英雄を気取らず、専ら君主の為に人材を推挙し、寧ろ己の盛名を厭うて、本質的に国家の全責任を担つてゐる。宮中向きは誰々、政治向きは誰々、前線将軍は誰々と、言を極めてその誠忠と智能とを称揚し、唯自己に就いては 「先帝臣が謹慎なるを知る」と奏し、真に臣たる者の心だてを語つてゐる。彼は謹慎である。それ故に私生活も清楚である。彼は曰く


「臣は成都に桑八百林、清田十五頃がある、これで子孫の衣食は余饒があり、臣は在外勤務に就いてゐて私の調度は入りませぬ。身に必要な衣食は皆な官費で頂き、別に生活の為に一尺一寸も増す必要はない。臣が死するの日、決して余財ありて陛下に負くやうなことはありませぬ」と。彼は誠忠なるが故に謹慎であり、謹慎なるが故に廉潔である。


 謹慎にして廉潔たれ 南宋の忠臣岳飛が「文臣銭を愛まず、武臣命を愛まざれば天下平かならん」と言うた言葉が偲ばれる。彼は誠忠、謹慎、廉潔なるが故に百姓を労はりおきてを示し、赤誠を開き、公道を布き、賞する時には遠き者を遺れず、罰する時には近親に阿らず、涙を呑んで馬稜を斬つたが、彼に貶黜せられた者も、彼の公平無私にして温情あるに感動し、彼の死を聞きては泣いて嘆息した。彼の信賞必罰は誠忠より発するが故に偏私なくして温情がある。 孔明の強さは比辺から出発する。彼の仕へたる蜀は敵国たる魏や呉に対して、土地狭小、資源貧弱であつた。彼は智計を出して天下三分の略を立て、殆ど中原を制せんとして未だ成らず、盟邦に背かれ、名将関羽に戦死せられ、先帝は崩じ、精鋭は尽くるといふ窮境に立つた。されど窮境に立ちて絶対強硬方針であつた。彼は安易を調和に求むるが如きは絶対に反対であり、所謂五月濾水を渡りて不毛の雲貴を攻略し、挺身軍を提げて魏と雌雄を決せんとし、敵地に屯田して短期決戦の策を廻らしながら、陣中病を得て五丈原頭に歿した。彼は難局に当り、「今や民窮し兵疲るるも、事息む可らず。則ち住まると行くと労費相等し」と言ひ、クレマンソウやレイニンの如き絶対不屈の意気を示してゐる。


 天下の人材を活用 日露戦争において、桂公はむしろ貫禄なき首相であつた。彼は孔明のやうに謹慎には見えなかつたが、陛下の御為に天下の人材を活用して、専ら実質上の責任者を以て任じた。山県公に頭が上らず、井上侯に叱られ、伊藤公を奉り、それで外交には天下の賢才小村を用ひ、出征軍に大山を頂き、聯合艦隊に東郷を推し、鬼才児玉源太郎をして文武の聯絡たらしめ、倣岸なる山本権兵衛をも懼れずして閣内の重鎮とした。而して民衆の敵憮心勃発して、日比谷の焼討となつた時、窃かに国民に感謝して会心の笑みを漏らした。桂公は横着なるかに見えて、心の奥底に誠忠と謹慎とを蔵し、それがあの大幅にして剰す所なき人材動員となつて現はれたのでないか。難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんが為には、誠忠に謹慎に廉潔に、而して気宇広大でなければならぬ。


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