試論----ヤマトニズメーション




プレ産業社会からの脱藩
藤原 産業社会の解体ということを論じる前に、歴史的に見てわれわれが属している現在の産業社会が、いったいどのように発展するかを考える必要があると思います。しかも、文明のサブシステムである産業社会の問題は、次元の展開という意味からしても、文明の問題としてとらえなければならないのに、誰もそれをやってくれませんね。
小室 そこまで洞察力を備えた人物が登場しないせいです。
藤原 それもあるが、産業社会のサブシステムにすぎない資本主義や共産主義の議論ばかりが洪水状態です。さらに悪いことには、資本主義においていかに計画経済を取り入れるかとか、間接統制をどうするかといったより低次元の問題が騒ぎ立てられている。日本ではあい変わらず文化のような文明のサブストラクチャーでしかない問題が花盛りで、やはり日本人は収斂型の民族だということでしょうか。
小室 数学的な思考法を持たない日本人は、論理に墓づいた発想ができないので視野狭窄症に陥ってしまうのです。だから、大きな枠組みで問題を考えるのが苦手なのです。
藤原 文化には文明化する文化と文明化される文化の二種類があるが、日本文化は文明化されるだけで文明化し得ない、というのが僕の持論です。だから、日本人はより小さなものに向かって収斂せざるを得ない。そのいい例が東京の地下鉄の名前のつけ方です。地図を見ればわかるけど日比谷線、丸の内線、有楽町線、半蔵門線、銀座線といった具合に、非常に狭いある一点に向かって名前が集中しています。気持ちとしてはわかるが、鉄道の路線の命名法としてはこれはいただけない。建設者の自己満足ばかりで、地下鉄の利用者の便利さということがまったく見落とされているせいです。同じ文化でも文明化する傾向の強いフランス人は、パリの地下鉄名でこんな非合理なやり方はせずに、ナション線やクリニャンクール線といったように、終点の名前で示しています。
小室 もっと数学的で合理性を高めたければ、一番、二番という具合に数字で命名することです。日本人は情緒性だけで満足してしまう不思議な人種だから受け容れなだろうが....。
藤原 産業社会の発展のパターンが、労働力集約型から技術集約型へ、そして技術集約型から知識集約型に向かって重点を移していくことは、文明の中で人類がたどってきた軌跡です。そして、現在の日本は社会の中心が労働力集約型から技術集約型への移行をほぼ完了しかけている段階で、古い用語法に従うと、重工業型の産業社会ができ上がったわけです。
小室 イギリスで始まった産業社会の究極が、重工業を主体とした産業社会であり、イギリスやアメリカでは二十世紀の前半にこの段階に達している。ただ、日本の場合は半世紀ほど遅れてそうなったので、内容的にはるかに洗練されているけれど、本質的には同じです。そして、技術が連続的に発達してきた欧米に較べると、機能集団における分業と協同労働化が未発達のまま、機構ばかりが肥大してしまった。しかも、官僚化が激しい上に、科学的な総合分析を欠いた形で技術への過信があるために、恐ろしい無責任体制が生まれている。そこが日本人がエコノミック・アニマルと呼ばれて軽蔑される原因がある。
藤原 産業社会の発展段階と、その活力源としてのエネルギーの問題を考えると、現在の日本がかかえている最大の悩みが明白になる。労働力集約型の産業社会では労働力を提供するのが肉体を持つ人間です。だから、活力源は食糧であり、この食糧をいかに確保するかを問題にしたのがマルクスでありマルサスだった。食糧を手に入れるために剰余価値をいかに賃金の形で回収するかを考察したのがマルクスで、その奪い合いをブルジョワとプロレタリアの間で図式化したのがマルクス経済学です。彼はイギリスの産業革命の成果が産業社会の将来にどんな効果を与えるを、資源から製品への生産過程における労働力付加という側面からだけで取り扱う過ちを犯しています。
小室 政治的に過ぎる点はあるけれど、理論としては体系づけられたものを持っているし、リカードとへーゲルを完全に継承したマルクスの経済学は、数理経済学としては元祖的な存在であり、弁証法の精華だといっていいですよ。
藤原 でも、人間が社会の中で生産に従事することによって、エントロピーの高い熱関係を生み出すということについてはまったく論じていませんよ。人間はものを生産する点で社会的な生きものかもしれないが、熱を消費するという点で反社会的です。もっとも、この点に関してはあらゆる経済学が同じ欠陥を持っているが...。
小室 しかし、一般均衡論の応用によって、マイナスの価値を持つ生産活動についての処理は十分にやり得ます。どのような形で相互関係が成立するかを見ていけばいいのです。
藤原 マルクスがもっぱら労働の側面から考察したのに対して、資本を中心に価値論と生産性の面から取り扱ったのが古典派と新古典派です。産業革命の成果をイギリスの産業が世界に君臨する過程で発展したこの学派は、結局、価値論から経済政策論に偏向していったけど、技術集約型の産業社会に対しての有効性という点では、いい線をいっていた。
小室 マルクス経済学の原典としての『資本論』以上に柔軟性に富んでいたという意味では、その通りでしょう。実用性と実際性の点ではイギリス人たちはソフトだから....。
藤原 技術集約型の産業社会の主体が機械や工場設備であり、十九世紀の活力源だった。石炭に代わって、二十世紀の主役が石油だとしたら、石油こそこの段階の社会の生命力です。エコノミストたちでこの問題に注目したのは限界効用派であり、とりわけジェボンズの石炭を使って展開した限界理論が最も卓越していたかもしれない。でも、石油時代になっても、二十世のジュボンズがまだ登場していないし、レーニンが『帝国主義論』の中で石炭と石油について部分的にふれているけれど、まだあの段階では彼には石油問題を論じるだけの資料が整っていなかったみたいです。もっとも、彼があの本を書いた第一次大戦中のスイスでは、石油問題の重要性を認識するのは無理だったかもしれないな。
小室 自動車は多少あったにしても、鉄道は蒸気機関車が黒煙を吐いて走っていた時代だから、仕方がないでしょう。それに工場だってほとんど石炭を燃料にしていたのです。
藤原 戦闘自体が、ルールの炭田地帯の争奪戦でした。ケインズなんてそれからはるかあとになって登場したけど、結局は政策論でしかなくて、経済理論と呼ぶに値するだけの内容は持っていません。だから、われわれが生きている産業社会が発展して、これからいよいよ知識集約型に移行しようとしていると、それにふさわしい新しい有効な経済理論を持ち合わせていないために、一種の立ち往生をしているのが現状だと思うんです。
小室 一般均衡理論の発展が突破口を作るでしょう。
藤原 でも、情報理論を文明における産業社会の発展と結びつけた形での議論は、まだ本格化していないのです。技術集約型の産業社会が知識集約型の社会に発展するパターンを、アインシュタイン的な発想をベースにして一般理論化しなくてはいけない。とくに知識集約型産業社会の活力源として、その生命力を支えている情報についての再検討が必要だけど、まだそこまで行っていない。情報がエネルギーだという議論がもっと一般化しなくちゃいけないのです。
小室 情報理論の基本からすると、確率の少ない出来事ほど大きな情報をもたらすわけだから、最も進んだ知識集約型の社会は、実はあり得べからざる存在にもなるわけで、皮肉ですな。
藤原 『虚妄からの脱出』という本に図示しておいたけど、MTKダイヤグラムという図で仮説を作ってみたのです。僕はコーリン・クラークのいう、第一次産業、第二次産業、第三次産業という区分は静的なので嫌いだから、ダイナミックなモデルを考え出してみた。それがMTKダイヤグラムで、それによると、労働力集約型から技術集約型を経て知識集約型へ移行するのが一般の産業社会のパターンです。ところが例外的に、労働力集約型から知識集約型に移行するものがあり、これがクラーク説の第三次産業に他ならないのです。そこで面白いのは、この系列にはピンからキリまであって、サイエンスや訓練と結びついた情報は知識集約型と関係するが、労働力と結びついた低級な情報は話にならない。
小室 日本が最も得意にしている分野です。
藤原 ほんとうの知識集約型のビジネスは、ある意味で、アングロサクソンがほぼ支配しており、日本人はなかなかその中に食い込めない。アングロサクソンに続いてユダヤ人も強い。石油開発とか国際金融などはその典型でして、ロンドン、ニューヨーク、アムステルダムなどが拠点です。
小室 その意味では、日本は見かけ上は産業社会だが、本質的には産業社会ではなくプレ産業社会です。だから、日本の企業は機能集団ではなくて、いまだに中世の藩と同じです。
藤原 僕は『日本脱藩のすすめ』という本を書いて、日本のサラリーマンたちに、自らの近代化に取り組めと訴えてみたんだけど、あまり読まれた形跡がない。誰も、まだ脱藩しなければならないほど問題が切実だとは思っていないのでしょう。
小室 現在の状態が続けば、日本は破滅です。だから、脱藩志望者がそのうち続々と現われるので、心配しなくてもいいですよ。そのときになって、すでに誰かが脱藩のすすめなんて本を書いていたと知って驚くことでしょう。前産業社会からの脱藩のあり方のひとつとして、脱サラがそのうち社会問題化します。

情報と環境条件
藤原 産業社会の活力源で、知識集約型社会のエネルギーは情報だということになったけれど、日本語は不便なことばで情報という一つの単語しかない。実はこの情報は英語だとインフォメーションとインテリジェンスの二つの異なった概念に分かれている。日本で情報として大いに取り沙汰されているのは、情報収集とか整理といったインフォメーションの次元の問題です。ところが、より重要なのは、素材としてのインフォメーションを分析し、統合し、判断し、評価するというインテリジェンスの仕事であり、さらに全体的にとらえられた状況の中でどのように実践するかという実行力と、最大の効果を生むための戦略的な構想力です。それが日本人欠落している。
小室 論理的な思考をせずに感情的に受けとめるだけだから、インテリジェンスなんか出てくるはずもない。
藤原 アメリカのCIAは、インテリジェンスをうたっているけど、内閣調査室を「日本のCIA」と呼ぶ場合は、あれは日本のセントラル・インフォメーション・エージェンシーの略だと思えばいい。どうせインテリジェンスのやれる人材なんかがいるわけないですから。
小室 インテリジェンスというのは数学的な発想が基礎になっています。ところがそれが日本人にない。私は、かつて、役人相手に数学の基礎理論を手ほどきしたことがあるけど、その実情に驚いたことがあります。
藤原 それは生態環境としての生活圏の問題が大いに関係しているせいです。それもインテリジェンスのレベルまで行かずに、インフォメーションのレベルで決定的な役割を演じています。くわしいことは『情報戦争』や『日本が斬られる』という本で論じたが、情報に対しての理解の仕方と構えで見ると、農耕民族と遊牧民は本質的に異なっているんです。農耕民の情報は蓄積し発酵して知恵にしている。それに対して、遊牧民の情報はオンタイムでとらえ、的確に選択し行動に移すことで、そのリーダー中心の社会で、いうならば、男の世界です。
小室 たしかに、農耕社会は大地と結びついているから女性的です。日本も天照大神が一番偉いし、かつ女性上位だし....。
藤原 トップの性別はあまり関係なくて、たとえ男であっても女性型支配をするのです。それが長老であり、農耕民族は蓄積だから長老が一番偉い。情報も新しさよりも知恵と結びついた古さのほうが重要視される。その辺にリーダー型の西欧や中東と、長老型のアジアの違いがあります。
小室 一般にヨーロッパ的、アジア的と区分する人が多いが、中国やインドのほうが日本よりはるかにヨーロッパに近い。実は、世界中で日本だけが例外中の例外です。たとえば、牧畜を例にとってみても、牧畜をまったくやらないのは日本ぐらいで、中国もインドも農業と牧畜の二本建てです。それに日本の驚くべき特徴として指摘していいのは、どんなに見かけ上近代化したように観察されても、日本では農業が絶対に産業化されない点です。こういうことはアジアでもめずらしい。
藤原 日本語では述語が十分にないので、議論がむずかしいから英語を借りて話すと、日本にはファーミングもアグリカルチャーもなくて、あるのはガーデニングだけです。ガーデニングは技術集約化がむずかしいから産業化するところまでは行かない。
小室 日本軍がフィリピン作戦をしたときに、フィリピンは農業しかないから、農村地帯では食糧が自給できるはずだと思い込んでいたら、それはとんでもないことだった。タバコ地帯ではタバコだけしかないし、麻を作るところには麻しかなかった。いわゆるモノカルチャーです。農村地帯は食糧があるはずだと期侍したのに、食糧はない。だがタバコや麻を食べるわけにいかないので、作戦は大混乱してしまったそうです。
藤原 ベトナムだってブラジルだって同じです。農業が労働力集約型から技術集約型への進化の系列の中で動いているので、産業化が可能になる。それを植民地主義がプランテーション化を通じてやったわけです。
小室 フィリピンは遅れている、と日本人は頭から決めつけてかかる癖があるが、農業でみる限りでは、産業の組織化という点で、彼らのほうがはるかに進んでいる。日本の農業なんて何でも作るし、それも主な目的は家族が食べるところにある。
藤原 インダストリアライズして剰余価値を生み出すところまで行っていない。
小室 農業に見る限り、日本は世界で最も遅れた状態を維持している。しかも、この農業地帯を地盤にした政党が農本的な政治をやってきたのだし、これからも続けようとしているのが救いがありません。
藤原 そこに日本の政治が近代以前のパターンでしか機能しない理由もあるし、日本人が情報一般に関して非常にニブイ原因もあると思います。その当然の帰結として、インテリジェンスの問題がいかに重要であるかについて誰も気がつかないし、また、それを論じようともしないのです。
小室 土壌自体が日本的な農業と結びついて母なる大地になっているのだから、そう簡単には変わらないのです。
藤原 その土壌のもとになる土地について、歴史的にとらえてみると面白いですよ。たとえば、古代奴隷制というのは土地と結びついた労働力集約型の産業社会です。土地はハードウエアとして労働力を投入して剰余価値を生み出し、それを大量の奴隷的な農民がやったわけです。その次の中世的封建制は、土地を封して城を建つというように、領地としての土地であってハードウエアです。そして人間が土地にしがみつくというか、土地と一体になってかろうじて食べている。そのパターンが日本の農業には根強く生きていて、産業化するところまで行っていない。そうなると、とてもじゃないが、日本の農業社会に見る限りでは、近代資本制などの水準には達していないといえます。
小室 とてもキャピタリズムじゃない。
藤原 じゃあ、前に話したように原始共産制ですね。
小室 農業だけでなく企業や産業界までが同じであり、労働力は労働と分化しないまま、労働者は会社という一種の共同体の所属物になってしまっている。古典的な資本主義では労働市場が存在して、そこでは完全な自由競走が行なわれているのに、日本ではそれさえもなくて、賃金でさえ、生きる上で必要な給与を分配してもらう形をとっている。
藤原 原始共産制における分け前だから、交通費や厚生費の現物支給があったり、年功序列の手当てが給料の形をとるのです。
小室 それに〈生産者と生産手段が分離する〉という、資本主義にとって最も基本的なこの性格が欠けている日本の経済システムは、中世的な共同体のままといえます。
藤原 中世じゃなくて古代以前だと思いますね。政治を見ればわかるけれど、どう考えても呪術的ですよ。だから、情報以前なのは当り前かもしれない。
小室 歴史的に見るならば、明治において村落共同体が再編成されたところに、重大な問題が隠れている。村落共同体が底辺にあり、頂点における天皇制とが中間の企業組織や各地の行政組織と一体化して、新しい共同体機能を果たしたところに明治の出発点があった。ところが、欧米の先進国である英米仏蘭といった国では、伝統的な共同体が壊れたことで、近代資本制社会が生まれているのです。
藤原 明治維新によって、日本は近代と結びつかなければならなかったのに、逆に前近代の絶対主義と結合する過ちを犯してしまった。伊藤博文や大久保利通が近代社会の本質を十分に理解しようとしなかっせいです。
小室 そして、第二次大戦を敗戦で迎えた日本は、頂点における天皇制と底辺における村落共同体が崩壊したので、伝統主義的な共同体が企業の中にもぐり込んでしまった。だから、資本制社会だといってみても、欧米諸国と日本ではまったく裏腹の関係にあるのです。
藤原 それだのに、日本の歴史学者は明治維新がブルジョワ革命だったというおめでたい議論をしているんですから....。

中世封建制の鎖国国家の日本
小室 現在の日本は資本主義国家であるよりも、中世的な封建制に基づいた鎖国国家だといったほうがいい。その証拠には、大部分の日本人は外国で暮らすときでも、外交官や在外駐在員の子供たちは一定の年齢になると、必ず日本に帰国させて受験体制の中に入れてしまいます。この時期に外国で高校から大学に行けば、日本が本当に必要とする国際人を作る最良のチャンスになるというのに、それをやらない。なぜそれがやられないかというと、日本の大学を卒業して学閥の流れに乗らない限り出世できないからです。いまの日本では、役人になったり一流の企業に入る条件としては、日本人として日本の一流大学を出ていなければいけないという、妙な不文律があるのです。
藤原 ヨーロッパにはまだ伝統として残っているけれど、大学というのは、学者になるほどの勉強好きか、立身出世をベースにした人生しかやれない小倅が行くところだ、という考え方があります。日本だって明治時代には「まともな商売人のできのいい息子は、大学に行って四年も時間を浪費しないものだ」とか、「ちゃんとした家庭の娘は女学校でしっかりとした学問をして教養を身につければいいので、大学などで悪い習慣を身につけないほうがいい」といったものです。とくに現在のように、大学が幼稚園以下の保育園化した時代に、わざわざ十代の若者を日本に送り返して、保育園に収容することはないのに、それがいかに馬鹿げているかがわからない人が多すぎるんです。
小室 世界の名家には、子供を普通の大学で教育などせずに、家庭教師だけで立派にする伝統を持っているところもあります。
藤原 要するに、私立学校の原点はそこにあったのです。ところが、私立学校がいつの間にか創立精神を忘れてしまい、事業化するとともに、子供の遊び場や預り所になって託児所化してしまった。
小室 日本の進学率は世界一だというけれど、とんでもないことです。藤原さんのように託児所とか保育園と極論はしないけれど、日本の大学の質は実に低い。少なくとも日本にはユニバーシティとかウニベルシュタットと呼ぶに値するものは、ひとつとして存在しない、と決めつけてもいい。
藤原 一般論としては、日本には総合という意味を含んだ大学は存在しない。たとえ総合大学を自称していても、あれは単学です。
小室 ウニベルシュタットではなくて、日本の大学はドイツのホルクスシューレ(高等小学校)です。ユニバーシティなら、教官も学生も自由に移動してしかるべきだが、日本の場合は絶対に動きません。それに外国人の先生がいない。ヨーロッパに行って印象的なのは、ドイツやフランスの有名大学になると、教官だけでなく学生の二割や三割は外国人である点です。
藤原 それはいくつかの小学区が集まって中学の単位になり、中学がいくつかある単位が大学になるように、小学校や中学校は上下関係ではなくて、広がりの単位というのが、そもそもの出発点になっているせいです。そのことは『虚妄からの脱出』という本の中で論しているから、詳細はそれにゆずるにしても、ほんとうの一流大学というのは、教官も学生も全世界の一流を集めるところに、その一流と呼ばれる理由もあるのです。日本には世界を相手にした大学など一つもない。
小室 外人教官など国立大学にはまずいないし、日本では私立だって同じです。当然の結果として、日本で国連大学を作ろうとしても非常にむずかしい。その真相を調べたところ、「日本に大学と呼ぶに値するものが一つでもあるか。自分の国にまともな大学さえ持っていないくせに、国連大学を誘致しようなんて生意気だし、そんな思い上がったバカなことは休み休みいえ」という意見が多かったそうです。
藤原 大学で最も重要なのは図書館だけど、日本ほど大学図書館がお粗末な国もめずらしいですよ。僕は大学に入るのではなくて、図書館の付属大学に入学したつもりだけれど、日本中どの大学をとっても、図書館と名のつくものはあっても、中身は実にお粗未です。
小室 めぼしい本はみな教授が借り出してしまっているし、大学間の連絡がまったくない。アメリカだったら、ハワイ大学でアラスカ大学の文献が電送ですぐ手に入ります。自分の大学図書館にない本でも読める点では、ヨーロッパやアメリカの大学と日本のそれとは雲泥の差です。
藤原 日本の学生が勉強しなくなったというよりも、図書館が十分に学問的雰囲気を維持していないところに、大学の貧困の原因がある。学問的な雰囲気では、日本で最高級扱いをうけている旧帝大や有名私立大学だって、アメリカの州立大学やヨーロッパの地方大学に較べるとはるかに落ちます。それだのに、受験地獄といわれる競争をして、日本の水準で一流でも世界の三流でしかない有名校に殺到するというのは気狂い沙汰です。
小室 とくにひどいのが東大病です。これは最近の『日本「衆合」主義の魔力』で述べています。
藤原 東大なんて役人にしかなりようのない人間の行く所なのに、役人養成所に憧れて青春をすり減らすなんて、実に馬鹿げています。できるだけ早い機会に役人への劣等感から自らを解放した日本人が増えて、東大にしか行けなかった気の毒な人材、という具合に、青年たちの意識が変わって欲しいです。
小室 ほんとうに優れた若者は、自分にふさわしい、世界中で一番いい先生のいる大学へ行って学べばいい。大学は名前や建物ではないのです。
藤原 日本でも、昔は個性ある学校がいろいろあって、現在のような中央集権的な大学制度ではなかったのです。役人志望者や研究者になるような学問好きな若者は帝大に行ったけど、体力に自信があり統率力に恵まれていれば、陸士や海兵に行った。事業を通じて活躍したい人間には、横浜や神戸の高商や一ッ橋もあったし、鉱山なら秋田の鉱専とか医学なら長崎医専のような特色を誇る学校があり、選択における多様性が生きていました。
小室 いまの日本に較べると、戦前のほうがまだ開放的だった。植民地や海外領土もあったので、すべてが東京に収斂していなかったせいでしょう。
藤原 中国語で教育する『東亜同文書院』や、ロシア語で教えた『ハルピン学院』なんかが存在していました。より大きな眼で日本の問題を見つめることができたので、気宇壮大な人物も育ちやすかったかもしれない。もっともアジア主義の枠内だったけど....。
小室 外国の大学で勉強してきた人材が登用される機会も多かった。ところが、現在の日本では、社会自体の考え方がもっと閉鎖的になっており、日本の大学を卒業して内地で採用されない限りまともに扱われない。現地採用なんてことになると、運転手とか通訳なみであり、まともな社員として扱ってもらえないのです。
藤原 パートタイムでもフルタイムでも、その会社のために仕事をする限りは対等だ、という発想が欠けているのです。問題は雇用契約上の身分ではなくて、働く上での姿勢と能力にかかわっているのに、日本では子飼いかどうかばかりが評価される。
小室 子飼いのほうが忠誠心が大きいという、封建思想のせいです。私の友人で慶応を優秀な成績で卒業して、コロンビアの大学院を出た人がいます。ところが、日本の大企業に働いたのだが、現地採用であるために、一生うだつが上がらない。たとえ日本の一流大学を優秀な成績で卒業しても、外国の大学へさらに留学して現地採用になると、もう駄目。実に驚くべきことだが、それがまかり通っているのです。
藤原 精神における鎖国という意味では、日本はあい変わらずで、徳川四百年をやっているようなものです。日本文化をベースにした発想というか、日本文化の中に埋没しているために、日本人の行動様式は昔から少しも変わりようがないのです。それが政治にも経済にも反映しているだけでなく、教育さえもその方向で回帰運動していて、日本中が昭和元禄とかいって江戸時代の水準にとどまっています。
小室 どんどん悪くなっている。たとえば、明治時代にはお雇い外人がたくさんいて、アカデミーの世界だけでなく各界で活躍していました。
藤原 ボワソナードやベルツなんて先生が有名だけど、ナウマンにしろフェノロサにしろ、日本のために貢献する仕事をしてくれました。
小室 それに、外国の大学で勉強してきた日本人は、人材としてすごく歓迎された。単なる洋行帰りではなくて、外国で鍛えられた日本人として敬意を払われたのです。
藤原 学校を卒業してなくたって、海外生活を通して見識を高めた人間として、活躍の場が与えられた。中江兆民なんてフランスで二年間生活したことで民主主義をマスターし、ジャーナリズムで大活躍しました。
小室 編集者や新聞記者が赤鉛筆を一本耳にはさむだけで、誇りを持って会社を移動した。もっと正義感の強い人間は借金をして自分の新聞や雑誌まで発行している。外に向かって目を開いていたから、国民の前に堂々と登場したのだが、いまではみなが小さなタコツボの中に閉じこもっています。
藤原 明治、大正、昭和ときて、三代目だから退嬰的になってしまった。ローマ字で書く三代目です。それは勃興期の明治に較べると、いまはすべてがエスタブリッシュされてしまったせいで、日本の社会が非常に官僚化して、はつらつとした気慨を失っている。その中でみながサラリーマン化しており、ジャーナリストさえも例外であり得ないのです。
小室 国民総サラリーマンだ。ジャーナリストまでがサラリーマン化してしまうと、その国は駄目になってしまう。
藤原 最近の新聞社では、記者がネクタイを締めて、バリッとした背広を着ています。あれはサラリーマンの制服でしょう。制服を着てはいい記事が書けるわけがありません。
小室 囚人服かもしれない。
藤原 自分で責任を持って仕事をし、判断力と見識を売りものにしない限り、いい記事が書けるわけがない。土曜や日曜に新聞社が休みなんてことでは、新聞記者も気分的にどうしてもサラリーマン意識を持ってしまうんです。
小室 精神的に組織の附属品化しているということです。
藤原 日本人の精神構造は、国と個人の中間にある組織への帰属感を通じて、自己のアイデンティティを自覚する。たとえば、企業や大学や研究所といった組織だけでなく、県人会や閨閥といった中間的な存在がある。そのような共同体の価値観が絶対支配をして、個人としての独自性を抑圧しているのです。
小室 それも、日本の場合は、封建制の遺制として少しずつ改善されるかというと、そうでなく、時とともにますます酷くなっている。
藤原 個人主義が確立されていないから、それが悲劇的な様相を帯びるのです。日本にとって重大な選択は個人主義か全体主義かであり、このままだと全体主義へ雪崩れ込みそうです。
小室 日本の社会は、企業のような機能集団が共同体になっていて、しかも、それが運命共同体として信仰化している。
藤原 運命共同体が価値観共同体になっていて、共同体を神聖視するのです。そうなると批判することは裏切り者の行為というわけで、中世的な火灸りの刑をやられるのです。
小室 日本的な陰湿ないびり出しと村八分がそれです。明治時代はそれほどひどくなかったのに高度成長のあとは江戸時代よりも悪くなった感じです。

ヤマトニズメーションと日本文化
藤原 明治時代が現在に較べるとより開放的な精神に満ちていた理由は、明治が第二文明期の生成と発展の時期にあったせいですよ。
小室 第二文明というのはどんな内容で、どうして第二なのかがわかりませんが....。
藤原 これは僕の仮説でして、詳しいことは『虚妄からの脱出』という本で論じていて、日本文化はこれまで三つの異なった外来文明によって文明化されたという考え方に基づいています。前にも言ったように、文化には文明化するものと、文明化されるだけで文明化し得ない二種類があって、日本文化は後者に属します。
小室 なるほど。同調はしないけど面白い発想ですね。日本文化は絶対に文明化し得ないということは、普遍性を持たないからでしょう。
藤原 まず第一に、日本文化とは何かという問題を考える必要があります。日本人は日本文化というと、平安文化や元禄文化をすぐに思い出すが、実はあれは日本文化ではない。あれは中国文明において日本人が理解できた部分や、日本人が自分に都合がいいと思い、換骨奪胎して日本化したものにすぎません。
小室 たしかにあれは中国文化を模倣したものといえる。しかも、スケールダウンして模倣している。たとえば、宦官制などは日本人にとって都合がよくなかったわけだ。
藤原 理解できなかったということでしょう。卑弥呼に見るように、日本は母系支配が主流だったし、大奥は御殿女中が支配していたように、天照大神以来、この国は女性上位でした。
小室 戦後強くなったのは靴下と女性だといわれているが、女性は建国以来強かったことを日本人は忘れている。昔から日本では女性は太陽だった。
藤原 そこで日本文化とはいったい何かという問題にもどると、中国の文明が日本列島に影響力を及ぼす以前の段階に、この日本列鳥の上に存在していたものがそれです。前文明期とでも呼んだらいい文化現象が純日本文化であり、これは縄文式土器にその跡が部分的に残っています。しかし、クロノロジカルには縄文以前です。
小室 旧石器から新石器にかけての時代ですな。建国以前に純粋な日本文化があったというのは面白い皮肉です。
藤原 純粋な日本文化の片鱗は『魏志倭人伝』の中に、卑弥呼の記録として残っていて、呪術的な母系社会です。しかし、日本文化は卑弥呼よりもはるかに昔の太古時代に最も栄えていて、それは天と地の息吹きの中で大自然と結びつき、動物の本能感覚に近い土俗的な性格を持っていたはずです。存在様式としては、現在の恐山に巫女に近く、制度としては、神道と結びつた天皇制祭祀が現在に原形を伝えている。学問的にいえば、繁殖祭祀と鬼道神仰に基づいた土俗文化だし、俗っぽい社会学的形容なら、生めよ増やせよと享楽的人生観です。こういう分析は日本人には受け容れられないが、固体発生としての日本文化は、実はこの国の系統発生の初期の段階を体現しているのです。
小室 シャーマニズムの世界が現在に続いているから、日本人は規範なしでも生きていけると見れば、日本の社会が原始共産制であるという説も納得できる。しかし、どうして二千年以上にわたって古代的なものが日本人の思考様式や行動様式の中に残り続けているかが問題です。
藤原 それはヤマトニズメーションということですが、その前に日本文化の関係を簡単に考察してみます。卑弥呼の時代以来、日本列島には大陸文明が少しずつ伝わってきたが、本格化するのは大量の朝鮮系帰化人が渡来した、六世紀後半の聖徳太子の時代です。第二文明期は幕末か明治維新の時期に始まったヨーロッパ分明で、その曙は種子島に鉄砲が伝来した十六世紀頃です。そして、第二文明期は第二次世界大戦が終わる一九四五年までです。続いて、アメリカの機械文明が第三文明として始まり、現在は第三文明時の最後の段階に属しています。
小室 そうなると、必然的に第四文明が始まるわけですな。その前に日本は崩壊するのではないですか。そこで私の日本社会崩壊のモデルとしての構造的アノミーの問題と、第三文明期の終りが結びつくことになります。
藤原 小室さんのアノミーは構造的な側面でとらえたものであり、僕のヤマトニズメーションは生態学的な観察に基づいた概念です。それぞれの文明期の始まりの段階では、襲来した外来文明の大洪水によって、日本文化的なものは完全に水没してしまうのです。そして、文明と理想主義が結びついて新しい憲法を作るわけで、聖徳大子の十七案の憲法、欽定憲法、平和憲法が、それぞれの文明期を象徴しています。
小室 それは視点として非常に新鮮で面白い。もっとも、憲法でなくて鰯の頭でもいいわけでしょう。
藤原 それぞれの文明期をもたらせた地域で長らく支配的だった考え方を、憲法として導入するわけだから、一応、当時における理想と結びつかないと、ありがたく思えない。いうならば、文章化した言霊精神で、すべてオリジナルを提供してくれた国の考え方を翻訳したのです。平和憲法を翻訳憲法と悪口をいう人が多いが、実は明治憲法はドイツ語のプロシア憲法の翻訳だし、十七案の憲法は中国の古典を和訳しただけのことです。
小室 その翻訳が誤訳だらけだった。
藤原 一番上手に訳したのが聖徳太子でした。最低は伊藤博文と金子堅太郎が金沢八景の漁師小屋を貸りて訳した欽定憲法で、翻訳者がはっきりしていない平和憲法は、中学生の英文和訳の答案みたいで、日本語としてはあまり流暢じゃないですね。
小室 日本語としてスムーズになりすぎると、今度は意味がさっばりわからなくなる。明治憲法は漢文調だから、詩吟でも歌っているような感しがするので、意味がわからなくとも気分的にはさわやかに聞こえるのです。それにしても、文明期と憲法の対応は面白い視点だといといえますな。
藤原 始まりに理想を憲法として持った各文明期は、時間の経過によって理想が色あせてきて、水底に沈没していた原日本文化とでも呼んだらいいものが次第に息を吹き返すに従い、内部に空洞化現象を生み出すのです。空洞化が進むに従って、享楽的で本能的な傾向が社会に蔓延し、最後に発狂状態を呈します。この空洞化から発狂へのプロセス全体を、僕はヤマトニズメーションと名づけたわけです。
小室 ヤマトは国のまほろばだから....。
藤原 その発狂状態というのが社会学的に見て興味深い点でして、日本人のエネルギーが破滅へのエトスとして、エモーショナルで破壊的になるのです。第一文明期のヤマトニズメーションは、元禄を経て本能をむき出しにした文化文政の享楽主義に結びついていく。そして、ええじゃないか、おかげまいり、一揆や焼きうち、そして、暗殺や天誅が幕末を特徴づけ廃仏毀釈といった狂気現象の渦をかき立てました。山県有朋が狂介と名のったり、高杉晋作が西海一狂生と号したり、吉田松陰が「狂夫の言」を著わした時代性がそこにあって、第一文明期は大崩壊したのです。
小室 それに、うまい具合に黒船もきたし、ロシアの船も日本近梅に出没して、ちょうどいまの日本と似ている。エンタープライズとミンスクが新しい開国を要求しているわけです。
藤原 第二文明期は昭和のはじめのエロ、グロ、ナンセンスに続いて、五・一五事件や二・二六事件があり、死の季節なども流行しました。それからあとは、神がかり的な新体制運動が全体主義化して、天皇制ファシズムに係り結んでいく。そして真珠湾奇襲からあとは支難滅裂で、神風が吹くのを待って一億玉砕を叫び、そのうち大日本帝国が狂い死にして、総懺悔ということになってしまいました。
小室 戦争は国際紛争を解決するための効果的な手段であるということを、理論的に理解するだけの頭脳が日本にあったなら、真珠湾奇襲を考えると同時に、いかに戦争を終結するかを政治のレベルで構想し得たはずです。ところが、それさえ日本には存在しなかった。それは戦争目的がいったい何であるかについて、わかっていた人間がいなかったからです。だから、何のために戦争をしているのかわからなくなってしまい、南京が陥落したといっては提灯行列をして踊り狂ったし、敵艦を沈めたということで赤飯をたいたのです。これはもはや戦争ではなくてお祭りみたいなものです。
藤原 日本人は戦争と戦闘をゴチャ混ぜにして、どう違うかを考えようともしない。だが、「戦争は他の手段による政治の継続だ」とクラウゼヴィッツがいっているように、戦争は軍備や外交だけでなく、産業社会の全ポテンシァルを動員して行なわれる政治におけるゲームです。ゲームである以上はルールもあるし定石もあるのに、日本人はそれを単なるプレイとして遊び半分にというか、気の向くままにやって一喜一憂することに満足していたのです。
小室 日本人は完璧といっていいほどの盲目的な予定調和説の患者でして、ロジカルであることなどどうでもいい、おめでたい人間の共同体を作っている。科学的にみても、昭和の時代に神風が吹くなんてことを、一億人が真面目に信じられるわけがないのに、それを盲信していたのが日本人です。
藤原 これからアメリカとの関係が破綻する段階で、再び神風神話が蘇るのではないですか。というのは、第三文明期がヤマトニズメートして発狂しかけているからです。昭和元禄の享楽主義はオリンピックや万博といったお祭り騒ぎで本格化し、現在の日本は、トルコだポルノだといって国をあげて刹那的になっています。政治だって滅茶苦茶で、外交を考えるより靖国神社の参拝や建国祭典のほうが重要だと考える連中が、閣僚になったりして、救いがないです。
小室 「共同声明に外交上の拘束力はない」というまったく外交的禁治産者としか形容のしようのない人物が、外務大臣をやって恥さらしなことを繰り返している国です。しかも、首相だって政治的禁治産者が内閣総理大臣をしている以上、もう日本は駄目ですよ。

第四文明期の夜明け
藤原 間もなくどうしようもなくなって、日本はヤマトニズメーションのフィナーレの中で崩壊します。いくら工業力を誇ってみたところで、産業社会の内部が完全に空洞化していたら、これは自分の重みだけで潰れてしまう。しかも、重工業化の度合が強まるに従って、耐久力は弱くなる。
小室 規範がない状態はアノミーということばで現わされ、赤軍派事件やロッキード事件に見るように、社会の中核を構成しているエリートや一般市民が、自らの手で自分の属している社会に壊滅的な打撃を与えることを、平気な顔をしてやってのける。しかも、国をあげて無責任体制がはびこっていて、組織的な自己規律の面で大きな欠陥を持つ人たちが過剰な権限を持っているから、日本における破局はきわめて急激な形で起こると予想できます。
藤原 一度破局に見舞われない限り駄目だとすると、きわめて悲惨な状況を予想しなければいけませんね。たとえば、国民の過半数が餓死しなければならないとか、飢餓線上をさまようといった具合に。
小室 日米関係が中国問題で破綻したなら、それくらいのことは簡単に起こるでしょうな。一九四五年の無条件降伏をしたときや幕末などとは比較にならない、もっとすさまじい破局です。
藤原 破局がこないようにするにはどうしたらいいかについては、日本に絶滅寸前の状態で残っているほんものの知識人に考えてもらうとして、われわれは破局を迎えた廃墟の中からどんな新生日本を築き上げたらいいかを論じたほうがいい。なぜならば、次にくる新生日本は第四文明期としての新時代だと考えるからです。
小室 一つの可能性としては、とてもじゃないが第四文明期など迎えることが絶望的なほどの、徹底的な壊滅状態があり得ること。もうひとつは、幕末や太平洋戦争後の復興になんとなく似たような、ある意味で軽度の破局です。そして、この中間に相当するものもいろいろな形で存在するが、熱い形よりも冷たい形でやられるというか、日本人が餓死したり凍死したりする可能性のほうが、蒸発する可能性よりも強いと思います。
藤原 蒸発というのは、日本の上空で水爆が炸裂するわけですね。希望的観測と現実はなかなか一致しないにしても、僕はそんなことがないようにと希望しますね。昔書いた本に『日本丸は沈没する』という題名のものがあり、その中に「経済封鎖の政治学」という章があるが、おそらく、その応用としての封鎖作戦のバリエーションが駆使されるはずです。しかも、現実にそれはやられているのであって、日本人がその内容について気がついていないだけです。
小室 日本を締めあげるのには、何も戦争などしかける必要はないのです。国籍不明の潜水艦でも使って、日本のシーレーンを分断してしまうだけでいい。ソ連がやってもアメリカがやってもお互いに知らん顔をしていればいいのであり、そうなれば日本はじり貧です。
藤原 国際的な相互依存関係ができ上がっている以上、アメリカもソ連もそんな低級な軍事的な挑発戦術をとるとは思いません。もっとスマートな頭脳戦をやります。一番いいのがクォータ制による輸出の制限で、輸入は自由にしておいて、資源や食糧に輸出税をかけるとか、戦略備蓄という名目で資源のフロー分を先物買でストックしてしまい、値段を高くするのです。銅、大豆、穀類、それに貴金属や石油でそれをやられたら、日本はたちまち参ってしまいます。
小室 日本だけでなく他にも困る国が多いから、もっと日本を直接痛打するようなやり方を使うでしょう。
藤原 それでやられていまの日本が一巻の終りになったとすると、混乱期は少なくとも十年以上は続くのじゃないですか。そして新しい国づくりをして第四文明期の日本を築き上げなければいけないが、その時代の特性は地球文明ということになると思うんです。大陸次元の文明に代わって、いよいよ地球がひとつのユニットになった形での国際関係が成立するのです。
小室 そうなると、まず現在の国連を改組して、もっと汎世界的な機構に作り変える必要が有る。
藤原 その前段階として、現在の国民国家の枠組みをどのように作り変えるかのほうが重要です。情報をエネルギー源にした知識集約型への産業社会の指向が、十九世紀的な国民国家の枠組み矛盾し始めている。とくにオンタイムでのコミュニケーションがテクノロジーの発達によって現実のものになったので、企業が一国の枠を超えてグローバルな活動をやり出した。それが多国籍企業によって象徴されています。
小室 海外で仕事をしている日本の企業は沢山あるが、ほんとうに多国籍企業と呼ぶに値する組織はほとんどない。大部分の会社は日本から派遣された人間が本社のある東京と結びついて仕事をしている。しかも、その日本人は子供たちの教育のために、一定の年齢に達すると、日本の学校で学ぶということで帰国をさせる。こんなやり方をしている限り、日本人は偶然外国にいるだけで、外国のコミュニティやソサイエティの中で、現地人といっしょに仕事をしていることにはならない。鎖国令は出ていないとはいえ、これでは鎖国をしているのと少しも変わりません。しかも、現在の日本は急速度に封建的な世の中に逆行している。日本人が現在の日本の社会を近代だと思っていたら、それはとんでもない誤解です。近代社会を特徴づけている最も重要なものは、絶対的な主権と市民法だが、日本人が帰属意識を強く感じている共同体の中には、市民法が入っていけない。共同体中には一種の超法規的なものが支配していて、人間の内面や人格さえもコントロールしている点では、日本は正真正銘の封建主義が君臨している。
藤原 封達主義であるがゆえに、その反動として、国際化ということばが大声で叫ばれています。国際化ということばをなんと訳していいかわからないというのが、日本以外の先進国民の実感じゃないですか。
小室 少なくとも英語には国際化などという単語はありません。孤立化はあるけどね....。
藤原 短絡的にオープン・ドア・ポリシーと誤解している人が多いけど、国際化の正体は思考法や行動様式の次元での問題です。現象的には多様性を日本の中に取り込むこともそのひとつで、海外進出だけでなく外のものを内に取り組む努力を通じて、最終的には、日本文化を乗り越えるところまで行かなくてはいけない。
小室 ひと口で日本文化を乗り越えるといっても、日本文化がいったい何であるかをわかっている日本人がほとんどいない以上、これは乗り越えようがありません。さっき話にあったが、日本人のほとんどが平安文化や元禄文化のようなものを日本文化だと考えている。文部省の役人だって芸術院の会員だって、それ以上のことは考えずに、歌舞伎や華道を日本文化の代表だと信じきって疑おうともしない。だから、この国では、何でもかんでも文化をつけてありがたがってしまうのです。
藤原 そして、尺貫法を復活させるようなことが、文化的に意味があると誤解してしまうのです。実は、第四文明期をシンボライズしているのは、単位の基準を世界的なスケールで統一しようという啓蒙運動で、新しいタイプのメートル法がそれです。それはビジネス、知識、技術、思想といった分野で、オンタイムで情報の即時転換効率を高めるために、文明の次元で基準を統一しようということです。フランス語のシステム・アンテルナショナルのイニシアルを取ってS・Iと呼ばれています。
小室 ローカルな単位があすぎるので、世界言語としての単位を決めるわけで、きわて数学的であり論理的です。
藤原 古いメートル法はセンチメートル、グラム、セコンドを基本にしたCGS単位だったけれど、S・Iは七つの基本単位でできています。長さはメートル、質量はキログラム、時間セコンド、温度はケルビン、電流はアンペア、分子量はモル、光度がカンデラです。
小室 日本人がロジックに弱いのは数学的な思考が苦手だからであり、これから生まれてくる日本人たちが新しい教育の中で、より数学的な発想ができる人間として育ったら、きっと第四文明期というのは素晴らしい時代になる。数学的な考え方ができるようになるということが、日本人を鎖国体制から解放する上で一番大切です。

ヤミの経済の裏表
藤原 日本の現状が国をあげて鎖国体制にあることは、経済大国と胸を張っている日本の経済自体が、実は「ヤミの経済」によって成り立っている事実が明示しています。これ小室さんが得意にする、ヤミの経済が世界における各国の生存条件の基本を見る上で、最も重要な指標だ、ということに関係しています。ソ連はたしかにヤミの経済であるがゆえに、ソビエト帝国が崩壊するという結論が出てきたのでしょうが、日本だって同じです。
小室 ソ連における最大の危機は農業問題に集約的に現われていて、国営農場や集団農場が全部駄目で、私営が認められている自留地農業だけがいい。面積としては全体のわずか一パーセントでしかないのに、売上高からすると二七パーセントに達しています。また、ソ連の商業や工業にしても同じで、国営の表の経済は全部駄目になっているが、裏の反経済が隆々と栄えている。たとえ国営工場にしても、裏の企業で部品や材料を調達しない限り、ノルマが達成できない状態だから、役人を含めて上から下までヤミのシステムの中に組み込まれています。
藤原 ソ連の場合は、公務員しかいないからすべてが役人ということですね。だから、国をあげてヤミの経済が成り立っているのだけど、それは産業社会が一国社会主義として閉鎖的なことと、労働市場がないので、働く人間が仕事をする共同体に従属しているせいです。社会が閉鎖的になればなるほど、自由度が減少して秩序による締め上げが強くなり、生きるための人間の知恵としてのブラック・マーケットが出現するのです。
小室 ソ連には労働市場がないだけでなく、商品市場も存在しない。ということは、日本の封建時代と同じで、貨幣が一般性を持っておらす、お金を持っていても商品が買えるとは限らないのです。ある商品を購入できるかどうかは、お金の有無ではなくて、商品の有無にかかわっている以上、運のよさが決め手になる。これでは経済がまともに機能するはずがない。
藤原 それはレーニンが神を否定してしまった皮肉な結果で、神の見えざる手が存在しなくなったせいです。インビジブル・ハンドが市場機能をうまく調整するのに、それがなくなって、ついに、裏の経済がビジブルになってしまった。
小室 ビジブルなんてものではない。もはやヤミ経済が存在しないと、ソ連の経済は動きがとれないところまできています。貨幣と商品の立場が逆転しているソ連では、すべての貨幣が商品に恋をする状態であり、行列があったら何を売っているかにかかわらず、まず並んでみるという、おかしなことが当り前になっています。
藤原 需要と供給のバランスが、供給不足によって狂ってしまったせいです。しかも、商品の供給が不足すると、商品市場としてのヤミ市になるし、通貨が不足するとヤミ金利になるという意味で、インビジブル・ハンドが機能しない社会には、たちまちヤミの市場が出現するのです。この論法からすると、日本は大量生産可能な商品では問題がないけど、労働力集約型のベースになっている食糧と土地に関しては、完全にヤミが支配する体系になっています。不動産としての土地や家がアメリカの五倍だとか、米の値段がカリフォルニア米の四倍している事実は、政府がヤミにからんでいるせいです。
小室 要するに、政策的に市場に政治権力が介入して統制しているからです。牛肉がアメリカの八倍していたり、グレープフルーツが五倍もする。これは、農民保護という名目を使って農業の近代化を妨げ、それを自分たちの権力体制を支える基盤を強化するのに悪用する、封建主義的な狙いがあるせいです。また、それがまかり通っているところに、日本はあい変わらず中世的な封建社会といわざるを得ない土壌がある。日本では政治がいまだ裏のままであり、近代としての表の政治になっていない。政治というのは、近代の民主社会ではリスペクタブルなものであって、表のものとしての透明性を持っているのに、日本ではあい変わらず密室政治が続いて、黒い霧に包まれています。
藤原 政治の世界がヤクザの世界と共通していて、親分子分の関係や義理と人情によって支配され、情実人事や陳情予算などがまかり通っている。これこそ日本における最も悲惨なウラの世界の表面浮上現象てす。こういったことを含めて、僕はヤマトニズメーションということばを遣うのです。つまり、アンダーグラウンドが表の世界を支配する状況です。

ヤクザ世界のオピニオン・リーダー
小室 社会の規律が崩れているというのは、ことば遣いから考えてみるといい。そのひとつが国会であり、ヤジり方ひとつを見ても、実に品がない。とても社会の鑑なんて存在ではないし、行なわれている議論に見識もなければ品性のかけらもない。その点では、さすがにアメリカの議会では、そのまま活字にして後世に残して、ハイスクールの教科書に出せるほどの充実した討論がある。雄弁術の伝統があるせいでしょう。それに、アメリカ人は家庭生活の中で遣うことばに関しては、実に厳格にしつけているし、それができることによって中流の市民としての自覚が備わるのです。
藤原 日本人の場合は、国民の九割以上が中流意識を持つとい世論調査の結果があるそうですが、この中流意識は物質的な生活水準をベースにしているだけです。中流であるためには、人間としていかに自信と誇りを持ち、リスペクタブルな市民としての存在であり得るかという視点が不可欠です。ほとんどの国民が、平等意識の中で似たような生活をしているからといって、それで中流だと思い込めるなら実に幸せな人々です。だから、二十世紀に原始(グラスルーツ)共産制を完成させて、それを自由や民主ということばで飾り立てても満足できるんですよ。
小室 アメリカだって階級社会だから、中流になれない下層階級は存在します。しかし、中流であるための歯止めみたいなものがしっかりと存在している。リスペクタブルな市民はギャングの遣うようなことばは、けっして使わない。もし子供がそんなひどいことばを遣えば、親が責任を持って叱ります。
藤原 それは日本だって同じ伝統を持っていて、ちゃんとした家庭ではしっかり子供の躾をしたものだけど、自信を持ってそれをやる家庭が少なくなったのと、次の世代をしっかり育てるために躾は家庭でやるのだと自覚を持つ個人が、刻一刻と絶滅しているからです。この頃では、田舎も都市化の波に流されて、至るところで、田園まさに荒れんとす、という状況、しかも、帰りなんいざ、と思うだけの魅力もなくなっています。
小室 先ほど話題になったけど、ニューヨークやロスアンジェルスがアメリカではなくて、ほんとうのアメリカは中部などの田舎にあるということは、実にあの国の秘める魅力になっています。アメリカの田舎では躾はたいへん厳格であり、娘などは暗くなったら外出させません。暗くなってからエスコートなしで外へ出かけていくような娘はドラ娘ということになり、社会からつまはじきにされる。ギャングのことばはリスペクタブルな市民が遣わないこととともに、いい文明の見本としての本がたくさんあって、それが若い人が読まなければいけないものとして、若者から次の若者へと読みつがれています。
藤原 そういった本が日本には実に少ないです。昔は三木清の『人生論ノート』とか、山本有三の『心に太陽を持て』といった本が少年期から青年期の若者に読まれたものだけど、それが紙屑のような雑誌や娯楽本の洪水の中で、行方不明に近い状態になってしまった。それに、日本には誕生日や進学、あるいは入学や転職の機会などに、より年をとった世代が若い人たちに激励と挑戦への期待を託して、贈り物にするような本が実に少ない。本の内容だけでなく製本まで心をこめたと感じられる本が、これだけ本が氾濫している国に存在しないのは実に不思議です。
小室 落ちついて本が読めるような条件が、日本の住宅事情では期待できないことと、本は電車の中で読むから安くて手軽なものでいいという読者側の要求。それに大量に売るためには買いやすい定価にしなければならないから費用をかけない、という出版社側の事情が響いているのです。
藤原 最近の本屋は売れる本しか並べていないから、次の世代に読ませたい本のほとんどは置いてない。リスペクタブルな市民のための本は、図書館だって予算不足と勉強不足で備えていません。たとえば、小室さんの『危機の構造』だって、僕の『虚妄からの脱出』だって、常備している本屋は百軒に一軒です。
小室 リスペクタブルな市民がリスペクトされていない以上、それを嘆いても始まりません。それに、テレビで品のないことばが遣われているといわれたが、日本の場合は、ヤクザことばが無媒介的に普通のことばの中に入っています。そのいい例が「駄目」ということばで、これは囲碁でも遣うけど、バクチことばで、サイコロで当たらない目が出たら、駄目という場合もあると聞いた事がありますよ。しかも、非常に重要なことは、賭けをする行為はヨーロッパ的カルチャーからすると、貴族の風習です。だから、同じ賭けごとといっても、英米人のギャンブルのセンスと日本人のそれは、本来ならば正反対でなければいけない。日本では貴族はギャンブルなんかには手を出さない代わりに、ヤクザがそれをやるわけです。
藤原 パリだったらロンシャンだし、イギリスの競馬場ならロンドンの南のブライトンなんかに、貴族の野遊びとしての競馬があります。はたして現在でもシルクハットをかむっているかどうかは知らないが、タキシードを着てシルクハットをかむっていくのが昔のイギリスの競馬風景です。とくに春の競馬シーズンには、白のタキシードと白のシルクハットが貴族社会の伝統です。ところが、この前、皇大子夫妻がイギリスを訪問したときに、春のブライトン競馬に出かけていて、そのときの写真がイギリスの雑誌に出ていたのを見て仰天してしまいました。全員が白いタキシードとシルクハット姿をしている中に、日本のやんごとなき人が、まったく場違いの黒のクキシードとシルクハット姿で現われているのです。ロンドンの日本大使館員の中に誰一人として、春のブライトン競馬に行くイギリス貴族は黒ではなくて白を着るのが正装だと心得ている人物がいないということですよ。
小室 経済力だけはどうにか一流の水準になったが、世界の水準での常識というか、教養が欠けたままだからです。いうならば、日本は成り金国家であって、はたして、世界の貴族仲間で国としてリスペクトされているかどうかは、経済大国という看板だけでは決まらないのでわからない。
藤原 世界的な水準で通用するような帝王学を身につけた人材が、日本の場合、あまりにも少なすぎます。これまでに海外留学した日本人のほとんどは、国費留学生として学者になるか役人になるかといった立場の人材だった。あるいは、金持の息子たちが遊学しているけれど、帝王学までやった人材はいません。ヨーロッパの貴族の子弟たちといっしょに、思う存分に遊び徹底的に何ごとかをマスターするところまでやった日本人は皆無です。
小室 それに戦後の留学の主流が、フルブライトをはじめとして、アメリカ指向でした。勉強はしたかもしれないが、帝王学なんてところまでは、とてもやっていません。
藤原 よく学びよく遊べということですが、日本人の場合はセクショナリズムが強くて、遊び派か学び派に分極化して派閥を作るのです。それも、ほんとうに高尚な遊びはあまり知らないで、俗な遊びしかできない。ヨーロッパにはいまだに貴族のサロンなども存在しているけど、教養と品性を武器に、その中で活躍している日本人はほとんど女性ばかりで、男のほうは残念ながら影が簿いです。
小室 日本の男は内弁慶だから....。
藤原 モルガンお雪やグーデンホフ男爵夫人のように、日本人は女性のほうがはるかに国際的に通用する人が多い。日本の男は赤提灯で愚痴をこぼすような、ウラブレた人種が多いのです。それが競馬場の風景に反映していて、誰も紋付き袴で競馬見物に行くなんてことはせず、何かズボンの筋も消えたようなウラブレ姿の人たちが、血まなこになってやっています。伝統が違うといってしまえばそれまでのことだけど、明治の日本人の中には、日本の伝統をマスターしただけでなく、中国やヨーロッパの伝統まで完全に自分のものにした人間がいたけど....。
小室 伝統が達うとすれば、ヤクザのやるようなことは、リスペクタブルな市民はやらないはずだのに、いまの日本ではそれさえも目茶苦茶だ。「ヒモつき」ということばだってヤクザことばであり、現在は普通に遣われているけれど、ほんとうは非常に下品なことばです。
藤原 日本では週刊誌や大衆向けの月刊誌を出している人たちが、自分がやっているのはヤクザ世界と紙一重の水商売をやっているという自覚がない。それに、そういう連中に限って、「オピニオン・リーダー」なんてことを口にしているから始末が悪いのです。
小室 ヤクザが仁義をうんぬんすること自体がおかしいのに、この頃では正義をふりかざすようになった。ところが、正義なんてものは空箱と同しで形式にすぎず、単なる価値観として相対的な存在でしかないのです。そういった本質の問題をはっきりと理解せずに、単なるスロ−ガンをかかげて陶酔することで、それが自分のものになったと思い込むのです。
藤原 そのスローガンをヤクザを自称する人が叫べば、誰もそれに惑わされることがない。ところが、本来ならヤクザの世界の住人であるべき人物が、苦学の果ての洋行帰りということで、大学教授の肩書きで知ったかぶりを書き散らすから、世の中が混乱するのです。現在の日本の大学教授なんて質が低下しており、戦前の高等小学校の代用教員並みの水準です。そんな程度の人物が大学教授の肩書を種に、見識の代わりに知識をつめ込んで、文化人が得意になって「知性」なんて不似合なことばを振りかざして、マンガ的な知ったかぶりをまき散らしたでしょう。ニセ者が知性という素晴らしいことばを乱用したお蔭で、日本語としての知性ということばは汚辱され、ことばが秘めた価値観は完全に穢れてしまった。過去十年間にわたって、ニセ者たちが裏の世界から表の世界にくら替えしてくる前までは、日本にはまだ清水がチョロチョロと流れていた。それが、あっという間に消え果てて、日本全体が何か濁ったドブになってしまった感じです。
小室 急激に社会全体が封建的になり、アノミー現象が広まったせいです。また、これこそ本来の日本であるといえるかもしれない。反文明化というか、あなたのヤマトニズメーションの一般化かもしれません。
藤原 内発的な運動です。日本にかろうじて存在していた泉や小川に、外部から濁った汚ない水が流れこんで穢れたのではなくて、日本の社会が閉鎖的であるがゆえに水が流れず、淀みの中で水が刻々と腐敗していく。そして、本来は水底のドロや芥として沈澱しているべきのものが、ちょっとした機会に淀みをかきまわす動きとともに浮上し、アンダーグラウンドが表に現われ、上下の価値観の逆転が成立したのです。
小室 しかし、これからはもっと醜くなることは疑いなしだ。だから、非常に危ない。


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