日本人の「一般行動論」を衝く




ニセ領収書と嘘で固まった社会

藤原 それが文化の次元だけなら、それほど心配することはないのです。社会現象における表面的な腐蝕作用としての逆転であれば、まだ産業社会がそれに毒されていないということで救いがある。しかし、産業社会が文化によって行動様式を規定されていく中で、次第に中枢近くまで腐蝕が進行してしまい、現在の日本はかなりクリティカルな状況にあるのです。まず第一に、現在の日本はすべてエスタブリッシュされていることにより、企業家精神を持った人間を生み出す能力を持ち合わせなくなっている。当然のことで、フリー・エンタプライズの思想は絶滅してます。
小室 中世封建社会とフリー・エンタプライズとはあい容れませんよ。
藤原 社会全体がなれ合いで成立し、しかも、なれ合いが習慣になり、習慣が定着して意識が麻痺することによって、それが社会一般の慣行ということで、日本の社会に嘘が蔓延しています。僕はアメリカでビジネスをしている人間であり、ビジネスをやる道程で日米の行動様式を比較してみると、人間に対する信用の面で雲泥の差が見つかり、呆然とするばかりです。それを最もよくシンボライズしているのが領収書です。アメリカでは、まず、ニセの領収書なんて発行されたこともなければ、他人にニセ領収書を作るように頼むなどというこもありません。
小室 ニセの領取書など発行すればたちまち監獄行きです。社会が契約によって成り立っているアメリカは、歴史的に検討すると、宗教国家のなれの果てであり、地上において社会契約説を最初に実現した国家です。そして、いまいわれた、信用がすべての基礎であるということは、そこに確固とした規範と、社会秩序を国民の意志によって作るというフィロソフィーがあり、それが国を築く上での基本になっている事実を示している。もっとわかりやすくいうと、近代資本主義の社会においては、金銀財宝や札束のようなものではなく、信用が一般的に交換手段や流通手段となり、経済システムがスムーズに動いていくのです。
藤原 信用は何よりもたいせつなものであり、信用を創ることと並んで一度手に入れた信用をいかに損なわずに保持し続けるかが、アメリカの社会で生きる上での、最も基本的な価値基準になっています。もちろん、人間にはピンからキリまであるし、キリの領域に沈みこんでいる連中は問題にするまでもないので除外すると、アメリカ社会におけるまともな人間にとっては、信用を損なうことはしないのが、人生における最大の課題になっている。また社会自体がそういった生き方を貫き通せるような規範を作りあげている。その人が他人に対してだけでなく、自己に対して正直であり、それが信頼関係のベースだということで成り立っている社会だから、領収書のあるなしは重要ではなくなる。領取書という外延物があることによって出費が証明されなくたって、人間として嘘やごまかしをするような心の持主でない以上、請求している全額は事実であり信じ得る、という発想で、領収書がなくたって出張費は認められるのです。
小室 アメリカでは、偽証がいかにシリアスな犯罪であるかについて、最近になって日本人もわかってきたようですが、いまだその本質について十分に理解し尽くしているとはいいがたい。何年か前にイギリスでプロヒューモ事件というのがあって、陸軍大臣が辞めさせられた。売春婦を使ったスパイ事件により、国家機密が漏れたということですが、問題が辞職に発展したのは、大臣が売春婦と関係したとか国家機密が敵国に流れたためではなかった。実はそういったことに自分は関係したことはないし、相手の人間も未知の人だという証言が、調べによると偽証であったと立証されたせいです。
藤原 嘘をついていたことがバレてしまい、国会で偽証するような人物は信用がおけないし、公職につくにはふさわしくないというので、社会から葬られたのです。
小室 日本のように、知らぬ存ぜぬでシラを切り通せないのです。嘘をつくような人間は社会から葬られて当然だということが、社会通念として確立している世界です。出来心だからといって大目に見ない厳しさがあるのです。イギリスでだって売春がよくないことは誰でもが知っているし、それが不道徳だと心得ています。しかも、人間が本能に負けて不徳行為をする場合には、うしろめたい気持で人目をしのんで個人として行動する。それは自分が社会規範を破っているという意識がつきまとっているからであり、論理が通用する枠組み内での問題なら、善か悪かで、肯定するか否定するかの対象になります。ところが、同じように日本人が売春婦を買う場合、キーセン観光やマニラの売春ツアーといって毛嫌いされ、どうして特別にセックス・アニマル視されるかというと、日本人が無規範民族と見られているからです。日本でも欧米でも売春行為が不道徳だという点では同じである。ところが、日本人の場合は、道徳とか不道徳のけじめなんかないまま、韓国やフィリピンには売春宿があって公認されている以上、売春婦を買うのは当然だということで、群をなして出かけて行って行列をする。うしろめたい気持でこっそりやるべき行為を、賑やかに大手をふってやるから、日本人は無規範で何をしでかすかわからない無気味な連中と見られてしまい、自国の恥部をひっかきまわす恥知らずということで軽蔑され悪感情を持たれるのです。
藤原 大手をふってやっていいことと悪いことのけじめがつかないというのは、裏の世界が表に出ているということです。ニセ領収書だって同じで、本来ならやってはいけない行為だが、時と場合にはどうしようもなくてこっそり試みられたものなのに、いまの日本では、それが当り前になり、ついには、そうしない限り社会がスムーズに機能しないところまできてしまっている。日本では領収書がないと税務所や計理係が出張や交際費として認めない。「どうですか、ひとつ作ってください」というわけで、空出張のためのニセ領収書を出させるが、これは虚偽である以上、ウソで固まった慣行の中で産業社会が動いている、といえるのです。税務所が形式主義を墨守すればするほど、日本全土にニセ領取書が氾濫して、国中が嘘でこり固まる。だから、日本では相手がニセ領取書を準備していると決めつけて、請求の七割しか認めない査定が出たりするのです。
小室 自分が嘘をついているから、相手も当然嘘をついているに違いないというのが、日本における社会関係のベースになっている。嘘も方便だし、嘘から出たマコトで、嘘をつくことへの罪悪感が社会規範として消失してしまった。これは恐ろしいことですよ。
藤原 一番問題だと思うのは、日本にはほんとうの意味でのプロフェッショナリズムが存在していないことです。プロは絶対に嘘をつかないし、金のために虚偽の発言はしない。また、職業上で得た秘密は絶対漏らさないのだという強い倫理意識が、日本では存在しないだけではなく、それを主張しても通用しない共同体の締め上げがあります。
小室 仲間のうちで秘密を持つのは水臭いとか、あの人間は融通の利かない不人情な奴だということになる。倫理よりも人情が優先してしまうから救いがないのです。
藤原 プロフェッショナルは、金の力で支配されたり、自分の良心を売るようなことを絶対にしないというのが不文律のはずです。ところが、日本ではプロ野球やプロレスラーのように、金の積み方次第で、自分をいくらでも身売りするといった、逆立ち現象をプロということばで表現している。そこに問題が混乱する原因があると思うんですよ。
小室 日本にはプロフェッショナリズムは存在し得ないのです。封建社会では自己の生命を賭けてプロ意識を貫き通していたのでは、命がいくつあっても足りない。より上位の力がそれをねじ曲げるように作用するからです。
藤原 アメリカは石油開発で地上最強国家になった国だけあって、僕のようなジェオロジストは医者や弁護士や公認会計士と同じでプロフェッショナルです。だから、プロとしての自覚できわめて深刻に倫理の問題を意識せざるを得ないのに、日本人には、なぜ手心を加えてもらえないのかと、いつもいわれてしまう。日本の場合は、こういったプロは儀式を司る上でのタイトルで利用価値がある、としか評価しようとしません。
小室 肩書きをありがたがるし、肩書きとプロフェッショナリズムを取り違えている。社長や教授、それに大臣や委員長というのは、職名であり肩書きであって、日本でもプロフェッショナリズムとはまったく関係がないのです。
藤原 プロというのは見識と判断力をベースにした姿勢と、パフォーマンスを要求される特殊な職業にたずさわる人が、一定の倫理基準を備えたときに成立し得る人間の敬称です。そして、何はやってもいいがこういうことは絶対にしてはいけないという行為は、どんなことがあってもけっしてやらないだけの心構えと修行をしている点で、貴族と同じです。それも、単なる家柄貴族ではなくて、帝王学を徹底的にやり抜いたという古代貴族制における貴族と同じです。そこにはノーブレス・オブリジェの精神が生きているし、ものすごく高い倫理観と選民意識がある。しかも、日本でいうエリート意識とは隔絶したものを持っているんです。
小室 日本のエリート意識は、権力機構に連なってるという意味での権力意識でしかない。およそノーブレス・オブリジェなんて感覚はないし、自己犠牲よりは保身が先に立っています。ノーブルであるゆえんは、絶対に嘘やごまかしをしないということであり、たとえ家柄は貴族でも、嘘やごまかしをしたことによって、貴族でなくなる。要するに、貴族というのは生まれつきの家柄の問題ではなく、精神のあり方にかかわっていて、そういった精神を家風として代々伝えていくがゆえに、尊敬されてしかるべき存在であり得るのです。

近代資本制社会と信用
藤原 日本のようにタテマエとホンネが肉離れしてもいい社会では、そのつじつまを合わせるために嘘も方便ということになって、嘘があっても仕方がないのだ、という具合になるのです。しかも、嘘をついてもそれが悪いことだとはならず、状況のほうがたいせつであり、有罪行為だけど状況を考えて無罪扱いをしてやる、いう論理の通用しない結論が出てくるのです。
小室 数学的な発想がないから、集合論的な考え方が出来ず、論理に基づいたアプローチが成り立たないのです。集合論的に考えると、判決を全集合とするときには、有罪はそこに含まれる部分集合であるとともに、無罪はその補集合の関係になる。裁判の判決は有罪か無罪かという二つの集合によって全集合ができているのであって、有罪でもあり無罪でもあるとか、有罪でもなければ無罪でもないという共通部分は存在し得ません。ところが、玉虫色が好きな日本人は、有罪であるようでないような大岡裁きを名判決と考えるし、情状酌量や和解勧告などを好むのです。
藤原 それは法律論からすると大陸法と英米法の差みたいなもので、歴史が古く社会が自然発生的なヨーロッパ大陸では、状況に対しての評価が大きいのに対して、社会が人工的なでき上り方をしているイギリスやアメリカは、状況よりも原則を重要視するのです。日本の場合は社会が古いというだけでなく、原則が存在しない形で社会がなんとなくでき上がっているので、白黒をはっきりさせないボヤカシの美意識が喜ばれる。結論的にいってしまうと、コンテクスト度の高い社会では、表面に表われた行為よりも、その背後にある状況やプロセスのほうを重要視する。ところが、イギリスのように階級の差が大きくて相互コミュニケーションが隔絶していたり、アメリカのような多民族国家は、スムーズな情報の伝達と交換がむずかしいので、判断の墓準としての原則が重要視されるのです。
小室 多様性が存在すればするほど、社会規範がないかぎりまとまりがつかなくなるせいです。客観的な規範は人工的であるがゆえに、非人間的になりやすいが、状況や事情、あるいは個人の都合という主観的な世界が重要視されるところは、一見するとウェットで人間的です。ところが、下手に感情問題がこじれると、どうにもならないほど事態が深刻化して、怨みや怒りの激突になり、かえって非人間化することが多いので、状況を重視せざるを得なくなる。
藤原 その辺に欧米にみられる状況タイプのカトリック系と、原則タイブのプロテスタントの差があるし、アジアになるとカトリック以上に状況的で、その最も極端なのが日本です。原則もへチマもありませんよ。日本では矛盾が矛盾なく通用します。
小室 無理が通って道理が引っ込む世界だから....。
藤原 無理を押し通すためには、原則など無視してもかまわないということもあるし、日本人は自分にとって都合が悪かったり気にいらない原則は、その存在を無視することで、原則そのものが初めから存在しないのだと信じこむ傾向がある。主観的にはそれでいいかもしれないけれど、客観的には問題の存在を解決したことにならないし、単なる一時しのぎにすぎないから、あとになってかえって問題を紛糾させてしまうのです。
小室 それが小手先の処埋法というか、一時しのぎのいいのがれを生む。とくに、その場をとりつくろうために適当な空約束をして、相手に期待感を抱かせることになり、結果は嘘をついたといわれて非難されてしまう。
藤原 一時しのぎに心にもない嘘をつくという行為が、日本では大目に見られている。だからといって、それを異なった文化に生きる人に無原則に適用したらたいへんなことになるのに、日本人はそれを外交の次元に反映させています。対外開係にそんなやり方を持ち込んだら信用は崩れてしまうし、嘘ばかりをついている連中とうしろ指をさされるだけです。
小室 さらにエスカレートして、日本人は約束を守らないということになるし、最後には、日本人は何をやり出すかわからないということで、厄病神と同じ扱いを受ける。これが、第三世界の日本に対する平均的な認識だ。
藤原 日本人がそのような行動様式に規定されているのは、日本文化がそういった性格を内包しているせいです。だから、日本文化の体質を変えるか、各個人のレベルで日本文化を乗り越える努力をしない限り、日本は救いがないし潰れるばかりですよ。
小室 簡単にいうならば、日本人全体が資本主義がいったいどんなものかをまったく理解していないのです。だから、平気で嘘もつくのであって、奇妙に響くかもしれないが、嘘と資本主義とは両立しないのです。
藤原 資本主義が信用をベースにした人間関係と社会関係の上に成立するものだからです。
小室 日本人は資本主義といえば、なんとなく金儲けのことだと思っている。しかし、それはとんでもないことであり、近代資本主義社会におけるビジネスで嘘をついたら、それは明らかに犯罪的行為です。だから、ひとたび嘘をつけば犯罪者ということになって、誰も相手にしなくなるのが近代資本主義のルールであるにもかかわらず、日本では嘘をつかないと商売ができない。ということは、日本は社会がまだ近代資本主義体制にまで進化しておらず、中世の封建制の段階だという証拠にもなる。封建制度ではなく封建制そのものです。
藤原 商売に限らず、嘘をつかないと、この国では生活さえできません。
小室 それは犯罪着の社会であり、犯罪者とリスペクタブルが同じ人間の中に同居している社会です。
藤原 そこに、日本とアメリカが対立する根幹があるのです。その対立とは、平気で嘘をつくような国の行動様式と、嘘をつかないことで信頼をベースにしてやっている人たちの行動様式のぶつかり合いに他なりません。ビジネスにも政治にも倫理の問題がついてまわり、それが全体としてシステム化したときに、産業社会としてのエトスが現われてくるという意味では、小室さんのおっしゃるように、日米の対立は中世社会と近代社会の対決になるのかもしれませんね。
小室 重要なことは、交換すなわち売買におけるエトスが成立しなければ、資本主義社会は絶対に成り立っていかない点です。というのは、資本主義以前の社会においては交換は規範化していなかった。ドイツ語だと、「交換する」というのはタウシェンであり、ウムラウトをつけるとトイシェンになって「だます」という意味に変わってしまう。それにアラビア半鳥にいるベドウィン族の名の由来は、遊牧民であっても、実は盗賊だという形容のことばです。また、エリザベス期の頃には、まだ海賊と商船と海軍の間には、はっきりとした区分がなかった。要するに、前近代社会においては、交換が規範化されていなかったので、嘘をついてもだましても殺してもよかったわけで、商人と盗賊の区別がないのです。
藤原 日本という国は、社会がその体質も思想も近代にならないまま工業化だけが先行してしまい、勢いにのって世界に進出していった。そのために、至るところで袋叩きに合っているんです。
小室 それも日本で通用することは全世界でも通用するに違いないと短絡し、日本の封建主義をそのまま外国に持っていった。ところが、日本は世界でも例外的に規範のない社会であり、それに日本人が気がつかないまま外国に強制すれば、激突になるのは当然です。
藤原 その点では、明治も現在も少しも変わっていませんね。明治維新に始まって敗戦で一巻の終りになった第二文明期も、一九四五年に始まって現在に至っている第三文明期も、行動様式でみると少しも変わっておらず、まったく同じパターンが観察できます。教科書的なモデルは、大日本帝国という実に実存的な名称を持つ、あの第二文明期の日本の生成・発展・没落のプロセスの中に、とてもよく現われています。現在の日本の国粋主義の原点は、明治憲法と教育勅語にある。それに、明治は世界史におけるクロノロジーとしての近代という時代性に対して、前近代の絶対主義をドッキングしてしまったので、あのようなおかしな軍事国家ができ上がってしまいました。
小室 明治的な軍事国家は前近代的な国家体系以外の何ものでもありません。手本はヨーロッパで最も遅れていたために、近代的な資本制に移行できなかったプロシアだから、その運命はわかりきっています。膨張がプロシアにとって不可欠であったように、将校と行政官によって支配された明治の日本は、技術信仰にひきずられて、破局に向かってまっしぐらに邁進した。それも官僚たちが真剣に努力すればするほど、結果は意図するものと違ってしまった。官僚が最悪のリーダーになるということがわからなかったせいです。

排泄物としての工業製品
藤原 リーダーは起こり得るあらゆる可能性を予想して、戦略的に効果的な対応策を手配するだけでなく、新しい条件に対しての対応を指令していかなければなりません。それに対して、決められた枠組みの中で問題を処理する才能によって仕事を担当させられている官僚は、リーダーには不向きな存在です。その官僚がイニシアチブを取ったのが明治に始まった大日本帝国であり、戦後の日本国です。日本国は大日本帝国のような形での軍備は持っていないが、本質においてはまったく同じであり、軍事力が工業力に変わっただけで、あい変わらずハードウエア盲信の大艦巨砲主義ですよ。
小室 昔もいまも官僚が特権を持って君臨しているし、軍人がビジネス・エリートによって置きかわっただけで、本質は同じだ。もっと悪いことには、現在の日本は完全に管理社会になってしまい、あらゆる分野に官僚的な思考と行動様式が蔓延している。この点では、戦前よりはるかに危機の様相は深刻です。
藤原 しかも、現在の日本では情報一般が官僚の手に集中しているし、それに対抗する存在としてのジャーナリズムが自律性を失っている。その典型が各省の記者クラブであって、お役所から下げ渡してもらったタメにする情報をありがたがっている。ジャーナリストが役人の風下にいたのでは仕方がないのであり、本来、社会の木鐸であるべきジャーナリストは、官僚に対して「役人にしかなれなかった人間だ」ぐらいの気慨を持って欲しいな。
小室 ところが、新聞記者の大部分が役人に劣等感を抱いている。国家公務員上級幟の試験を上位の成績でパスしたことで本省採用になり、日本的な意味で、彼ら役人がきわめて優れた人材であることは間違いない。だが、それがそのまま指導者的存在たり得ることには結びつかないことは、ジャーナリストが指摘し続ける必要があります。
藤原 原始共産制の日本には、神権と結びついた長老はいても、リーダーは存在し得ない。リーダー不在のまま出たとこ勝負で膨張し、アジアにしろ世界にしろ、日本人が無原則で進出していくから、軋轢が起こるのです。
小室 日本人独得の技術盲信の思考様式と、タコツボ的発想が災いし、日本の外に拡がる国際秩序と衝突を起こすのに、それを衝突と考えずに単なる摩擦とか誤解という具合に片づけて安心してしまう。そこに一人よがりの単細胞性がはっきりと現われています。
藤原 日本の産業界の海外進出のパターンを見ても、戦前の軍国主義者の侵略性とよく似ています。それは海外市場に対しての蚕食方式であり、自分たちでマーケットを開拓したわけではない。他人が努力して作ったマーケットに自分の商品のチャネルを結びつけ、強引に流しているにすぎません。
小室 日本人は絶対にパイオニアではない。道は他人に作らせて、その上を自分は猛スピードでつっ走るだけだから、道がなくなると行き詰まってしまう。そして、行き詰りの瞬間が破局です。現在の大量生産方式による日本の繁栄が、ほんとうは束の間の奇跡にすぎないということも見通せていない。
藤原 産業社会が資源を消費しながら自動車や鉄のような工業製品を生み出すプロセスは、文明の次元で眺めると、いったいどのような意味あいを持つかという、マクロの次元での考察が必要だのに、誰もそれをしようとしない。いま日本人に必要なのはこの視点だのに、国内では国をあげて文化論ばかりが蔓延している。これでは自己満足は強まっても自己批判はできません。
小室 批判は継承をするということだから発展と結びつくが、満足するとそこですべてが止まってしまう。日本人は満足する自己を批判的にとらえないできたので、中世以上の発展をしなかったのです。
藤原 工業化の面だけは一見するとモダンに見えるけれど、それだってミクロなとらえ方です。文明の次元から見るなら、自動車や鉄という製品は、実は産業社会の排出物にすぎません。資源とエネルギーをインプットして、排エネルギーと工業製品が排泄物として出てくるのが、文明の生態学の基本メカニズムで、地球システムのエントロピーは高くなる一方です。
小室 そこに注目するなら、結論は自己否定にならざるを得なくなる。だから、文化論で気をまぎらすのです。
藤原 でも、一度はこの問題を自分につきつけ、大いに苦悩した上で打開策を考えるべきですよ。そうしない限り、強い自己は生まれないし、自分で納得して志向する自らの生存路線は見出せない。またこれが現代の混迷の原因じャありませんか。
小室 問題を自分につきつけるのを忘れた、日本人特有の健忘症が蔓延しているのです。見えないから見出せないのではなく、見ようとしないので見出せないだけです。
藤原 工業製品が産業社会の排泄物だという議論を続けるなら、排泄物を自分の国の中で処理している分にはまだいいです。しかし、排泄物をせっせと外に持っていって押しつけたとすれば、向うとしては「うちは下水処理場じゃない。汚物の処埋くらい自分でしろ」というに決まっている。これがグローバルな次元での日本に対しての世界の発想法です。工業製品は資源に較べるとエントロピー保有率が高い以上、そういわれても仕方がないのです。
小室 工業力が強さのシンボルであり得る時代が、はたしてこれからどれだけ続くかを考える必要がある。
藤原 強さは条件が変わると弱さになるし、ハードウエアの場合はとくに弾力性が少ないので問題です。柔よく剛を制すという通り、日本は工業力というハードなものを、もっとソフトなものに転換していく戦略がいります。
小室 しかし、日本人としてのエトスが同しであり続ける限り、それはたいへんむずかしい。ここで昭和維新をやったところで、問題はまったく解決しませんな。
藤原 産業社会の機構という面で考えるなら、とりあえずは、世界規模での分業化で、それを解決するより仕方がないです。たとえば、「おたくのこの汚物はこの部分に関しては引き取るが、こちらの汚物はうちのものを引き取って欲しい」という具合になる。全世界のシステムが分業のパターンで補い合うようにならなければいけないし、しなければいけない。問題は日本人がパイオニア的な発想をしないし、受け容れないところにあります。
小室 制度とか慣行は人間が作ったものだから、人間の行動によって作り変え得るのだと考えればいいのだが、日本人は制度や慣行の枠の中で自制してしまう。そうなると、新しいものは何ひとつ生まれてこない。
藤原 都合のいいときだけは新体制運動などが唱えられるけれどね。
小室 古いものがより古くなり、それにネオという接頭語をつけて飾り立てただけです。
藤原 日本人は占有意識が強いから、どうしても市場占有率を誇ることになる。そうなると、分業思想はなかなか定着しません。日本人が自動車や鉄鋼を大量生産したのは、世界の市場の何割を占めるという数字の魔術があったせいです。しかし、造船も同じ過去を持って没落してしまったが、シェアを誇ることは自慢するに値しないのだと、そろそろ日本人は気づくべきじゃないですか。
小室 共同体におけるサブカルチャー信仰は、内と外を峻別することによって、自己の存在を確認することになるので、相手よりシェアが大きいかどうかは、最大の価値基準になります。それを国をあげてやった結果が高度成長をもたらしたわけです。より高いもの大きいものを求めて上昇運動が続くためには、日本だけではおさまらなくなり海外へ向かって膨張せざるを得ない。ところが、日本の外側にある資本主義社会では、バランスとカウンター・バランスがより強く機能するので、上昇一本やりの日本的パターンとはうまく歯車がかみ合わなくて、ある瞬間に反撃に転して袋叩きにすることになる。そのときに戦線を広げすぎ、しかも補給線が弱い日本はたいへん危ない。エネルギーも食糧も自給できないので、ある機会を使って日本封鎖をされてしまえば、もう完全に終りです。
藤原 人間がホモ・サピエンスとか人類として地上に生存する場合、何が最も重要な生産活動であるかを考えると、食糧や資源を生産する分野だという結論になる。なにしろ、産業社会の生存条件を規定するエネルギー源であり、文明に対してのインプットする活力として必要不可欠だからです。そして、これから本格化する知識集約型産業社会のエネルギー源である情報に関して、いったいどのような効果的なシステムを作りあげるかが、現在における戦略課題になります。
小室 大英帝国の歴史を眺めるなら、十九世紀における世界帝国を築きあげたイギリス人たちは、自給という意味では食糧も原料もほとんど外国に頼っていた。それだけでなく、商品のはけ口としての市場も海外に広がっていたために、生命線は地上全域に張りめぐらされていた。だから、エジプトの財政破綻につけこんでスエズ運河の株を買収して、フランス人であるレセップスの苦心の成果を横取りしたのです。そのようなイギリスの行動を保証したのが、外交官たちによる情報網とイギリス海軍による動脈防衛網だった。しかも、その発想基盤は二国標準主義であり、世界一のイギリス海軍は第二位と三位の二国を合わせた優勢な力を維持するということです。この二国標準主義をもってしても、全世界に張りめぐらせた通商網を守るのはむずかしかった。このことを思えば、全世界に広がった経済的な生命線によってかろうじて生きている日本は、あらゆる面で丸裸同然であり、実に戦慄せざるを得ないほど恐ろしい状況下にあります。
藤原 だから、アウトプットを量的に拡大しすぎる生き方を反省し、インプットもアウトプットも質的に転換することや、現在国内にあるものを海外に分散することを考えていかなければならない。小さな次元における日本本位の生存条件の問題としてではなく、文明の次元における日本の産業社会の在り方を、哲学的にも戦略的にも考えない限り、行きつくところは袋叩きと自滅ですよ。
小室 日本人として一番大事なのは、外国から袋叩きに合わないようにするにはどうしたらいいかという戦略思考を持つことです。日本人は外交とは何かということがまったくわかっていないし、近代資本主義社会がいったいどういうものかが理解できていない。しかも、あらゆる点でいよいよ中世的で鎖国の時代に突入して行こうとしている。これでは救いがないのであり、まず、自分たちがどんな状況の中でいかなる動きをしようとしているかについて、よく眼を開いて見つめてみる必要があります。
藤原 結局は己れを知れということにもどりつきましたね。

インタナショナルとナショナル
藤原 ここにきて一段とさかんになったのは、不良外人とメイド・イン・ジャパンのニセモノ日本人のラブコールです。そして、このラブコールには共通のテクニックがあります。一番ありきたりで下手な人は相手の長所をほめる。長所がどんなときに短所になるかを気にしなければ、長所は一見すればわかるし、相手もそれとなく意識しているので「あなたの瞳は素晴らしい」という模範用例に従って、日本や日本人のいい所をほめあげます。そうすると日本人は嬉しくなってしまい、このガイジンは親日だということになる。
小室 日本人は自分を中心にして相手を見るから、すぐに知日とか親日というが、ほんとうはそんな存在はなくて、日本のことも知っている、という全体の中の部分の問題にすぎないのです。
藤原 もう少し頭のいい人は相手の短所をほめるのです。ライシャワーなんかは手練手管で日本人の深層心理をよく心得ているから、非常に上手なレトリックを使って、日本人の短所を賛美するのです。それも中国人を比較の対象にしたりして、日本人を有頂天にさせる術を心得ていま。よくよく考えるとアバタかもしれないものを「あなたのエクボはとてもチャーミングだ」とやり始める。たとえば、十九世紀後半の欧米への留学生について考察すると、中国人は重要な歴史的人物になった例が少ないが、日本人は日本の近代化の中心人物になった、といった書き方をする。まず第一に、歴史人物として名を残すことがどれだけ本質的に重要かという問題の考察が欠けているし、欧米へ留学した人材でなくったて、それ以上の逸材が活躍していたのなら問題はないという視点がないです。ことによると、チベットに出かけた日本人の中に、政治家や実業家になった連中よりも、はるかに優れた人材がいて日本のためになったという発想に欠けた、欧米中心の考え方です。また清朝はたしかに救いがたいほど頑迷な政治体制だったけど、康有為や厳復がいなかったわけではないし、孫文の存在だって見落としたらいけない。それに中国には伝統勢力が支配力を持っており、科挙制度が残っていたので、ことによるとほんとうに優秀な人材は母国にもどらないで、国際舞台で活躍した可能性がなかったとはいえないと思うんです。
小室 華僑勢力の台頭との関係で見ると、そういうこともいえるでしょう。留学体験者が本国にもどって活躍しなければならないという決めつけ方は通用しません。欧米を手本にして近代化を成し遂げたゆえに、日本は優等生だという偏見がライシャワーには多少あるが、残念ながら、日本の現実は中世であり封建制そのものです。
藤原 欧米に留学した日本や中国の青年たちが、祖国にもどって何ごとかをしなければならないという発想は、後進国型の発想であるし、民族主義的で時代遅れだと思うんですよ。たとえば、日本人の若者でほんとうに実力を持ち人格的に優れているなら、全世界が活躍の舞台になってしかるべきであり、何も自分の祖国にもどらなければならないという理由はありません。世界中が必要としている素晴らしい人材ならば、人類のために国際舞台で活躍したらいいのです。残念ながら、それだけの卓越した人材が日本人の中からあまり出なかっただけの話で、これからどんどん出てきていいと思います。
小室 当然のことです。そういう人材がいないのではなく、ただ、国内の日本人たちが知らないだけです。それが頭脳流出という形になっていて、いろいろと取り沙汰されているが。
藤原 要するに、内でも外でも自由自在に活躍できる、インタナショナルと呼ぶべき人材が増える必要がある。ところが、精神的な鎖国をやっている日本の場合は、国際派という存在は常にマイノリティで、マジョリティを占める国粋派によって圧迫されるのです。
小室 共同体としての機能的要請が絶対視されるので、国際派は外部への関心が強すぎる反逆者だ、ということになります。それが先鋭化すると裏切り者への制裁ということになるし、一度外に出た者でも共同体の中に再び舞いもどって、サブカルチャーヘの忠誠心を誓うと、洋行帰りの英雄にもなれます。
藤原 そういった舞いもどり型のブーメラン人種が、いまの日本ではマスコミ界で英雄扱いされているんです。でも、そのほとんどは真の実力を持ち合わせていない場合が多いので、結局は、西洋事情に通じている通訳もできる人材として、国内市場向けのタレントになってしまうのです。日本のマスコミはそういう重宝な人材を必要としているし、多少なりとも日本人を喜ばす上で国粋的な発言をしてもらったほうが人気を高めることにもなります。
小室 日本人は景気がいいものを好みますからね。
藤原 だから、世界への突破口を切り開けなかった二流や三流の人材が日本に舞いもどって、マスコミ界の英雄になっているケースが多いので、必然的にニセモノ的存在が目立つようになるのです。たとえば、アメリカの大学に客員教授として行っている間は、みながとても親切にしてくれるから、「アメリカはなんて素晴らしい国だ。みながとても親切でフレンドリーだ」と思う。ところが、ひとたび正教授の椅子を目ざして同僚たちと競争するとなると、まわりのアメリカ人たちが足を引っ張る。結局、一生懸命やったが目的を達成できなかったとなると、名誉を重んじる日本人としては負け犬的な存在には耐えられないというので、股の間に尻尾をはさんで日本にもどってくる。それでも日本では洋行帰りだといって結構ちやほやされているうちに、この暖かい共同体のホスピタリティにうっとりとして、「日本はほんとうに自分にとって素晴らしい国だ。それに対してあのアメリカ人たちの冷たさは何だ」ということになってくる。あるいは、外国で生活している間にことばもよくしゃべれないし、人種差別をされたということで、その国に対しての怨念の気持に包まれて早く日本に帰りたいという気分に支配される場合もあります。そして、長所も短所もひっくるめて、日本的なものはすべてほめあげるのです。こういった人たちを国粋主義者と名づけるわけだけど、現在でも洋行帰りの主流はこの人たちです。
小室 明治時代の日本人は、欧米に対して強い憧れと蔑視の気持を二つながら内在させていた。だから、留学体験が挫析と結びつくと国粋的になり、陶酔感と結びつくと異国派というか外国かぶれになった。思想から服装まですべて借りものの外国かぶれです。これはネガティブな国粋派でしょう。
藤原 フランスかぶれならフランス国粋派だし、イギリスかぶれならアングリカン国粋派です。結局はナショナル・アイデンティティを持たない根無し草でして、この国が大好きだから、アメリカに住めるなら皿洗いでもいいとか、パリに住めるなら乞食をしても街角に立ってもいい、という種類の人です。僕の定義では、こういう人たちをコスモポリタンと呼ぶんです。コスモポリタンは根元で祖国がつながっていないので、日本を毛嫌いしている場合も多くて帰ってきません。
小室 しかし、最近はそういった根無し草で日本に住んでいる人も多いし、若者の中には一度も外国へ行っていないが、祖国喪失のような人も増えています。宇宙人かな。
藤原 日本にある良さや悪さだけでなく、外国の良さ悪さを相対的にとらえ、しかも、地球的な視野でものごとを理解できる人たちが育ちつつあります。こういった人々は日本に帰ってくることもあれば、帰らない場合もあります。要するに、全世界が自分の活動の場であり、生まれた国だけが特別な存在ではなく、自分が育った文化を乗り越えることを実現し、心の中に幾つもの文化を多層的に取り込んでいるような人々です。このインタナショナルな人材の中の最高峰は、スーパー・インタナショナルというか、それともユニバーサルとでもいうか、素晴らしい人たちです。こういう人たちは日本にないよさや、よその国にないよさが見えてくるのです。もし、こういうものがあったら日本もっとよくなるとか、日本人に欠けているこの面をこういう具合に補っていったら、こんな展望が出てくる、といったことを指摘できる人。要するに、現在持ち合わせていないよさや長所を考察できる人材が、これからどんどん育ってこなければいけない。しかし、残念ながら、そういった人材の絶対数があまりにも少ない。
小室 少ないだけでなく、ますます育たないような状況になっている。明治時代であれば、コスモポリタンのような人でも日本に帰って活躍し得た。ところが、時間が経てば経つほど活躍の余地がなくなり、最近になるに従って恐ろしいほど場所も機会も狭まっている。結局、コスモポリタンがコスモポリタンのエトスを身につけたら、日本では絶対に活躍できない。だから、コスモポリタンのように見えて、エトスは純粋に封建的でないと駄目なのです。
藤原 そこが問題であるとともに、日本人をほんものの国際人かニセ者かを見分ける上での決め手になるのではありませんか。封建的なものを乗り越えたところに近代の始まりがあり、近代人になった上でしかコスモポリタンにもユニバーサルにもなれないわけですよ。
小室 たとえ外国で何十年生活しようと、行動様式が日本的ならいつでも共同体は受け容れるが、エトスが非日本人的ならば、外国へ行ったことがなくとも受け容れない。外人ならば外の人間ということで許すけれど、日本人がコスモポリタンとなり行動様式にそれが現われたら、明治ならともかく、いまは絶対に駄目です。そこが日本の恐ろしいところです。

亡命する自由
藤原 その意味では、ユダヤ人と中国の華僑は、千年二千年の歴史を通じた実験をやってきた人たちだから、日本が注目すべき人々です。それにアメリカは一つの人工的な実験国家だから、アングロサクソンの生態を含めて、こういった対象をよく観察して彼らの本質を見極めると、日本のこれからの生存条件も見通せるようになると思うんです。
小室 もうひとつ、ソ連も実験国家としていい観察の対象です。
藤原 そうですね。アメリカとソ連については小室さんが著書で総括を試みているので、ここではひとつ違った視点から、人間の生態環境としての生活圏と意識の問題について考えてみたいと思います。その場合、町が城壁で作られているという意味で、中国をモデルにすると面白い傾向が指摘できます。中国の町は城壁に取り囲まれており、各方向で外部に向かって開いている門の周辺に市ができています。しかし、生産的な人間は門の外に住んでおり、とくに農民の生活の場は市を通じて町の人間と結びついているのです。城壁の中を誰が支配しているかといえば、官僚や宦官を組織した封建領主であり、官僚が支配の代行をするような機構は常に閉鎖的な体質を持っているということです。
小室 中国だけでなく古代の中東も同じで城壁を持っていたし、インドもヨーロッパも町は城壁に囲まれていた。歴史の古い国で町に城壁がなかったのは日本くらいであり、これは驚くべきことです。
藤原 日本には元来から町の概念がなくて、藩が共同体としての支配領域であったし、日本列島がひとつの城壁みたいなものです。ただ日本の場合は、生活圏の感覚があるだけで、国家意識なんてものは明治まで存在しなかったのと違いますか。
小室 日本や中国をヨーロッパと較べると、面白いことに、日本人は国境は自然的なものだと思い込んでいるが、ヨーロッパ諸国では国境は人為的なものだという意識が定着しています。それでは中国ではどうかというと、古代中国の国際的感覚においては、主権と領土という近代の国際法にとって最も重要な概念がかけている。主権も領土もないのはどういうことかというと、世界中が中国の領土だという感覚なのです。
藤原 中華思想だから、光の及ぶ限りは文明圏だが、それから先は野蛮の支配するところだということですよ。
小室 主権の概念がないというのは、外国の君主はみな中国の皇帝の家来だという設定のせいです。だから、外国に出て行くといっても、中国人と日本人ではその意味がまったく違う。日本だったら内と外は絶対的な区別をするが、中国人にとっては、どこまで行っても中国みたいな感覚なんです。
藤原 ところが、日本人はウチとソトの意識が強烈な上に、ウチに相当するのがさまざまな共同体だから、たくさんのハードルがありすぎて乗り越え切れない。しかも、同じ太平洋や日本海を眺めても、これで仕切られており外と断絶していると考えがちで、海は外に向かって開かれた水路だという発想はなかなか生まれません。それは前にいった東京の地下鉄の命名法と同じで求心的なんです。
小室 同じ島国の人間でも、イギリス人は外に向かって拡がるだけの気慨を持っていたのに、日本人はどうしても閉じこもってしまう。
藤原 その差が、現在の国際ビジネスにおけるアングロサクソンと日本人の違いになっているのです。というのは、領土はハードウエアでして、ソフトウエアを駆使して仕事がやれる知識集約型指向の人は、全世界を舞台に活躍できるので、ハードな領土と結びついている必要がない。それを一番最初にシステムとして完成させたのがイギリス人であり、彼らにとっては大ブリテン島は必要ないのです。植民地に拠点を作りそこに移るとともに、拠点を結んで非常にシンクロナイズした情報システムを作り上げました。アングロサクソンはエダヤ人と結ぶことでヨーロッパをシステムの中に組み込んだし、ロンドンを中継点にして指今システムを完成させれば、自分たちの経済的な利益や生存条件は確保できると考えて、有能な人たちは全世界に散っていった。しかも、コモンウェルスという形で植民地は政治的に独立させたけれど、情報網としては完全なネットワークで包み込んでおき、ブリテン島は抜け殻にしたのです。
小室 日本人はグレイト・ブリテン島がイギリスそのものだと思っています。
藤原 それが間違いのもとでして、ハードウエアとしてのブリテン島は、あそこでしか生きられないブルー・カラーの労働者と女王一家のものです。ところが、日本人のほとんどはイギリスが島国である以上は日本と同じであり、すべてが中央集権的にロンドンに集まっていて、ロンドンから指令をすることになっていると信している。しかも、工場施設も研究所もブリテン島の上になくてはいけないと思い込んでいるので、残りかすの領土を眺めて「大英帝国の没落」とか「英国病」なんていっている。ほんとうに優れた連中はイギリスの外で活躍していて、本国が担当しているのは教育機関と情報センターの機能だけです。
小室 日本はすべてが東京に集まっているし、集まりすぎています。
藤原 アングロサクソンは、十九世紀の全期間を通して全世界に散っていき、しかも、イギリス系ということで情報のネットワークで結びついている。このような世界支配のやり方に対して、日本人ももっと知る必要があると思うんですよ。最近は大国意識に災いされて、日本人が「英国病」だなどと軽率なことをいっているけれど、あの連中は没落をうんぬんし得るだけのものを持っていたのだし、いまではハードに替えてソフトなものを保有していると気づかなきゃいけない。日本はハードなものしかないし、没落すらしようがありません。となるとポシャるだけであり、自らのハードウエアの重さに押し潰されてしまうだけです。
小室 イギリス人の誇りは「ブリタニア・ルールズ・ザ・ウェーブズ」であり、ウェーブとはコミュニケーションの手段でして、領土よりも情報の伝達手段を押さえているから偉いというのです。
藤原 人間だって神経系統を支配することが最良の征服法ですよ。
小室 外に出ることに関係して重要なことは、日本人の考え方にまず亡命の発想法がない点です。これは欧米諸国に較べると驚くべき違いだといっていい。
藤原 亡命する自由というのが人間における最大の自由だということが、日本人にはさっぱりわかっていません。
小室 それに、日本にはほんとうの意味での移民という考え方がない。こういうと、移民する人は現実にいると反論されることになるけど、くわしく調べてみると、日本人の移民は行くことに目的があるのではなくて、帰ることにあるのです。イギリス人はイギリスから出て行く以上はもう帰らないのであり、根本的にちがいます。ところが、日本人の出て行き方は、「浜を出るとき涙で出たが、いまはテキサス大地主」であり、ほとんどは故郷に錦を飾るというのが目的です。そして、帰り損なった人がアメリカに住みついたり、十分に成功しなかったので錦を着て故郷に帰れなかったから、仕方がなくアメリカ人になったというわけで、イギリスとはまったく反対です。
藤原 亡命だって国を追っ払われて行くのではなく、個人のほうが生まれた国や住みついた国を棄てるのです。
小室 亡命をする場合は、出て行くのも自由だし、くるのも勝手ということであり、アメリカはとくにここの点で徹底しています。以前ソ連のバレリーナがアメリカにきてから、亡命の意志表示があったということで、彼女が自由意志によって帰国するのかどうかが明確になるまで、飛行機を飛び立たせなかった事件があった。日本人の常識からすれば、たった一人の踊り子のために外交をこじらせるのは馬鹿げているということになるが、そんな発想はアメリカでは通用しません。一人でも亡命者を受け容れられなくなったら、アメリカは死んだも同然だ、というのが彼らの発想であり、自らの自由意志によってアメリカを選択した人間がアメリカ人だというのが、建国の国是に他ならないのです。
藤原 そこに自由の原点があるのですよ。
小室 その逆もあって、たとえばベトナム戦争のときに、たくさんのアメリカの青年が徴兵逃れのためにスウェーデンに亡命した。あれなどは途中で見つかると徴兵忌避で銃殺だが、すでに亡命してしまったらそれで終りであり、圧力をかけて連れもどすことは絶対にしない。それは自由意志でアメリカを選んだ人間がアメリカ人であるという思想が貫かれていて、日本人には非常にわかりにくい。ところがこれがほんとうの意味の近代国家観なのです。
藤原 日本は日本に亡命したいと希望する人も受け容れなければ、日本から亡命者を出すことも恥ずかしい、という空気がある。普通の移民も祖国を放棄する人間という眼で冷たく見る伝統が役人などに強い。それに、単なる物見遊山の海外渡航なら問題はないが、人間をできるだけ外国に住みつかせたくないという気持が支配者の深層心理の中にあります。一般渡航はいまのところ自由だけれど、いつ門が閉ざされるかわからない。小室さんも早く脱出しておいたほうがいいのじゃないかな....。
小室 それは共同体の中から脱出者を出したくないし、よそ者を受け容れたくないせいです。だから、外国人の亡命だって日本は受け容れない。こんな閉鎖的な国が経済大国だというのだから実に驚きですよ。


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