1 カナダの彗星、ドーム石油社




1 ドーム石油社の華麗なデビュー

 過去十数年続いたカナダヘの観光ブームで、すでに数百万を数える日本人がカナダを訪れ、その八割近くがカルガリーの百キロ西方に位置するバンフの町やレイク・ルイーズを中心にしたカナディアン・ロッキーの雄姿に親しんだと言われている。
 カナダはすばらしい大自然に恵まれた美しい近代国家であり、アメリカ人に比べるとはるかにのんびりした純朴な国民性と、新旧両大陸の文化を個性的な形でモザイク状に併存させた多層社会を持つ国として、スイスと並んで日本人に最も好意を持たれている国である。
 だから、日本人は割安な団体ツアーを組んで、カナダに群をなして訪れる。このバンフ観光を楽しむ日本人の数は、ナイアガラの滝をはるかにしのいで、北米の町として最大だとも言われている。
 ほとんどの観光客はバンフに車で一時間の地点に位置するカルガリーの空港を利用するが、このカルガリーの町はテキサスのヒューストンに続いて、世界第二の情報センターである。カルガリーはカナダの石油センターであり、この国の石油ビジネスの頭脳中枢としての機能には目を見張るものがある。
 なにしろ、この町には八百社以上の大小石油会社と、三千社に近い石油関連のサービス会社がビジネスを営んでいる。そして、ダウンタウン(中心街)に林立する高層ビルの偉観は、なかなかにみごとである。
 人によってはカルガリーはシカゴやトロントをしのぎ、ニューヨークに次いで世界第二だともいうが、私も世界の十指のなかに入るのは間違いないと思う。なにしろ、過去一〇年間にわたって、ダウンタウンのビル建築ラッシュが絶え間なく続いているのだ。
 儲け話にめざとい日本の商社は一五社も営業所を構えているし、最近では東京銀行もボーバリー・スクエアのなかに出張所を開設した。私がカルガリーに住みはじめた一九六九年には、人口もわずか三〇万人で、日本の商社は一社も店を構えていなかった。
 当時、私は「日本経済新聞」にオイルサンドの紹介記事を執筆したことがあるが、その後、一九七三年に三井物産がオフィスを構えたり、石油資源との関連でカルガリーに注目する日本の企業が増え、日本料理屋も数軒営業しはじめたし、人口も倍増してブームタウンの賑わいが続いている。
 ダウンタウンのビルのほとんどは石油関連会社のオフィスであり、セブン・シスターズのカナダ子会社は、すべて自社の名前をつけた三〇階建てや四〇階建てのビルを構えている。


カナダ最大の独立系石油会社

 年間売上高が二三億ドル(約五千億円)のドーム石油社は、カナダ最大の独立系石油開発会社であり、町の中心の七番街三三三番地に四〇階建てのガラス張りのビルを築いて陣取っている。そして、各階がクリーム色の内装で飾り立てられたドームタワーの存在が、家屋敷で相手の財力を判断しがちな日本人を幻惑し、この会社に何千億円もの資金をいれあげることになるのである。
 ドーム石油社の三〇年余りにわたる成長の歴史は、そのままカナダの石油産業の発展史と、風雲児ジョン・P・ギャラハーの成功譚が二重映しになった戦後史でもある。
 カルガリーでジャックといえば、その筆頭に位置するのが彼であり、一九一六年に鉄道マンの息子としてマニトバ州のウイニペグで生まれた彼は、アイルランド系の人間特有の人なつっこい性格を持ち、澄んだ瞳にはつねに微笑がたたえられていた。カルガリーのオイルマンたちに、《スマイリン・ジャック》の名で親しまれたジャックは、確かに幸運の女神をさえ微笑み負かすほどの強運の男で、彼のミドルネームのパトリックは、アイルランドの国花である四つ葉のシャムロックで飾り立てられていた。
 一九三七年にマニトバ大学の地質学専攻課程を卒業するが、その前年にカナダ地質調査所の調査隊に夏期実習の学生アルバイトで雇われて極北地帯に行き、そこに魅せられる。この体験が彼の極地へのロマンチシズムの原動力となって、ドーム石油社の北極路線を決定づけることになる。
 そして、自分が経営する石油開発会社のドーム石油社を設立して、青春時代の夢を追求するまでの一三年間、彼はシェル石油やスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(現在のエクソン)のジェオロジスト(鉱物地質専門家)として、中南米や中東で仕事をして実力をつけていく。
 アンデス山脈やサハラ砂漠周辺でフィールド・ジェオロジストとしての経験を積んだだけでなく、サブサーファス・ジェオロジストとして石油開発の全領域をマスターして、彼がカナダにあるスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージーの子会社であるインペリアル石油社に戻ったのが、一九四九年だった。
 時あたかも、カナダはレデュック油田の大発見でブームを呈しており、石油ブームの熱気に包まれたアルバータ州をめざして、国境線の南からアメリカの独立系石油業者が殺到していた。なにしろ、カナダにとっては一九三六年のターナーバレーの発見以来、一一年ぶりの大油田発見の賑わいだった(図2)。
 レデュック油田を発見したのは世界最大の石油会社であり、ロックフェラー家の旗艦役エクソンのカナダの子会社インペリアル石油社である。そして、一九一四年にインペリアル石油社の設立以来、一九二一年に記録したノーマン油田の発見から数えて、レデュック第一号井がデボン紀のサンゴ礁性石灰岩から石油を発見するまで、インペリアル石油社は二六年間にわたって合計一三三本の空井戸を掘りつづけてきた。
 普通だったら、一〇本もたてつづけに空井戸を掘れば会社は倒産してしまうが、世界一の大財閥を背後にひかえているだけあって、インペリアル石油社の耐久力は抜群だった。そして、一九四七年二月、不吉といわれた一三日の金曜日に、悪魔の脳天をぶち抜くことに成功したインペリアル石油社は、勢いに乗ってレッドウォーター油田も発見し、世界の二〇大石油会社の仲間入りをしていく。





猛烈な企業家精神と政治的手腕

 カナダの石油ビジネスの歴史を眺めると、一九四七年から五二年にかけての時期は、小さな開発会社を設立して資金を開発投資を通じて資産化し、次に転換社債を発行して本格的な石油生産と結びつけるビジネスが最も活況を呈して、続々と小さな石油会社が生まれていた。
 そういった時代性と持ち前の企業家精神は、ジャックに生産担当のアシスタント・マネージャーで辛抱していられないだけのインパクトを生み、彼はトロントのドーム鉱業に行ってベンチャー・キャピタルを調達すると、ドーム・エクスプロレーション社のマネージャーにおさまった。一九五〇年のことである。
 この時の二五万ドルの資本が、その後の三〇年間で最高が七万倍に達したのちに、結局は最後の破綻へと結びついていくのだが、少なくとも初めの二五年間は、輝かしい大発展の四半世紀だった。
 一九五一年には株式を公開して上場会社になるが、創成期のドーム石油社は下部白亜系の石油と天然ガスの開発を主体にして順調に成長し、同じ地質仲間のコーン・ヘイグや皮肉屋で有名なチャーリー・ダンクレイとともに組織を固めていった。
 ジャックは持ち前の政治的手腕を発揮して、ハーバード大学やMIT(マサチューセッツ工科大学)の基金を運用して、より小さな石油開発会社の買収や、有望鉱区と生産井を買い集めて、ドーム石油社の資産内容を高めると、次に新株を発行する戦術を使った。
 この時期のジャックのアプローチは、日銭稼ぎの安全第一主義だった。有望な鉱区を持っている会社を傘下に入れ、生産井の隣の鉱区を掘る堅実なやり方は、流動資金の面で会社の資産内容を確実に高めていくので、ドーム石油社は着実に成長を遂げた。
 そして一九五六年にウイニペグの弁護士ビル・リチャードを経営陣に迎え入れた時には、ドーム石油社は有望な中堅石油開発会社として、すでに投資家たちの注目を集めるシテ株の寵児でもあった。 それからの二〇年間にジャックとビルの乗っ取りコンビは、次から次へと有望会社の買収を続け、資産増加と新株発行の錬金術がまぶしいほどの成果をあげて、ドーム石油社の株はニューヨーク市場の人気銘柄としてウォール街で大いにもてはやされた。経済欄を賑わせた買収工作としては、九千七百万ドルのトランス・カナダ・パイプライン社、六億ドルのメサ石油カナダ社、七億ドルのカイザー資源開発社、四〇億ドルのハドソンズ・ベイ石油社(HBOG)などが、大物として数えあげられる。 そして、全資金を銀行借入れで動員したハドソンズ・ベイ石油社の買収が命取りになり、ドーム石油社崩壊のスピードを加速させることになるにしても、それはさらに後の一九八二年の事件である。



2 北極洋多島海のパイオニア

 一九六〇年代のカナダでは、北極洋多島海の石油開発が最先端をいくフロンティアであり、ドーム石油社は、パイオニアとして輝かしい名声を築きつつあった。
 ドーム石油社が北極洋で先陣を駆った理由は二つあり、そのひとつは、ジャックの二〇年来の夢が極地の石油開発と結びついていたことで、第二の理由は、カナダに残された最も有望なフロンティアとしてのマッケンジー・デルタ地域の鉱区が、すでにメージャーズによって押さえられていたせいである。
 マッケンジー・デルタの最も有望な陸上部と沿岸地域一帯は、資金力を誇るセブン・シスターズの子会社が独占的に支配していて、ドーム石油社としては水深五〇メートル前後の、ボーフォート海南部の鉱区(図3)を手に入れるだけで我慢せざるをえなかった。そこでジャックはカナダ政府の期待にむくいる意味で、準国策会社のパナルクティック石油社と提携して、北極洋に果敢な挑戦をした。


永久凍土上の物量作戦

 地質学的にスベルドラップ堆積盆地と呼ばれる北極洋多島海(図4)には、数百キロの長径を持つ背斜構造がいくつもあって、航空写真に写し出された巨大な景観は、壮大の一語に尽きる。
 かりにこの構造の下に百メートルの厚さの多孔質砂岩かサンゴ礁性石灰岩が発達して石油を貯蔵していれば、たちどころに中東の油田に匹敵するだけの石油埋蔵量が期待できる。航空写真を一瞥しただけでどれだけ多くのジェオロジストやオイルマンたちが感嘆の声をあげ、バラ色の夢に陶酔したことだろうか。
 だが、夢想から醒めて現実に立ち戻ると、北極洋での石油開発がいかに困難であるか。
 北極洋はカナダの補給基地であるエドモントンから二千キロほども遠い地点に位置し、しかも、氷点下五〇度の気温と秒速三〇メートルを超す烈風、それに五百メートルに及ぶ永久凍土に挑んで、三千メートルを超えるボーリングをしなければならない。
 また、試掘に使うリグは総計で二千トンに達する資材を含み、食糧や燃料のすべてを輸送して確保する必要がある。
 北極洋のパイオニアであるドーム石油社が一九六一年九月に試掘に取り組んだメルビル島のウインターハーバー一号井は北緯七五度に近く、北極圏からさえもはるか八百キロも北に位置していた。
 この井戸は三千八百メートル掘り下げて中期古生層に達し、わずかなガスの兆候を記録しただけで放棄されたが、カナダ領北極洋における最初の井戸として、ドーム石油社の名前とともに永遠に記録されることになる。そして、キング・クリスチャン島やロヒード島といった具合に北極洋への挑戦は続いていき、大変な資金と努力が高緯度地域に注入され、エスキモーの王国に物量作戦が展開されたのだった。 同じ努力は、アラスカのアメリカ人たちも同時に遂行していて、カナダ人よりも一足先にアメリカ領ボーフォート海からトキの声があがった。一〇年間にわたる辛苦のなかから、成果が生まれたのだ。一九六八年にアラスカのプルドー湾で北米最大の油田が発見されたというニュースは、全世界に大きな衝撃をもたらした。 日本の財界はその石油を輸入しようというわけで、他人のフンドシを使って相撲を取ることを考え、東京にノーススロープ石油社を大あわてで設立した(拙著「日本丸は沈没する」時事通信社刊参照)。 それに私までが熱気に煽り立てられて、フランスの石油会社をやめると、次の大発見が予想されるマッケンジー・デルタでの仕事をめざしてカナダに移り住み、カルガリーに居を構えた。同じボーフォート海がアラスカから東に広がっているので、カルガリーの石油業界は活動の重点を北極洋南縁部に移し、マッケンジー・デルタを中心にした地域で、積極果敢な開発への行動を起こした。











メージャーに挑戦するジェオロジスト

 石油開発はビジネスを通じて行なう一種の戦争であり、地の利を占めて有利な戦いを行なうという点では、マッケンジー川の河口周辺の鉱区を押さえているメージャー系の威力は圧倒的だった。戦略や戦術を構想する頭脳力からしても、兵器や兵隊を整える組織力と機動性の面、それに補給と兵站を担当する豊かな資金力でも、メージャーズの実力は抜群だった。人類に残された数少ないフロンティアを舞台に繰り広げられる総力戦においては、カナダで最も野心的と考えられていたドーム石油社といえども、メージャーズの底しれない動員力を相手にして、とても互角に戦うわけにはいかなかった。
 それでも、挑戦の気概を持つ卓越したジェオロジストであり、企業家としても野心満々のジャックには、辣腕のビジネスマンとして業界に広く知れわたったビルがついていて、金策と手続き上の作戦部門を担当していた。それに、採算面であまり貢献しない天然ガス部門は、コンデンセート(天然ガソリン)に注目することでドーム石油社のドル箱に変えた、"LPG(液化石油ガス)の魔術師"の敬称に値するドン・ウォルコットも健在だ。
 ドーム石油社はLPGの周辺部を固めることにより、着実に発展し資産内容を充実させつづけた。
 一九六〇年代後半から七〇年代初めにかけて、ドーム石油社はパナルクティック社と並んで、北極洋多島海におけるパイオニアとしての名声に輝いていた。カルガリーのオイルマンやジェオロジストたちは、心からの敬意の気持をこめてドーム石油社とその経営陣の名を口にしたが、そういった評価をストレートに与えられる石油会社は数が少なかった。
 少なくとも一九七五年頃までの段階では、次に大きな組織の方向で転職するとしたら、シェル・カナダ社やインペリアル石油社が無理であれば、ドーム石油社に職を求めて極北の石油開発にチャレンジするのも、プロに徹した人間の生き方として一種の憧れの気持を感じさせた。
 プロは地位や肩書きに満足するのではなく、取り組むうえで責任ある任務と刺激に満ちた環境に向かって移動する特性を持つ。だから、一般には、そういった条件をより多く持つ小さな組織に向かって人材は移動するのだが、ある特定の時期には、大組織でもプロの意欲をかき立てるだけの魅力に包まれることがある。そして、この時期のドーム石油社の雰囲気には、チャレンジを意識させる新鮮な魅力が十分にみなぎっていた。
 実際問題として、一九七一年から七六年にかけての五年間のドーム石油社の経理内容は、ほぼ一〇倍のめざましい実績を記録していた。売上高は四千百万ドルから三億八千四百万ドルに、流動資金は一千六百万ドルから一億一千万ドルにと伸びていて、誰の目にも、ドーム石油社の成長株としての将来性は確実と見えた。
 もっとも、パイオニアにとってはつねに毀誉褒貶はつきものである。人によると、「ドームは開発に自分の資金はまったく使わず、もっぱら他人のカネを使いまくる。だから、パートナーになる場合には、大いに用心したほうがいい」とか、「ドーム石油社が持ち込んでくる話のほとんどは、カスになるものも残っていないガス話だ」と言って、接近するのを敬遠する会社も少なくなかった。
 この危惧が現実のものになった例のひとつがダラスのハント石油社のボーフォート海プロジェクト事件であり、世界最大級の金持であるハント・ファミリーが経営するテキサスの石油会社は、ボーフォート海に広がるドーム社所有の鉱区の共同開発の計画に誘い込まれ、巨大な開発資金を使わされたあと、ドーム石油社との係争で癇癪玉を爆発させた。
 はたして、この訴訟がどこまで大きなインパクトとして作用したかについては明確ではないが、この段階で会長と社長を兼任していたジャックに代わり、弁護士のバックグラウンドを足場にカミソリのような切れ者ビジネスマンとしての名声を持つビル・リチャードが、社長として登場する。そして、一九七四年を契機にしたドーム石油社の超積極路線が、ここにスタートすることになるのである。



3 オイルショックとカナダの民族主義

 一九七〇年代はマッケンジー・デルタの石油探鉱がダイナミックに推進された時期であり、インペリアル石油社を筆頭にして、ガルフ、シェル、モービル、シェブロンといったメージャー系の会社が、極寒とツンドラを相手に石油開発に取り組んでいた。
 一九七〇年にツクトヤクツク半島で記録したアトキンソン第一号井での出油成功以来、タグル、パーソン、ヤヤといった具合に発見が続き、一九七五年には合計で一五本の発見井を数えるに至ったが、空井戸の数も百本に近かった。
 なにぶんにも、マッケンジー・デルタはカルガリーから二千二百キロも離れた北極圏に位置しているので、器材や人材だけでなく燃料や食糧の補給を、すべて空路で行なわなければならない。それに一本の試掘に数億円あるいは数十億円のコストがかかるし、換金化するまでに、はたして何十年かかるのかもはっきりしない、非常にリスク負担の大きな先行投資であり、この挑戦は世紀の難事業のひとつでもあった。
 私自身が新しいフロンティアヘの挑戦を体験するために、フランスからカナダヘ移り住んだのであり、マッケンジー・デルタは太平洋や大西洋を横断するに値するほどの魅力と価値を持っていた。フロンティアは開拓者魂をふるいたたせ、地平線のかなたにチャレンジの精神をよび招くのである。
 一九六〇年代末から七〇年代初期にかけて、ユニオン石油社のスタッフ・ジェオロジストをしていた頃の私は、アラスカのブルックス山脈のフットヒル(山麓)からカナダのブリティッシュ山脈やリチャードソン山脈と海岸平野の構造解析を担当していたが、これはマッケンジー・デルタの西翼部に当たる地域だった(図5)。
 しかも、メージャー系会社のデルタでの成果が新しいデータを提供するに従い、イーグル平野やアンダーソン平野からマッケンジー・デルタにと包囲網を縮め、最後に一番難しいボーフォート海の地質に挑んだのが、カナダにおける私の最初の三年間だった。
 次の段階で、より責任ある任務を担当するために、アメリカ系のユニオン石油社からベルギー系多国籍石油会社のペトロフィナ社に転じ、デルタ計画へのチャレンジをフロンティア地域統括責任者の立場で体験することになる。
 ペトロフィナ社はメージャー石油会社ほどの大組織ではないが、日立や三菱重工に比較できる経済的実力を持つ会社と評価されていたので、プロジェクトごとにインペリアルやガルフ石油社などから、デルタの共同開発の話が持ち込まれた。
 そこでかずかずのデータを解析して、プロスペクトの評価や投資効率の計算をよく行なったものだが、五年以上も精力的に研究して、堆積盆地の構造についての知識を持ち合わせているはずの私にとってさえ、マッケンジー・デルタやボーフォート海の構造解析や層位同定は、実に困難な仕事であった。
 石油開発を博打と同じだと言ってはばからない人が沢山いるが、私は半分が幸運であり、残りの半分は努力にかかっていると考える。しかも、幸運は努力が完全な形で遂行される時に限って、努力を成功に結びつける存在として近づいてくるのであり、努力がなければ幸運を招きよせることは絶対に不可能である。運命は切り開くものであり、努力して開発した運命の背後に幸運がひそんでいるのだ。
 そして、パイオニアの辛いところは、その努力が極限状態を超えてもなお、微笑しようとしない幸運の女神のために、困難な挑戦を続けなければならない点だが、ある種の人間にとっては難しければ難しいほど、挑みがいが強くなる。
 また、そういったタイプの人間の絶対数が少ないがゆえに、パイオニアの栄誉は限られた人の頭上にしか輝かないが、マッケンジー・デルタや北極洋での石油開発の仕事は、自らの責任を賭けて徹底的に努力する人びとにとっては、挑みがいのあるすばらしい仕事であることは疑いなかった。





石油民族主義旋風

 一九七三年秋のオイルショックを契機にして石油価格が高騰し、カナダにとっては、石油の安定供給が優先度の高い政治課題として、時代の脚光を浴びた。その結果、マッケンジー・デルタを中心にしたフロンティア地域の石油開発熱が高まり、一九七五年から七六年にかけてブームは頂点に達した。同時に、盛り上がってきたカナダの民族主義が反米感情を高め、オタワ政府による石油産業のカナディアニゼーション政策の反映もあって、七六年末にはブームは急速にしぼんでしまう。
 第四次中東戦争の結果、石油の国際標準価格は四倍になって、オタワ政府の石油ビジネスヘの干渉が目立つようになったが、それに先立って、カナダで最も農村共同体思想が強いサスカチワン州に社会主義的州政府が成立し、一九七三年四月に州営のサスコイルが発足した。
 また、カナダの石油生産の八割以上を支配するアルバータ州にも、州営のアルバータ・エネルギー・コーポレーションが二年間の準備ののちに、一九七五年に誕生した。株式の半分を州政府が支配し、残りの半分をアルバータ州の住民に優先的に売り出すという構想に基づいていた。
 石油危機旋風にあおられた連邦政府も大あわてで、七三年一二月六日にトルドー首相が国営石油会社構想を発表し、半年後に議会に上程したが、このときは、途中で挫折した。しかし、全世界を支配していた石油会社性悪説の影響もあって、結局は七五年に国営のペトロカナダ社が発足し、特権的な立場で石油ビジネスの仲間入りを果たした。その特権が国益の錦の御旗のもとに差別的なばかりでなく、あまりにも排他的だったために、メージャー系は言うに及ばず、アメリカの投資資本と何らかの形で結びつきを持つ独立系石油開発会社のほとんどが、カナダにおける石油開発への投資を差しひかえた。
 七五年の国営ペトロカナダ社の登場が、カナダにおける自由経済の前途に暗い影を投げかけただけでなく、オタワ政府が一九七四年に実施したカナディアン・コンテントにおけるカナダ人とカナダ資本の会社と技術の強制採用についての監視強化路線も、各方面で問題を起こしていた。
 連邦政府の施政権の及ぶカナダ領土ならびに領海内では、大きな開発計画が行なわれる場合に、一定基準量以上のカナダ系のハードウエアとソフトウエアの活用を義務づける、というカナディアン・コンテント法は、時と場合によって計画全体の進行に致命的な意味を持ちかねなかった。


オイルマン、カナダを脱出

 近代工業国として技術力を誇り、先進七カ国の仲間入りを果たしているカナダにとって、なにもこれほどの保護政策をとる必要はない。自由競争のなかで適者生存を追求するうえでの耐久力をカナダの産業界は十分持っていて、しかも、時代の趨勢は特技を生かした国際分業化が本格化しようとしていた。
 過保護は長期的には依存心を助長し、強靱で自尊心に満ちた挑戦への意欲と、実力に支えられたしたたかな企業家精神の芽をつみとってしまいかねない。世界に通用するカナダの人材と技術は、法律に守られなくとも自力でいくらでもビジネスを開拓するだけのポテンシャルとパーフォーマンス(地力)を保持しているし、間題は、パーセンテージとしての量ではなくて質にかかわっているのである。
 ところが、被害妄想におちいって、自国が誇る最良の価値に気づかないオタワの官僚たちは、よけいなお節介をすることによって、カナダが誇る最良の人材のプライドを傷つけたのである。メンドリはトキを告げずに巣ごもって卵を温めていればいいのであり、役人たちはビジネスを指図する前に、破綻しかけている国家財政の再建や、崩壊寸前の社会政策の分野で着実に実績を積み重ねる努力をすればいいのだ。
 だが、隣の芝生は自分の芝生よりも緑に見えるのたとえを地でいくかのように、自分たちが果たさなければならない職責を投げ出して、役人たちが石油ビジネスのあらゆる領域に口を出し、しかも、こっけいで見苦しい干渉を行なうことにより、自国の最良の人材の自尊心を傷つけ、プロジェクトの進行をめちゃくちゃにしてしまえば、こんな悲劇はいくら嘆いても救われない。
 そのいい例がアラスカ・ハイウェイ・パイプライン計画をめぐる鋼管選定のトラブルだが、マッケンジー・デルタの周辺では、似たような摩擦が無用な紛糾を続発させていた。
 一番有名なケースは、インペリアル石油社が天然ガスのプロセス施設を作るに当たって、アメリカの企業のフロアー・コーポレーションを起用したときの場合であり、カナディアン・コンテントで政府からの横槍が入った。一九七五年は、民族主義が役人をマスヒステリアに駆り立てたときで、同じマッケンジー・デルタのガス・プラント建設で、ガルフ・カナダ社も槍玉にあげられた。
 しかも、連邦政府と州政府が競い合うようにして、民間企業が築きあげてきた石油開発の領域に参入して差別政策をとったので、やる気十分で苦難に挑んできた人の多くがカンシャク玉を破裂させた。毎月のように五社、一〇社の規模で、アメリカ人たちがカルガリーの事務所を閉鎖して、国境の南へと引きあげていった。
 アメリカ資本のカナダからのエクソダスがこれであり、カナダにとって惜しまれたことは、腹を立ててカナダを見限った人のなかに、企業家精神のみなぎった一匹狼的な人材の比率が非常に高かったことである。しかも、それがアメリカ人に限ったことではなくて、カナダ人のなかで最も魅力に富んだオイルマンやジェオロジストも、南に向かう旅人のなかに多く混じっていたのである。この時期の私は、最良の友人とどれほど沢山の別離の握手を交したことだろうか。
 大きな企業の場合は、組織の性格からして、大胆な決断をしたり大規模な路線変更をするには時間がかかるので、影響が現われるのはかなりあとになるが、それでも、カナダの子会社を売って逃げるアメリカの石油資本が続出した。
 多国籍企業として有名な石油会社では、アトランチック・リッチフィールド社、ハスキー石油、フィリップス石油、ペトロフィナ社、エルフ・アキテーヌ社などがあり、三億四千万ドルを費やしたアルコ・カナダ社や一五億ドルでフィリップスが手放したパシフィック石油、それに一四億ドルもしたペトロフィナ・カナダ社の買収は、税金を使った国営のペトロカナダ社による官僚制国有化にほかならなかった。
 こうして、何億ドル何十億ドルという売却資金がカナダから流れ出し、豊かなポテンシャルに恵まれたカナダの開発熱は急激に冷却し、石油の開発と生産に結びつく投資資金が枯渇していった。



4 熱狂と興奮に憑かれて

 一九四七年のレデュック油田の発見以来、アルバータ州を中核にしたカナダの石油開発が活況を呈した理由は、アメリカに比べてスケールの大きな油田発見の可能性が高いこととともに、カナダの税制が石油の開発投資に対して、非常に魅力的な優遇策を採用していたせいである。
 アメリカで永年、石油開発が投資家の人気を保ちつづけたタックス・シェルターと呼ばれる税金避難用の特別控除策をまねて、さらに有利なカナダ版スペシャル控除と償却策の組合わせが、カナダの油田地帯に対しての投資資金を動員した。
 石油開発に投資した資金は、納めなければならない税金にクレディットを発生するので、大まかな計算をすると、一ドルを投資しても実質的には三五セントを使ったのと同じ結果になり、しかも、石油発見で大儲けをする可能性もある。そこで個人も企業も競って税金分を石油開発に投資し、その資金を狙ってピンはまともな石油会社から、キリは一発屋のいかがわしいプロモーターまで、ドリリング・ファンドと名づけられた投資資金を集めて井戸を掘った。
 ケインズは、政府が直接税金のバラまき合戦をすることで経済の振興を実現する政策を追求したが、企業家精神に富んだアメリカのオイルマンたちは、税金を役人の裁量ではなく納税者の判断に従って産業社会に還流させ、小さな政府と大きな経済を両立させるアイディアを政治のなかに反映することで、アメリカの自由社会に活力を持たせてきたのである。
 ある意味で、これは石油をエネルギー源にした産業時代における、新世界の二〇世紀版国民的重商主義である。英連邦に属したカナダも隣国を手本にしたがゆえに、アメリカと同じように繁栄した近代的な産業社会を築きあげることに成功したのだった。
 ところが、一九七三年のオイルショックを契機にして、カナダは大きな政府に支配された国に変貌していくのであり、それに反発した一部のアメリカ人たちがカナダを去りはじめ、踏みとどまった企業はスタンドバイを決め込んだ。
 実力を誇るアメリカ系の石油会社が活動を低下させると、ドーム石油社を指揮するジャックとビルのコンビが、この機会を最大限に生かして派手に動き出す。会長としてオタワに顔の広いジャックは政治工作を担当し、トルドー首相が率いる自由党に対して、個人としてカナダ最大級の政治献金を永年続けてきた実績を背景に、ダイナミックなアプローチを展開する。
 カルガリーの石油会社が政治献金するのは、ほとんどの場合が保守党だというのに、ジャックは毎年巨額の献金を、トルドー内閣の自由党を対象に行ない、その取りつぎはドーム石油社出身で、自由党の代議士になったジム・ヒギンスが行なった。
 また、カルガリーのオイルマンたちの間では、ジャックはトルドー首相だけでなく、エネルギー相や蔵相をやったJ・クレチアンやJ・グリーン、それにD・マクドナルドなどとたいへん親しく、その影響力は人好きのする性格がプラスになって絶大なものだ、と感嘆まじりの声が高かった。
 現にカルガリー・ヘラルド紙のエネルギー担当論説委員のデーブ・ハッターは、「ジャック・ギャラハー会長の仕事は、毎週カルガリーとオタワの間を往復して、政治的な調整をすることだった」と私に述べている。
 ドーム石油社が得意にしてきた石油開発のやり方は、有望な鉱区のプロスペクト(試掘)化を行ない、幾社かのパートナー会社で利権を分け合って危険を分散し、石油の発見によって資産と資金を増していく、という正攻法以上に、石油を発見しても開発を継続するだけの資金に不足する会社を買収したり、生産井に近い鉱区を買ってデブロップするパターンである。
 しかも、それから先がドーム一流のやり方であり、鉱区や生産井の買収の支払いに現金はあまり使わず、もっぱらドーム社の株や転換社債を活用し、節税と財務負担を軽減しながら、資産内容をよくして、株価の上昇をはかるのである。
 だが、アメリカ資本が活動を縮小した一九七六年のチャンスを利用して、ドーム石油社が快進撃をするためには、ウルトラ級の決定打が必要であり、そのひとつがタックス・シェルターだった。


政治工作による快進撃

 カナダでは州政府と連邦政府の間で、権限の奪い合いが激化しており、特にそれが著しかったのが、カナダの石油のほとんどを生産しているアルバータ州だ。
 進歩保守党が州政府を独占しているローヒード首相に率いられたこの州は、石油のロイヤルティ(鉱区使用料)収入が毎年州予算を大幅に上まわっていた。物品税に相当する州税がないのは、カナダでこの州だけだし、使い残した州の余剰金が次の世代のためにヘリテージ・ファンドとして数十億ドル溜まっていた。アルバータ州はカナダの中東として、青い目のアラブ人が君臨する成金王国扱いされ、財政難に苦しむ他の州だけでなく、連邦政府からも羨望の的で、分け前をねだられていた。連邦政府とアルバータ州政府の利害の対立をたくみに利用して、石油開発を種にドーム石油社のビジネスにプラスになる方向で動くという点では、ジャックの率いたドーム社ほど有利な立場を誇る石油会社は他に見当たらなかった。
 カナダの各州内で発見された石油だと、石油のロイヤルティはほとんどが州政府の収入になるが、連邦政府が直接統治している北極洋多島海の島々と、北アメリカのカナダ領大陸棚の石油ロイヤルティは、連邦政府の財源になる。そこでオタワ政府にとっては、自分たちの収入と結びついた地域での石油開発を優遇することが必要だということになる。これは北極洋多島海や陸地からだいぶ遠いボーフォート海沖合に鉱区が集まっているドーム石油社の利害と一致する。
 ここに着眼したジャックは、連邦政府と州政府の分断工作を上手に遂行していった。現に資源に乏しいノバスコシア州沖合のサーブル島で石油が発見されたために、そのロイヤルティの帰属をめぐって、ノバスコシア政府とオタワ政府は係争中だった。しかも、アルバータ州のローヒード首相はオイルマンであり、インペリアル石油社のマネージャーから政界に進出していた。
 同じインペリアル出身でも、ジャックは民族系の独立業者としてドーム石油社を興し、国際資本に挑戦するカナダ会社の出世頭として、ナショナリスティックなトルドー政権のおぼえがいいだけでなく、自由党の資金源だった。
 ジャックの強い働きかけが効を奏して、一九七七年一〇月の連邦予算には、ドーム石油社が有頂天になってもおかしくないタックス・シェルターが導入され、人びとは半ば唖然としながら、この特別措置をドーム予算と名づけて眉をしかめた。
 ジャックとビルのコンビが着実に布石を敷いていたので、ドーム石油社の快進撃は壮観であり、ハードウエア的な道具立てを活用した分野で人びとの注目を集めていた。ブリティッシュ・コロンビア州の天然ガスプラントの新設、ダウ・ケミカル社と共同エチレン工場や新規石油化学コンビナート計画、ボーフォート海の大胆な開発計画などが続々と発表された。四千メートルの掘削能力を持つ四隻のドリル船や砕氷船の記事が、連日の新聞で取り上げられた。
 私は石油開発の本質はソフトウエアにあり、地味だが堅実なアプローチが最後の勝利を約束する、と考えるタイプの人間だから、ドーム社の路線が、ドイツの機甲師団の運命に似ていて、スターリングラードに続くクルスクの戦いが天王山だろうと考えた。だが、大部分の人は、ドーム石油社の快進撃に見とれ、熱気に包まれて興奮していた。
 ドーム石油社は人気株の筆頭として儲かる株の代名詞となり、カナダの投資資金だけでなく、ニューヨークに流れ込む機関投資家の巨大な資金に渦潮を発生させた。ドーム社の社員は会社の奨励策もあったので、数万ドルの単位で借金をして、老後の蓄財の意味で株を買い集めたから、従業員の持ち株が全体の一割を上まわり、その金額は二億ドルに達していた。
 私の友人の妻はドーム社に一〇年以上も勤めて、毎月給料の一割をさいて社員持ち株預金を続け、株によるマネービルが、あまりにもめざましいので、転職する気には一度もならなかったし、停年の時にはミリオネヤー(百万長者)になると思い込んでいた。
 なにしろ、上昇する株価が大天井に達するたびに分割で株数は増え、株主たちは資産増加に酔って有頂天になった。こうして、ドーム社の経営陣が政界と結んで演じた手練手管が威力を発揮し、不況のかげりが出たカナダの石油業界のなかで、ドーム・タワーだけがラベンダー色のオーロラの輝きに照り映えていた。
 かつてはあれほど情熱的に取り組んでいた大手各社が、マッケンジー・デルタの石油開発への意欲を半ば失ったために、一九七八年冒頭の私は、インペリアル、ガルフ、シェル、シェブロンといった各社が、新しいパートナーを求めてファームアウト(分担請負に出して井戸を掘ること)しようとするプロスペクトの検討で忙しかった。
 陸上部に位置するツクトヤクツク半島のものでは、ドーム石油社までがファームアウトしようとした。連邦政府の鉱区以外は開発の対象として魅力に乏しくなっていたのである。
 一九七八年の半ばに、カナダのフロンティアに見切りをつけた私は、独立してコンサルタント会社を設立し、ドーム石油社と国営のペトロカナダ社以外は活動を縮小して不況に沈むカナダをあとにして、もっぱらアメリカの油田地帯での仕事に従事した。
 偏狭な民族主義が、フロンティアでの仕事にロマンを求めるオイルマンたちを圧殺し、カナダの北極圏に挑戦と生きがいを感じて世界中からやってきた人びとが失意に沈んでいた。カナダは雄大な大自然と寛大な入国管理制を持つ国として、パイオニア魂を持つ若者たちを全世界から引きつけるすばらしい伝統を誇っていたのに、自由党を名乗る政権自らの手で、自由の精神を放棄すると、保護主義のなかで門を閉ざして孤立への道を踏み出した。
 門を閉めて新参者が流入することを防ぎえても、カナダにあって自由の尊さを知り,つねに自由を求めつづける人を国境内にとどめておくことは不可能だった。
 言論や思想の自由と並んで、亡命の自由は人間の基本的人権を保障するうえで最も大切な権利である。しかも、亡命を決断しなくとも新しい仕事を求めて移住する自由は、全世界に十分すぎるほどあった。有能な人材はつねにその絶対量が不足しており、全世界が探し求めている。そして、プロフェッショナルは会社や組織の備品ではなく、自らの能力を最大限に発揮できる仕事場を求めて、地球規模で移動するタイプの人間であり、石油開発のプロには世界中のフロンティアが待っていた。
 こうして、マッケンジー・デルタやボーフォート海で一〇年以上もの経験を持つジェオロジストやエンジニアたちが、新しいフロンティアと自由の地を求めて、たとえ一時的であるにしても、カナダを離脱していったのである。


スペキュレーション株、泡沫化へ

 こうした時代性のなかで、ドーム石油社のひとり舞台は二年間ほど華々しく続いた。だが、望月は時がくると欠けていく、のたとえのとおりで、その天下はあくまでも一時的なものでしかなかった。
 一九七七年初頭から七九年夏にかけての二年半で六倍に値を上げたドーム石油株も、永久に伸びつづけるわけにはいかなかった。ボーフォート海を舞台に投資家たちを熱狂の渦に巻きこんだドームタワーの主人公が、石油や天然ガスを求めて掘り進むボーリング現場に発生するガスバブルに包まれて、南海の泡沫ならぬ北極洋の泡沫化現象への転換点を迎えたのである。
 南海の泡沫とは、重商主義が華やかに展開していた一八世紀初頭の大英帝国に発生した、スペキュレーション(投機)株にまつわる大ドラマであり、巨額な財政赤字を国債でかろうじてすり抜けている日本やカナダの現状と酷似する状況下のイギリスを巻きこんだ、スキャンダル事件である。スペイン継承戦争の軍事支出を巨大な公債発行でまかなったイギリス政府は、利息の支払いだけで破産寸前であり、その対策として特権を持つ貿易会社を設立した。こうして南海会社(サウスシー・カンパニー)が誕生したが、それはスペイン領中南米で奴隷の独占貿易を行なって巨利を獲得しようということであり、名目は漁業の振興だった。
 ユトレヒト条約でスペインから中南米植民地の一部と奴隷貿易特権を得たイギリスは、それを南海会社の特許にして、ジョージT世を総督に迎えると大規模な投資資本を集めた。株の人気は熱気の渦で沸き立ち、百ポンドの株は暴騰し、一七二〇年一月に一三〇ポンドだった株価が、半年後には一〇五〇ポンドに達した。
 この成功につられて模倣する会社が次つぎに出現し、あっという間に二百社を超えた。海運や鉱業を中心にした産業資本の調達もあったが、大部分は投機的な泡沫会社であり、なかには「飲酒による死亡保険」とか「女性の貞操保険」、それに「永久機関製造会社」もあり、病的ブームがイギリスに蔓延した。
 独占的な地位を守るために政府に働きかけた南海会社は、「泡沫会社法」を制定させて、特許状を持たない他社を違法呼ばわりをした結果、二〇年六月にブームは絶頂に達して泡沫会社がつぶれだす。
 南海会社だけは生き残るかにみえたが、九月には南海会社株も大暴落で一七五ポンドまで落ち、一二月に一二四ポンドになったことで、投資家のほとんどが財産を失った。しかも、大臣の収賄で下院が調査に乗り出し、投機をあおり立てただけでなく、株でのボロ儲けに参加していたことも明らかになり、「南海の泡沫事件」は歴史のなかに汚名をとどめたが、二〇世紀のドームゲート事件は、はたしてどのようなガスバブルを記録することになるであろうか。
 最近の日本人は日本列島を覆うショウビニズム的な時代性のなかで自国の歴史的エピソードにはくわしいが、日本史には南海の泡沫的な事件はあまり見かけないし、世界史への目配りが不足しているので、泡沫化するスペキュレーション事件がたいへん斬新で、例外的なものと思いがちである。
 しかし、世界史をひもといてみると、このような投機ブームは歴史のうねりのなかに繰り返して登場することが分かる。奴隷貿易や土地投機で紀元前一世紀のヨーロッパで最大の金持になったマーカス・クラサスの伝統は、ベニスやフローレンスの富豪たちだけでなく、イベリア半島の君主たちに伝わり、一六世紀を大探険の時代にしたが、一八世紀の初頭は泡沫会社の黄金時代でもある。
 イギリス人たちが南海会社の株価に熱狂していた同じ時期に、フランス人たちはスコットランド人のジョン・ロウが仕掛けた「ミシシッピー泡沫」によって投機に酔い、巨大な財産を雲散霧消していた。それは新大陸アメリカを舞台にしたフロンティア・ラプソディである。
 アーカンソー川の沿岸に巨大なエメラルド鉱床があり、その開発資金調達のために売り出されたルイジアナ開発会社の株が五百ポンドの値をつけて大人気を博し、たちまち一万ポンドに急騰して熱狂の渦をまき起こしたあと、最終的に一七二〇年に元値の五分の一にまで大暴落した。
 この、ミシシッピー泡沫事件で大量の破産者を生んだジョン・ロウはフランスから逃亡してベニスに身を隠した。また、一九世紀から二〇世紀にかけてゴールドラッシュやオイルブームで賑わったアメリカ大陸の喧燥の名残は、ニューヨークやバンクーバーの株式ブローカーの血潮を今でもかき立てて、石油開発はつねにシテ株の代表的存在になるのである。



5 流れ星になった北極の彗星

 北極圏の石油開発は想像を絶する苛酷な条件のなかで行なわれるが、特にボーリングとなると、北極洋が結氷する厳冬期の三カ月間しか仕事ができない。
 ブリザートが吹き荒れる真冬のボーリング現場は、昼間でも太陽が姿を現わさないし、気温はマイナス五〇度以下であり、四千メートル近く掘削して石油があるかないかのテスト結果が明らかになるまでには、少なくとも二度のボーリング・シーズンが必要である。
 そのために新しい試掘が本格化する数力月前の夏から秋にかけて、ドーム石油社が発表する新しいプロジェクトの内容によって、ドーム株が利食い売りと空売り買戻しの攻防戦によって、めざましい値動きを示すことは、すでに一種の年中行事になっていた。
 石油株プロモーションの常套手段は情報操作の一語につき、噂を流したり公式発表などさまざまなやり方があるが、石油大発見のニュースは一瞬のうちに熱狂の渦のなかに人びとを呑みこんでしまう。そこにシテ株を扱う時にプロの株屋の醍醐味があるといわれ、石油を発見するよりも株の操作で莫大な利鞘稼ぎを狙うほうがはるかに簡単だから、昔から石油株はシテ株の寵児になってもてはやされた。
 これは世界中に共通な現象で、ペニー・ストック・ビジネスと呼ばれるが、日本でも一九七〇年代の帝国石油や日本石油は思惑と噂だけで、まるで優良株の代表であるかのような印象を投資家たちに植えつけたものだった。日本では、帝石はシテ株そして自己演出をする名人的存在だが、カナダの名人はドーム石油社が抜群である。
 一九七九年のボーフォート・キャンペーンで、ドームの首脳陣は試掘していたコパノアM一三が日産一万二千バレル(約一千七百トン)の出油を記録したと発表した。目を見張るに値する数字を前に、人びとは熱狂したし、株価も暴騰した。翌年に出た株主向けの営業報告書のボーフォート海の活動報告冒頭部は次のように書かれている。
 「一九七九年の試掘期のハイライトはコパノアM一三号井戸であり、前期に継続して一万四一七四フィート(約四千三百メートル)の深度に達した。この井戸の四層から生産能力として支持できる推定値は、日産一万二千バレルを上まわる。コパノア井戸のテスト計画の最も特筆できる局面は、非常に良好な貯油層の確認と産油能力であり、油田の構造確認のための追加試掘により、十分な埋蔵量確定が行なわれれば、商業的に採算の合う井戸となりうるであろう……(後略)」
 額面どおり信用せずに多少割り引いて考えても大した朗報である。ドーム石油社でジェオロジストをしている旧友と食事をしたとき、それとなく技術的な内容について問いつめてみたのだが、何かひとつスッキリしたものが感じられないのだ。ところが、一九八○年の段階で、ビルはタルシウトA二五号を掘り終わった時点だというのに、「タルシウト油田はほぼ商業生産にのると言える」と発表した。
 そう願望しているのはよく分かるが、希望的観測ばかりで組み上げていると、砂上の楼閣どころか泡沫上の楼閣になってしまう恐れがあることに気づいていないのだろうか。
 現に、翌八一年にドーム社はボーフォート海で最も有望だと考えられる二つの井戸の分析結果を、推定埋蔵量の数値とともに発表している。この数字は世界的に名を知られたダラスのコンサルタト会社のドゴリヤー・アンド・マックノートン社の試算に基づいており、コパノア油田は一八億から四五億バレルの間、コアコアク油田は多分二〇億から四〇億バレルの間の埋蔵量が予想できるという。
 確かに、数字を眺める限りにおいては、気が遠くなりそうな量だが、問題は地下に埋蔵している石油のうち、どれくらいまで地上に回収できるか、という確認埋蔵量のなかの可採埋蔵量である。しかも、可採埋蔵量の数字と投下資本を比較して、はたして経済的な採算性と結びつけうるのかを検討してみると、おそらくは経済的に引き合わない、という結論しか出てこないのではないか。


埋蔵量の誇大発表

 一見して悲観的な見通ししか立たない状況のなかで、さらに勇気を出して困難に挑んでいくのがパイオニアの仕事である。孤軍奮闘を続けているドーム石油社の雄々しい姿勢には敬意を払うが、それにしても、経営陣の行動のなかには、あまりにも政治と株を結びつけた不純な投機性がみえみえだった。
 しろうとは数字の大きさに幻惑されてコロリと参ってしまうが、自分で同じデータから数字を作る能力を持ったプロの目には、政治家と一緒になって日産一万二千バレルという数字をかつぎまわるジャックとビルが、いかにも卓絶したプロモーターとして映ってしまう。
 私はテキサスで目撃した日産六千バレルの井戸の話を思い出した。相手はことあるごとに日産六千バレルの数字を強調したので、私はその井戸の累積生産量について問いただしてみた。
 驚いたことにその井戸は最初の四〇分間に一七〇バレルを生産して、それからあとは塩水ばかりになったが、四〇分で一七〇バレル生産する井戸は、二四時間なら六千バレル生産することになる計算だ、というのだ。
 あまりのヨタ話で怒る気にもならなかったが、それをもっと大がかりにした話はテキサスにはいくらでもあって、その代表がオースチン・チョークにまつわるプロモーションである。
 白亜系のオースチン・チョークに石油が存在していることは昔から有名だが、石油があっても採算性に乏しいために、まともな石油会社は敬して遠ざかるのであり、もっぱら発見率の高さで商売するいかがわしい連中のハンティング・フィールドになっていた。
 確かに、掘り当てれば日産五百バレルや一千バレルの井戸になるが、それだけの生産量を維持するのはわずか数日から数週間であり、フラッシュ・プロダクションの時期が過ぎると生産量は激減してしまい、数バレルの石油に対して、百倍とか一千倍の塩水が湧き出してコスト割れになり、投資資金が回収できるのはよほどの幸運者だということになる。
 生産する石油の価値よりも塩水の始末にかかるコストの方が大きければ、戦時経済のような極限状態にでもならない限り、誰もビジネスとして見向きしない。
 それと似たような経済環境がボーフォート海にはあって、気が遠くなるほどの掘削費だけでなく、砕氷タンカーやパイプラインの建造をして、石油の消費地にもたらすまでの巨額投資を前提にするなら、それに見合っただけの石油の埋蔵量が必要である。
 ボーフォート海の場合は、可採埋蔵量としての石油が、最低限度で五〇億バレルあって初めて採算が合う、と言われているのである。
 実際問題として、コパノアM一三号井にまつわるドーム石油社の発表が、いかに問題を含んでいるかについては、いろいろな形で気になる情報がカルガリーのオイルマンたちの間をとびかっていた。
 北極洋やマッケンジー・デルタ周辺の地質やエンジニアリングのコンサルタント会社として、カルガリーで永年定評を保持している会社としては、マクダニエル・エンジニアリング・サービス社やスプルール・アソシエート社がある。しかも、両社ともドーム石油社がコンサルタント会社として利用してきたのであり、ボーフォート海のドーム石油社の埋蔵量の数値の信憑性を高めるうえで、こういった第三者の公正なオピニオンは決定的な意味を持つことになる。
 ところが、ドーム石油社は両社からそれを得ることができなかった。なぜならば、ドーム社が外部に向かって大成功と発表する上で必要な数字を両社とも出してくれず、この事実は、ドーム石油社の業績だけでなく、今後における存立の間題にもかかわる重大な意味を持っていた。
 エンジニアリング各社は蓄積した経験を通じて、テストした含油層が非常に細粒マトリックスを含む事実から、フォーメーション・プレッシャー(地層圧)が三時間のテストの後で一〇パーセントの水準に低下するからには、ドーム石油社が希望するような大規模な埋蔵量を予想しえないと計算した。コンサルタント業は経験と信用を売りものにしてビジネスをするので、信用を損ないかねない作為のある仕事に手を貸すわけにはいかないのである。
 しかし、それではドーム石油社としては社運を賭けてやっている事業にはずみがつかないだけでなく、行き詰まってしまう。そこで期待に最もそう結果を出してくれるエンジニアリング会社をいろいろ物色した結果ダラスのドゴリヤー・アンド・マックノートン社の数値を発表したのだが、回収率に関しては実に歯切れの悪さを残しているのである。


ドーム社にさす影

 ドーム石油社の株価を上向き傾向で維持するためには、実績の上での好材料が必要だ。だが、北極洋多島海からボーフォート海に至るまで、マスコミ界を派手に賑わせつづけた新発見の成果報告は、まだ一滴の石油生産とも結びついていなかった。
 大衆はブリキの鍋と同じで熱しやすいがさめやすい性質を持ち、同じ水準での刺激では.だんだんと興奮しなくなる。そこで断続的に目の醒めるようなビッグニュースが必要となり、その決め手が買収劇だった。一方では国営のペトロカナダ社が、巨額な税金をバラまいて石油会社の買収攻勢をかけていた。
 ハスキー石油社では失敗していたが、アトランチック・リッチフィールドやパシフィック石油社がペトロカナダ社に買収され、カルガリーのオイルマンたちは、「ペトロカナダは一滴も石油を発見しないくせに、二〇億ドルも使って健全な石油会社のお役所化に一生懸命になっている。石油は生産井を買ってではなく、試掘によって手に入れるべきものなのに」という批判の声を高めていた。これは別の形で進行している石油産業の国有化だと、オイルマンたちは考えた。
 だが、ペトロカナダ社は永年にわたってドーム石油社がとってきた路線を踏襲したのであり、それが逆に刺激になってジャックとビルは、隘路打開のために大がかりな買収工作を準備した。そして、一九七九年の末に、テキサスのアマリロに拠点を持つメサ石油社のカナダ権益を六億ドルで買収する電撃作戦のあと、間髪をおかない速さでカイザー資源社を七億ドルで買収してしまった。折から第二次石油ショックが進行していて、石油の国際価格はものすごい勢いで高騰していたので、官僚的な目で眺める限りにおいて、ペトロカナダ社とドーム石油社の果敢の動きは、華々しい成功をもたらしているかの印象を与えた。
 それにしても、一九八〇年代の始まりとともに、カルガリーの石油ビジネスは沈滞に支配され、それがカナダ全体を覆う経済不況と重なって、人びとの心のなかに暗い影を落としていた。
 特に、オイルマンたちにとって憂欝だったのは、一九八〇年一〇月二八日に発表されたネップと呼ばれるナショナル・エネルギー・プログラムだった。
 これが実施されれば、石油ビジネスの全域に官僚支配が及ぶことが明らかで、しかも、ネップの効力はドーム石油にも深刻な影響を及ぼすことは明白だった。
 最も重要な点は、新規の探鉱開発権はカナダ資本化率七五パーセント以上の企業でないと認めず、外国資本がすでに取得している鉱区は、五年以内に開発に着手しないと没収する点にあった。
 石油産業全体が差別政策で沈滞化に支配されているなかで、ドーム石油社やペトロカナダ社といった、特権的な数社だけが繁栄を謳歌しつづけること自体が無理であり、いずれ皆と同じ悲哀を味わうことになるのは時問の問題といえた。
 カナダの石油産業界の不振は構造的なものであり、民族主義の台頭が企業家精神の活動の場を狭め、自由な創意を政治的に圧殺しようとしたせいである。差別性によって偏向した石油開発ゲームのルールが、本来の約束の原点に立ち戻る方向で改まらない限りは、最終的に全体の地盤が沈下し、特権の持ち主の足場さえも崩れ去る。
 しかも、驕れる者として天下を謳歌した時期に、ドーム石油社は先人たちが永年苦労して築きあげた信用の多くを損なっており、覇者として得たものよりも、失ったものの方がはるかに多かった。
 カルガリーのオイルマンたちの間では、ドーム石油社のプロジェクトの多くは技術的にかなり杜撰であり、オペレーションのいい加減さはひどいもので、予算の八割や一〇割のオーバーは日常茶飯事だという悪評が、公然と囁かれていた。急激に事業が拡大したために、その任にふさわしい見識とパーフォーマンスをいまだ持ち合わせない人物が、力量以上のプロジェクトや予算を取り扱ったせいである。
 かつては、カルガリーで多くのジェオロジストや石油開発のプロから、憧憬まじりの敬意を捧げられたことのある組織であるだけに、その名声の失墜は惜しまれることだった。量としてスタッフを倍増するのは金の問題であり簡単だが、その質を二倍にするのは非常に難しい。
 あらゆるものに生成と発展、そして衰退から死滅に至るプロセスが存在している。そうである以上は、「驕れる者久しからず」のさだめのなかで、ドーム石油社の行く末が流れ星の運命に似たものになると予想するのは、それほど難しいことではなかった。
 一九七〇年代に北極の空を輝かしく飾った新時代の彗星は、越えてはならない自らの原点を踏みはずし、軌道を楕円から双曲線に修正したことによって、ついに流れ星の運命に身をゆだねることになるのである。


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