2 無謀な挑戦




1 石油公団への接近

 一九七五年の国営石油会社ペトロ・カナダの発足をバネにして、ドーム予算と呼ばれた一九七七年の連邦予算の成立以来、オタワ政府の差別的エネルギー政策が、カナダの石油産業を痛打したことは、すでに述べたとおりである。
 ドーム予算というのは、一本当りの掘削費が五百万ドルを超える場合に限って、非常に有利な課税上の特典が認められるという内容であり、さし当たって対象になる井戸のほとんどが、ドーム石油社のボーフォート計画や、北極洋での大胆な試掘計画に属していた。だから、人によってはこの予算を《ギャラハー修正条項》と名づけて、トルドー首相のドーム石油社へのエコひいきに腹を立てる前に、ジャックの手腕に舌を巻いたのだった。
 ドーム石油とペトロカナダ社だけがいい子でいられる状況下では、危険率の大きなフロンティア地帯に社運を賭けるのは、あまり賢明ではなかった。そこで、一九七七年頃からメージャー系は競い合うようにして、マッケンジー・デルタの鉱区権の一部をファームアウトしようとしたし、ドーム石油社までが、試掘コストが五百万ドルに達しないツクトヤクツク半島の鉱区を放出しようとした。
 この時期にペトロフィナ社を代表して、各社との間でファームイン(分担請負いに参加して井戸を掘ること)の交渉を担当し、プロスペクトの分析や事業計画の評価をしたことにより、私は各社の手の内やパーフォーマンスについて観察する機会に恵まれた。プロ同士の真剣勝負の出会いを通じて、相手の力量と癖に似た傾向を読み抜くのである。
 そのような体験によって得た結論によると、当時の段階では、陸上から沿岸地帯に重点を移していたインペリアル石油社の実力は、どうみても抜群だった。パイオニア的存在としてマッケンジー・デルタで最初の石油を発見した実績を持ち、しかも、水深一〇メートル前後の浅海に人工島を作ってボーリングをしていたインペリアル石油社は、経験豊かな人材の層の厚さや技術の面で、ドーム石油社に三年以上の差をつけていた。
 歴史の重みを感じさせる手垢を伴った陰影はペンキで描き出せないが、伝統を積み重ねることによってしみ出してくる自信と社風が、真剣勝負の決定的瞬間に成り上がり者的な存在との差を意識させる場合が多い。
 それは建物の豪華さとオフィスの広さや調度品には無関係であり、あまり目立たない脇役のなかにすごい人材が揃っていることや、ちょっとした線のひき方や断層の表現の仕方に、これはと思うひらめきが感じられるのだ。
 言うならば、ダイヤモンドを眺めたときに感じる、あのカットの仕方や透明度みたいなものであり、大部分の人は大きさとしてのカラット数に魅惑されるが、むしろ、三Cと呼ばれるカット、クラリティ、カラーこそ質の決め手であるのと似ていて、品格ということばに相当するものが、円熟度の差になり、伝統としての存在を感じさせるのである。
 私が三年の差と読んだ時間の遅れを補う意味で、ドーム石油社は必然的にハードウェア指向路線をつき進み、砕氷船やドリル・シップの建造計画に熱を入れ、素人が目を見張る派手なプロジェクトを大々的に発表していた。そして、これが効を奏して、数年を待たずして日本人に大量の資金を献上させることとなるのだが、その契機を生んだものとして、七〇年代半ばにアメリカやカナダに高まっていた環太平洋経済文化圏という考え方がある。


橋頭堡を築く

 ギャング映画スターのジェームス・キャグニーによく似ていると言われるビル・リチャードは、明晰な頭脳と大胆な着眼力の持ち主であり、太平洋の対岸に位置してエネルギー資源に不足し、盛んにロッキー山脈の石炭開発に進出を試みている日本人の動きに注意を払っていた。
 石炭の次は石油のはずだし、太平洋の隣に北極洋が位置しているとすれば、日本人と手を結ぶのはビジネスとして悪いことでないと結論するのは、彼にとって至って簡単だった。日本人を相手に理詰めの議論をするのは容易ではないが、難しい交渉をまとめる能力に関しては、彼の右に出るだけのビジネスマンはそういないし、タフな仕事であればあるほど、彼の闘志は燃え上がった。厚いじゅうたんを敷きつめたドーム社の重役室や愛用するマツダのスポーツカーを馬糞だらけのカウボーイ・ブーツで汚しても気にならないビルは、身なりに無頓着で土曜も日曜も働きつづけるワークホリックなビジネスマンだが、頭のなかは"ブリリアン・ビル"の威名どおり、カミソリのように冴えわたっていた。
 とりあえず相手と手合わせをしてみて、どこを狙えばどんな手応えがあるかを打診する目的で東京に出張した彼は、大手町の経団連本部を訪ねた。一九七七年一二月のことである。
 権勢欲の強い誇り高い老財界人たちの経団連は、彼がカルガリーで頻繁に愛用するランチマンズ・クラブと違って落ち着きに欠けてはいるが、ビジネスを交渉する窓口に使う上では申し分なかった。それに、カルガリーには存在しない、とても酒落たレストランが東京にはいくらでもあるし、一度食事をともにすることによって、取っつきにくそうな日本人がいたって気さくで扱いやすい人間に変わってしまうのを確認して、彼は目を細めた。
 最初の偵察で日本人の感触を把握した彼は、三カ月後の翌年三月に再び東京を訪れ、経団連の窓口機能を十分に使いまくる体勢を整えたあと、駐日カナダ大使館に手配のすべてを担当させ、石油公団を訪問した。ボーフォート海のプロジェクトに日本人を誘いこむためである。
 石油公団側の反応はお役所仕事の通例にもれず、あまり手応えのあるものではなかった。それはボーフォート海の名前だけは地図で知ってはいたものの、石油のポテンシャルがどの程度で、地質学的にどんな特性があるかについての理解を持ち合わせた人材がいなかったからである。
 なぜこんな断言ができるかと言えば、それからしばらくして私は帰国しており、石油公団に電話したことがあったからだ。
 ちょうど虎ノ門の近所で二時間ほど時間の余裕ができたので、相手の都合さえよければお茶に誘って意見の交換でもしたいと考えて、石油公団にダイヤルした。
 「ハイハイ、こちらは石油公団です」
 「公団のスタッフの人でカナダの石油開発を担当している人と喋りたいのですが‥‥」
 「カナダですか。カナダを担当している人というのは、特別にいませんが……」
 「それではアラスカや北極洋はどうですか。私はアメリカから来たジェオロジストで、カナダの石油開発についてちょっと話をしたいことがあるのですが……。
 「ちょっとお待ちください。担当の部門に問い合わせてみますから……」
 ということでしばらく待ったが、結局は、カナダについては担当する人間は存在しないので悪しからず、という返事だった。
 オイルサンドがジャーナリズムによって注目されたり、シベリアの石油開発の現状に精通するためには、カナダの地質技術水準に注目することが最良だというのに、石油公団にはそういう堅実な仕事をしている人材がいないというのだ。
 石油公団が政治家や役人の税金のバラまき合戦の下請け機関になり、石油開発というエネルギー政策の根幹に当たる頭脳部門を持たないまま、インテリジェンスや戦略への対応もできないとしたら、その存在価値はゼロに等しい。
 こう考えて大いに落胆しただけでなく、肌寒い思いに襲われたことを印象深く憶えている。
 当時の石油公団にはカナダに限らず世界の石油開発の現状について、責任を持って取り組んでいる人材もいなければ、機構も存在していなかったということなら、これではビルもずいぶん苦労をしたに相違ない。
 それでも、彼はボーフォート海の石油開発プロジェクトを熱心に公団の役人に説明して、ファームイン方式で日本の資本参加を呼びかけたのである。時あたかも、ドーム石油社によるひとり舞台が続いていた時期でもあり、通産官僚の天下り先である石油公団の上層部は、地質学的な問題や技術的なことは初めから分からないから抜きということで、もっぱら政治的な一般論で何となくボーフォート海の問題が分かったようた気分になってしまった。
 こうなったらしめたものであり、じっくりと時間をかけて料理していくのはビルの腕のみせどころだから、石油公団は彼の自家薬寵中のものになったも同然だった。
 こうして東京に橋頭堡ができたので、ビルはその後二年間に数度も東京訪問を繰り返し、石油公団のスタッフもカルガリーのドーム石油社本社や、ボーフォート海の試掘現場を何回かにわたって訪れた。
 確かに、石油公団にはカナダの石油開発を担当する形で、特別な専門家は存在しなかった。それでも、石油公団には、石油会社から出向しているエンジニアをはじめとして、石油間題の分かる専門家たちは健在であり、入手できるデータを解釈する範囲内でなら、おおまかなフィジビリティ・スタディをやる能力はどうにか持ち合わせていた。  


壮大な浪費へ

 幾度かのカルガリー訪問と現場を視察した感触から、技術陣のレベルではボーフォート海の計画は経済的にとても成功する可能性がないという結論にたどりついた。日本人が保有している石油開発のパーフォーマンスと、石油公団の動員できる能力を考えると、ボーフォート海はあまりにも限界を超えた課題であり、血税を大量に投入するにはあまりにも未知のものが多すぎる、というのがその理由だった。
 技術関係者には良心的に仕事をする人も多いので、政治的な思惑や出世欲のために組織を食いものにする天下り高級官僚で構成された公団上層部との間には、深い亀裂が生まれていた。これは石油公団の内部で耐えてきたある技術者が、私の友人のジャーナリストに漏らしている証言である。
 それに七〇年代最後の時期のカルガリーでは、まともな石油開発会社はどこも同じように、ドーム石油社のパートナーになって、問題の多いボーフォート海に乗り出そうとは考えなかった。はるかに有望な鉱区をマッケンジー・デルタに多量に保有しているメージャーズでさえ、新規投資に二の足を踏んでいるのだ。
 政治環境があまり良好でなかったことはもちろんであるが、一人ではしゃぎ過ぎているドーム石油社の鉱区の地質条件についての新知識が、これまでとは異なったイメージとアプローチの必要性を感じさせていた。
 ドーム石油社が保有するボーフォート海の鉱区は、地質学に見てプロデルタという波動エネルギー量の小さい堆積環境と、厚い砂岩層の発達する可能性に乏しい、トルビダイト層(図6)で構成されていることがかなりの確率で予想できた。
 トルビダイト層は海底泥流を成因にした深海堆積物であり、泥岩が主体になっていて厚い砂岩の発達が見られないため、規模の大きい石油や天然ガスの貯蔵層になりにくい。しかも、地層の下部は粗粒でも上部に向かって緻密になっていくだけでなく、リズミカルに繰り返す周期性を持つために、孔隙率が大きくて有望な砂岩部を塩水が占め、あまり有望ではない細粒砂岩質の部分に石油やガスが溜まっていることが多いので、長期的に安定した生産を期待することが難しい、というのが一般常識である。
 何億ドルあるいは何十億ドルの規模での開発資金が必要になる場所なら、それに見合った何倍もの価値を持つ石油埋蔵量が期待できないとビジネスにならないが、大陸棚に加えて北極洋のような遠隔地の苛酷な自然条件が支配する所で、トルビダイトにそれを賭けるのは無謀だというのが、プロの間の共通認識だった。
 常識の裏をかいて、経済性を伴った石油を生産できれば、こんなめでたいことはないが、そのためには天才的な能力に加えて、たいへんな努力がいる。ただガムシャラに大勝負を行なうというのは、一発の大当たりを狙う千三つ屋のやり方であって、科学をべースにした石油開発の正攻法とは違うのである。
 宇宙計画と並んで、現代における科学と技術の最先端を結集した石油開発の領域では、一〇年以上の実務経験を積んだプロの人材たちが、ソフトウエアとハードウエアを駆使してシステムを作り、新時代のフロンティアに挑戦している。明日の成果を確実に手に入れるために、知識や技術をはじめとした今日の資産を総動員して、計算されたリスクのなかで新しいビジネスを開拓していくのが、石油開発における最も正統なアプローチである。
 運用される資金の性格とそれを取り扱う石油開発担当者側の間題意識と責任感の相関関係で見ると、すべてのビジネスに適用できる《経営効率の予想曲線》とでも名づけたらいい傾向図が作れる(図7)。
 これは私の過去一五年問にわたる石油ビジネスでの体験から得たアイディアを、一般化するためにパターンで表現したものである。
 この図で眺めると、ドーム石油社と石油公団の組み合わせは、原点からあまり遠くないところにプロットできることについては異論がないであろう。なぜならば、一九七〇年代後半のドーム石油社はもっぱら株価の動向と、不特定多数の投機的な資金、それに税金として納付する資金の免除分を開発資金として運用することによってビジネスを行なってきたからである。
 現に、一九七八年度にはドーム石油社はボーフォート海キャンペーンで一億五千万ドルを投資したが、そのうちの一億三千万ドルあまりが税金還付金だったとカルガリー・ヘラルド紙は計算して記事を書いている。
 石油公団は税金という最も不特定多数の資金を、ソフトウエアヘの配慮も行なわないまま、浪費に近い状態で使って責任を感じていない。この点で、ボーフォート海の石油開発は最悪の組合わせを構成しているのである。
 どうしてこのようなことになったかを見るために、ボーフォート海を接点にして石油公団とドーム石油社が結合するまでのプロセスに光をあててみることにしよう。









2 専門家不在の官僚組織

 石油公団は日本のエネルギー源の中核である石油資源を確保する目的で設立され、一九六七年七月に施行された石油開発公団法に基づいて、最初は石油開発公団を名乗っていた。主な仕事は海外での石油探鉱に対する投融資や債務保証、それに地質調査への援助だったが、その後、石油だけでなく天然ガスも対象にするとともに、石油備蓄や外国の政府機関への資金の貸付とか、石油会社の機構改善にも資金供給をしてきた。
 大量の政府資金を補助金や貸付金の形で扱うし、資金のほとんどが一般会計の枠外である財政投融資勘定から出ているために、会計検査院の監査がたいへん甘いので、用途のいかがわしい利権がらみのプロジェクトの周辺で、石油公団の資金が大量に動いていると言われている。
 なにしろ、発足以来一兆二千億円の資金を融資や投資の形で使っているが、財政投融資は別名が政府の裏金で公認のアンダーグラウンド・マネーと言われるくらいだから、どんな形でどこに消えてしまったか分からないものが多いのだ。
 財政投融資は、その原資は郵政省が郵便局を使って集めた庶民の貯金や年金からなる資金運用部金資がほとんどである。用途としては、地方自治体を筆頭にして、政府の外郭団体である公社や公団に出資や貸付の形で支出され、一九六〇年以来八三年までの資金運用部預託金の残高は百兆円に迫ろうとしている。
 財政投融資の六割は郵便貯金であり、すでに六〇兆円近くが財政投融資を通じて国に貸し出されているが、その実態は不良融資であるとさえ言われている。なぜならば、財政投融資には利権がらみのドンブリ勘定も多く、高級官僚が天下りする公社や公団は税金の使途に不明朗さがつきまとう便利なマジックボックスとの噂にみられるとおり、すべてはウヤムヤになっているといってもいいからだ。
 しかも、首相の犯罪として収賄で起訴されて、懲役四年と罰金五億円を求刑され、第一審で有罪となった田中角栄は大蔵省を利権化することにより、国家予算の二倍の規模を持つ政府の裏金を支配して田中金脈を作りあげたのだった。
 「石油は日本の生命線」という大義名分をかかげて君臨する石油公団は、石油の確保は国家の安全保障の根幹にかかわる重大事ということで、通産省から天下りした高級官僚が政治家と財界人を相手に、利権と資金のキャッチボールを繰り返してきた。石油開発を業務とする石油公団の総裁が、通産省の元繊維局長や港湾畑を永年やってきた人材で、オイルマンとしての素養をまったく持ち合わせていない場合も多かった。
 それというのは、公団の首脳人事自体が役人にとっての利権であり、総裁を通産省が確保する代わりに副総裁は大蔵省が握るという方式が永年にわたり継続して、政治家の金脈固めを果たすようになっていた。  


石油の知識なき行政テクノクラート

 単なる行政上のテクノクラートにすぎない官僚たちには、時代の最先端をいく石油ビジネスの頭脳ゲームをやり抜くだけの能力はない。なぜならば、戦略物質のソフトウエア領域を扱い、多国籍企業や歴戦を誇る石油山師が入り乱れて展開する石油ビジネスのババ抜き合戦は、現代における形を変えた戦争にほかならないからだ。
 それは石油をめぐる生臭い攻防戦の現場を体験し、そこで血と汗を流して訓練され鍛えられた戦士にしか取り扱えないものであり、オイルマン的発想と体質にはほど遠い、能吏型の官僚とは最も不整合な仕事といってもいい。
 枠にはまった形式主義的な思考と定められた命令系統のなかで動くことに慣れた官僚は、先見性を伴ったリーダーシップや果敢な決定をする指導者とは、対極的な立場にある人材である。
 日本の政治の本質は、官僚機構をフィルターに使って、公金を大義名分で飾り立てて私的に流用するプロセスとして、タカリの構造の上に成り立ち、補助金という名の税金のバラまき合戦を通じ、政治家が役人を操って利権漁りをシステム化したものにほかならない。
 そこに収賄で糾弾されたり、灰色高官として疑惑を投げかけられた人びとが、「真暗闇の中二階」とジャーナリズムに揶揄されるなかで、首相になり与党の幹事長として居直っても、それが、まかり通ってしまう政治の背景がある。
 収賄で懲役刑の有罪を言い渡された犯罪者が、闇将軍として利権と大量にばらまける札束を持っているからというわけで、田中軍団と名づけられた派閥の自民党の国会議員を指図して、国民の利益にまったく反した背信行為を行なっても、議員だということで放置されている。
 その結果、日本が誇ってきた矜持の心と責任感に支えられた官庁組織の腐敗が進みつつある。
 そして、自民党株式会社の天下があまりにも長く続きすぎたことにより、日本という国は外見上は経済大国のような装いを呈しているが、内部は食い荒らされて形骸化し、残っているのは一二〇兆円の国債という借金と、手持ち外貨の四倍に当たる一千億ドル(二四兆円)という対外債務と名づけられた外国からの借金の山ばかりである。
 こういった構造の一環として石油公団があり、石油の確保が日本の安全にとって最優先課題だという錦の御旗をかかげて、政治的利権に深くかかわってきたのだった。
 郵政相、蔵相、通産相といった財政投融資がらみの権力の座を歴任し、しかも、財界資源派と呼ばれる維新会グループがお膳立てして首相の座についた田中角栄は、石油を政治に結びつける天才だった(拙著『日本丸は沈没する』時事通信社刊)。
 首相の座を去っても自民党株式会社を背後から操って、日本の官僚機構を利権作りの道具にしている田中角栄にとっては、通産省の息のかかった石油公団総裁と大蔵省の代理人にすぎない副総裁を動かして、通産官僚としてより大きな役得を欲しがっている理事たちを操ることは、いたって簡単だったので、そこでドームゲートの日本側の受け皿ができあがったのである。
 それに、灰色高官にもかかわらず、田中角栄の右腕として自民党最要職である幹事長役を手放さなかった二階堂進と並んで、田中軍団の左大臣といわれる江崎真澄が通産大臣だった七九年六月末に行なわれた東京サミットの議題は、石油一色と言っても過言ではなかった。
 角影内閣と噂され、田中角栄に遠隔操作された大平首相の官房長官は、隠れ田中派といわれる田中六助であり、しかも、海部副社長との関係で日商岩井からの不明朗な政治献金が多いと騒がれて、国会でも問題になりかけた。
 だが、当時はちょうど鉄道公団、郵政省、環境庁などの闇給与やカラ出張などの不正経理をマスコミが大きく取り上げていたので、ボーフォート海の話はあまり目立たないで事が進展した。日本側では石油公団の技術部門が否定的な結論を出していたとはいえ、政治的配慮に基づいて、通産省の資源エネルギー庁が石油公団に指令したので、上意下達のルートで事が動き出した。徳永石油公団総裁の特命を受けた江口理事が、最高指揮官として商社や電力各社をはじめとした大企業に呼びかけて日本側グループの編成が進み、かなりの企業が参加をしぶったが、通産省の威力を間接的な圧力に使って、半強制的に参加させられたということが語り草になっている。  


常軌を逸した契約内容

 最初ドーム石油社が石油公団に持ちかけたプロポーザルは、資金負担に見合った利権を確保するという、石油ビジネスではきわめて普通に行なわれているファームインの方式だった。
 ところが一九八○年七月に鈴木内閣が発足し、田中六助通産相が誕生してからわずかの期間に、ドーム社のプロポーザルが内容をまったく改めて融資買油の形を取り、急速に交渉が進展する。
 おそらく石油公団の側からプロポーザルの大幅な内容変更を申し入れ、それを受けたカナダ側が新しいプロポーザルを用意したに違いないが、カナダはおろか北米では誰も実行はおろか考えたこともないようなめちゃくちゃな契約内容なのだ。
 日本側は開発資金を貸し与えるが利権や担保はいっさい保有せず、石油が出た場合は元金と金利に相当するものを石油の現物で支払いを受け、それを超える分については、日本側が国際価格で石油を買いつづける権利をオプションとして保有するというのがその概要である。
 ドーム石油社としては、日本人が支払う四億カナダ・ドルはもらったも同然であり、こんなうまい話は北米大陸では誰も聞いたことがなかった。石油公団は勝手にオプションだと思いこんでいるが、こんなものはオプションでも何でもないでたらめな取決めであり、しかも大量の税金がそこに使われているのだ。
 分かりやすい例で説明すると、あるカナダ人がレストランを経営するので出資を求めた日本人のパートナーとの間に「無担保で提供される借金は経営権とは関係がなく、借金の返済はレストランで食べる食事で帳消しにし、元利合計と同じ金額に達したあとは日本人が定価を払って食事をするかしないかを決めるオプションを保有する」といった契約をしたのと同じである。
 こんな取引はまともな人間なら絶対に行なわないものだが、石油公団のお役人は自ら求めて普通のファームインの申し入れをこんな愚劣なものに改めたのだった。悪いのはドーム石油社ではなくて、石油公団側だというのは誰の目にも明らかであり、石油ビジネスのイロハを心得ない日本人を相手にしたことにより、ドーム石油社は濡れ手に粟の四億ドルを、実に簡単に手に入れてしまったのである。
 こうなると、ビル・リチャードの努力は偉大な成果をもたらし、ドーム石油社のポーフォート作戦は太平洋のかなたに橋頭堡だけでなく突破口を切り開いてしまった。あとは定石に従わなくとも、囲碁で使うシチョウの手のように、自らの動きで獲物の内容を大きくする自己運動に移っていく。
 次の段階で、ボーリング現場の視察やドーム石油社の計画案の日本語訳などの幹事役は石油公団が率先して担当した。ドーム側が感激するほど熱意をもって、ボーフォート計画に参加するための具体的な交渉が、手続き上もやっておかなければならない儀式としてお膳立てされていったのである。
 日本側は団長の江口石油公団筆頭理事以下、日本鋼管や東京銀行をはじめとする各社代表三〇名近くがカルガリーを訪れ、ドーム石油社で具体的に団体交渉を行なった。オイルマンと呼ぶに値する人材が存在しないハンディキャップを、錚々たる大会社を代表してきた日本人を数として揃えることで補う方式が、ここでも採用された。質よりも量でいくという、いつもながらの布陣で交渉に臨むのだ。
 石油公団に率いられた日本側は、アメリカの大学を出たての東京銀行の若手社員が通訳を担当した。一方、ドーム石油社はジャペックス・カナダ社の元総支配人として、石油ビジネスの経験を持つ早川聖氏を通訳に頼んでいた。ことばの翻訳はできても、石油開発の具体的な問題に関しての専門知識に不足する日本側は、頭数と華やかな肩書きを誇る偉いさんは多かったものの、少数精鋭でその道のベテランを布陣したドーム社に振りまわされっぱなしだった。
 カナダ側の早川通訳は、戦前は外務省でブラックチェンバーを統括して、暗号解読の責任者として戦争犯罪人に指定されかけたし、戦後はジェトロ(日本貿易振興会)の海外宣伝室長やトロント代表を担当した国際ビジネスマンである。
 現在は第一線を退いてカルガリーで晴耕雨読の余生を楽しんでいるが、謀略をかぎつける能力では日本人でも有数である。国際政治や日本文化論について共著を持っているので、私は早川老人と飲み明かしながらよく歓談をしたものだが、彼の話によると、「私はドーム石油社から雇われて仕事をした立場上、余計なことを言う必要はないので、忠実に通訳をしただけです。
 それにしても、この交渉の筋書きは実におかしなもので、ドーム石油社のカンバンや建物を使ってはいるものの、日本グループに融資させようという相手が資産も何も持っていないドーム・カナダ社という子会社でして、どうにも不明朗なんですな。これは日本でも取りこみ詐欺によく使う手口でして、私にはすぐにピーンときました。
 それに、石油公団の側は、ファームインという言葉の意味もまともに分からない程度の人もいたのに、実に横柄な態度でして、これは裏に何かあるという感じがしたけれど、私の立場では何もできるわけでもなかったし、する気にもなりませんでしたな」というのである。
 私はこの話を聞いただけで、アドマ事件を思い出した。それは国際相場で当時一億ドルくらいの価値しかない、といわれていたBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)所有分のアブダビ・マリン石油社の利権を、なんと七億八千万円という馬鹿値をつけて買い、税金を大浪費した事件である(『石油飢餓』サイマル出版会、参照)。
 この時の首相が田中角栄であり、通産相だった中曽根康弘と組んで資源外交と称して、石油と結びついた海外の権益作りの布陣を作りあげ、資源エネルギー庁の汚職もこの一環ではないかと噂されたが、結局すべてがウヤムヤのうちに終わってしまった。
 そして、一〇年後になって、同じ組み合わせがいろいろ憶測を呼んでいるなかで、アブダビがカナダに舞台を移して、今度はドーム・カナダ社にまつわるドームゲート事件として再び姿を現わすことになるのである。  



3 ドーム・カナダ社の登場 

 ドーム・カナダ社というのは、絶頂期を迎えたドーム石油社が嫡子として産み、大いに成長することを期待した北極のプリンスである。だが、短期間にすべてがうまく運びすぎ、そのために親会社が親馬鹿ぶりを発揮して、あまりにも貪りに満ちた行為をしたことにより、プリンスは鬼子としての運命を背負うことになる。
 当事者以外は、ドーム・カナダ社がカナダ資本の石油開発会社として新しい理想の下に設立され、カナダの大衆投資家の巨大な資金を運用する新しい機構と斬新な頭脳を持った会社だと信じて疑わず、まさかこの会社が一九五八年にラルタ資源開発社として設立され、長い間休眠会社だったものをペンキもなまなましくカンバンだけをドーム・カナダ社と塗り替えた会社だとは、夢にも考えなかった。だが、実際上はドーム・カナダ社には人に知られたくないこんな化粧工作も施されていた。
 しかもドーム・カナダ社の産婆役がドーム石油社を溺愛したオタワ政府だったというのも歴史の皮肉だった。
 一九七七年一〇月に連邦政府が送り出したドーム予算は、ボーフォート海で操業するドーム石油社にとって幸運の女神であり、笑いが止まらないほどの大ブームをもたらした。ドーム石油社の株価は、一九七七年の高騰と比較できる国際石油価格にも似て急騰しつづけた。
 しかもメージャーズをはじめとして、カナダの他の石油会社は不遇をかこち、差別的政策で意欲を半ば喪失していたので、すべての人気を一身に集めたドーム石油社は、単身でこの世の春を謳歌していた。掘削船や砕氷船の新造で人気にこたえたのはもちろんだが、国営ペトロカナダ社の向こうを張って、メサ石油社やカイザー資源社を次つぎに買収して投資家たちに新しい刺激を供給した。  


新株発行の"アメーパ作戦"  

 東京サミットに前後した時期、オタワにきわめて短期間だが保守党の政権が成立した。クラーク首相はカルガリーの近在の出身であり、アルバータ州が石油産業の不振で停滞していることも熟知していたことから、オイルマンたちは大いに期待をかけたのだが、彼は首相の器にはあまりにも小さすぎた。国際政治の本質を理解できるほどの歴史的洞察力に欠けていたし、エネルギー問題を文明の次元でとらえて、長期的な政策に反映しようとする展望も持ち合わせなかった。
 オイルマンたちの利害とはことごとく対立していたが、賛成しかねるにしても、信念をもって政治を動かしていたトルドー首相と比べると、フィロソフィーを持ち合わさないクラーク首相はあまりにも見劣りがした。待望の保守党内閣が成立したというのに、首相の指導性の面での失望続きに、オイルマンたちははけ口のない欲求不満でイライラした。
 こうして、長期政権にあきたカナダ人に見限られて内閣を投げ出したというのに、トルドーは相手の失点を自分のメリットに使って、たちまちのうちに再び以前どおりの内閣を復活させた。
 日本と同じように、カナダも先進工業国の首相にふさわしい人材が乏しい。国民の自由意識と国力からすれば、多くの優れた政治家を輩出して当然なのに、カナダも民主主義があまりうまく機能しなかった。
 一九八○年一〇月のナショナル・エネルギー・プログラムが規定している、七五パーセント以上がカナダ資本の会社だけに与えられる特典に関して、ドーム石油社はどう無理をしても対象外だった。
 なぜなら、ハーバード大学やMIT基金をはじめとしたアメリカの大手機関投資家が主な株主であるし、ドーム石油株がニューヨークのシテ株だったからだ。
 ジャックもビルもマニトバ州生まれの純然たるカナダ人で、会社もカナダ法人だが、株主として圧倒的に多いアメリカ人に所有権が属していたのである。経営者が殿様同然の力を持つケースの多い日本でさえも、近代資本主義は会社の所在地や経営陣の国籍には無関係に、会社の所有権は株主に帰属するのがルールである。
 カナダ法人のドーム石油社は、発行株式の七割以上がアメリカの投資家によって支配されていたので、アメリカ人の会社と言わざるをえない現実を前にして、その突破口を模索した。
 切れ者のビルがいる以上、何の心配もないし、似たようなケースは石油ビジネスの史のなかにいくらでも見出せた。
 イギリスの支配権が及んでいるサウジアラビアにアメリカ資本が進出するために、カナダ法人のスタンダード・オイル・オブ・ブリティッシュ・コロンビア社を作ったスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニアの例や、カナダが誇る世界最大のウイスキー醸造会社シーグラム社が、買収したテキサスの石油会社をテコに使って、カナダの石油開発を試みたりするように、石油ビジネスには国境線を自由自在に乗りこえて地の利を活用するやり方が数えきれないほど存在している。
 とりあえず、ドーム石油社は所有しているトランスカナダ・パイプライン社の株式を現物出資の形でドーム・カナダ社に移管するとともに、五二パーセントの株式をカナダ人を対象に発行した。総額四六億ドルの新株発行はカナダの株式史上最高額だったが、人気は上々であり、この“アメーバ作戦”と名づけられた新株発行によってドーム石油社が支配するカナダ人によるカナダ法人のドーム・カナダ社ができ上がった。
 ドーム石油社の三千人に近い従業員たちも、銀行借入や家を抵当に資金ぐりをして三千万ドル分の株式を手に入れ、従業員保有分の株式は六パーセントに達した。しかも、ドーム石油社員を含めてドーム・カナダ社の新株に応募したといわれる六万人のカナダ人のほとんどが、ドーム・カナダ社はまったく新しく設立されたばかりの生まれたての会社だと信じて疑わなかった。
 これで、非カナダ系石油会社は保有する連邦政府に属する鉱区の二五パーセントを、ペトロカナダ社に召し上げられる、という規定から逃れうることになった。それが死活問題になるのはボーフォート海の鉱区であり、純然たるドーム社の鉱区分約五百万エーカー(約二億ヘクタール)の二五パーセントに当たる利権が国有化をまぬがれたことにたる。  


四億ドルの開発資金

 これに先立つ八〇年八月に東京を訪問したビルと石油公団の間に合意が成立し、日本側がドーム・カナダ社に探鉱開発資金を提供する代わりに、石油が発見された場合には生産開発に参加し、貸付分相当額だけ石油で元利合計を回収したあと、あとは日本人が権利だと考えるオプションによって代金を払って日本に石油を持ち帰るという基本線が固まった。
 かねがね噂にはなっていたが、第一段階で日本から供給される資金が四億カナダ・ドル(約七七〇億円)という金額で、倒産した安宅産業が計上した負債を上まわっていたのでセンセーションになった。それは冷たく沈んだ北極洋の濃霧をつき破るほどの衝撃力を持っていて、ドーム石油社の株価を押し上げただけでなく、ドーム・カナダ社の新株人気を大いに盛り上げる役割を果たしたのである。勢いに乗っているドーム石油社は日を追って大胆きわまる計画を次つぎとうち出し、沈滞しているカナダの石油ビジネスに街撃波の渦を送り出した。そのひとつがカグルリクM六四の試掘現場に作る人工島であり、カナダ始まって以来、最も画期的、かつコストの高いものというふれこみで、大々的に宣伝された。
 プロジェクト・マネージャーのハンス・バンデウォールがオランダ系であることも大いに関係しているようで、オランダの築堤技術を導入して、予算五千万ドルから八千万ドルで人工島を作るという話を聞いて、私は自らの耳を疑った。
 なぜなら、インペリアルやサン石油社からファームアウトの話があったときに、マッケンジー川の河口に近い浅海地域の人工島の建造費に三百万ドルかかるという予算書を見て、採算性に対して首を傾けた思い出があり、わずか数年後にドーム石油社の経営陣が、その二〇倍もの費用を島作りだけに費やす気でいるのを知って大いに驚いたからだ。
 それにとどまらず、石油を試掘する費用も莫大で、しかもパイプライン建設の話は政治がらみで混乱し、具体的な見通しも立っていないのだ。それもあってか、久し振りに潜水艦タンカーが話題として復活したし、日本に天然ガスを輸出するために、八〇億ドルの予算でLNG(液化天然ガス)タンカー船団を作る、という話も賑やかに書き立てられた。



4 四億ドルの正式契約

 こういったお囃子が日本人の心理に大きなインパクトになったことは間違いないが、八一年二月一六日に石油公団を主体とする日本側の北極石油とドーム・カナダ社の間で、ボーフォート海の石油開発に参加する正式契約が調印された。しかも、受け皿のドーム・カナダ社はまだ正式に発足していないのにである。
 しかも、日本側が融資する四億ドル(約七七〇億円)の返済はプロダクションローンとして、石油の生産が始まってから現物で支払うという内容であり、あまりに常識からかけ離れた好条件に、カルガリーのオイルマンたちは目を見張った。
 日本人の寛大さを信じられないという面持ちで、「ドームの経営状態がおかしくなっているのに、日本は無担保で長期的に貸しても大丈夫なくらい大金持だということだな」と皮肉を言うカナダ人や、「四億ドルも使えば優良な石油開発会社が買えるんだがね」と惜しがるアメリカ人のオイルマンなど、反応は実に多彩だった。  


取リ払われた"政治的カベ"

 カルガリー・ヘラルド紙の記者デーブは言う。
 「こんなうまい話は聞いたことがないというわけで、皆が目を丸くしました。何しろ、四億ドルのカネは石油が市場に出たあと、一五年間で現物払い。いつ商品になるか見当もつかないのに、それからあとに借金を年賦払いということは、実はもらったも同然で返す必要はないということだ。リチャード社長の天才が日本人を仕留めたということです。彼は四億ドルをもとに、もっと巨大な資金まで引き出すわけだから、カナダにとって救世主です」
 この最後の部分は意味深長である。なぜならば、四億ドルは一種の手付金であって、もしボーフォート海の試掘で成功すれば、生産井の段階で日本側はさらに一〇倍近い開発資金を提供するという話がオプションの形で存在しているからだ。
 これは何と安宅産業が潰れた時の負債の一五倍であり、イランの三井石化のこげつきの七倍に相当する。しかも、誰一人としてボーフォート海の石油が、経済的に採算べースにのるという確信を持っていないのである。
 ボーフォート海の石油開発参加が決定する数ヵ月前に、同じ日本の日商岩井がドーム石油社との間に液化天然ガス(LNG)の輸出に関して基本的な合意に達した、という公式発表が行なわれた。八○年一〇月二八日である。
 「日商岩井は二七日、カナダから液化天然ガス(LNG)を八五年から、年間二六〇万トン輸入することで基本的な合意に達したと発表した。需要家は中部電力、九州電力、大阪ガス、東邦ガスの四社で、わが国がカナダからLNGを輸入するのは初めて。また、日商岩井は今年、LNG輸入量で三菱商事を抜き一位になった。カナダは現在アメリカにパイプラインで天然ガスを輸出しているが、液化して輸出するのは日本が初めて。日商岩井はドーム石油社と共同で太平洋岸に液化プラントを建設し、その費用は一〇億ドルを超え、大半はカナダ側が出資する予定-:-(後略)」
 カナダは日本と同じで官僚支配が強い国であり、民間会社同士がたとえ合意しても、ひとたび州境を越える場合には、州政府の許可が必要だし、国境を越えた取引きになると連邦政府の許可がない限り、具体化の見込みは立たない。
 しかも、日本の政府機関のように役人が金脈のなかに組みこまれて、政治家の圧力に影響される決定をするのと違って、カナダは日本に比べて民主主義の手続きがはるかに確立しているので、公聴会や有識者の意見を打診するので時間もかかり、日本の商社流の短期勝負のやり方がどこまで有効か見当がつかない。
 だから、公式発表があったにしても詳細の詰めがひとつひとつ終わるまでは、大して注目する必要はないのだが、あとになってこの計画は大きな問題点を露呈することになるのである。
 これにパラレルに一九八〇年秋から八一年夏にかけて奇妙な資源外交が展開していて、頻繁にサウジアラビアやブラジルを駆けまわっていた田中六助通産相がオタワを訪間し、グレイ貿易相やラロンド・エネルギー鉱山資源相らと一連の会談を行なった。これによって、ドーム・プロジェクトをめぐる"政治的なカベ"が一挙に取り払われたのである。
 中東と西半球に興味を示す資源派政治家田中六助は、エネルギー首脳会議と呼ばれた東京サミットを大平内閣官房長官として経験し、ホスト役の首相に代わって会議の全般を準備しただけでなく、日本側代表として会議にも参加して、石油問題の全体像を素早くつかみ取る鋭い嗅覚を持ち合わせていた。
 彼は、海外の資源問題の取材に関しては日本のジャーナリズムで圧倒的な力を持つ、東京における「ウォールストリート・ジャーナル」である「日本経済新聞」の記者を永年にわたってやっており、その記者体験が特別な嗅覚を育てたのだろう。彼は官房長官時代に日商岩井の海部副社長と癒着しているとか、日商の政治献金に疑惑があると言って、マスコミ界からその利権体質に対して追及を受けていて、政商の今里広記とともに、北極石油発足の陰の功労者である。  


税金による大盤ぶるまい

 ドーム・カナダ社への融資とボーフォート海の探鉱作業を監督する窓口として、日本側は資本金四四〇億円の北極石油株式会社を、八一年二月一三日発足させたが、資本金の六割を石油公団が持ち、残りの四割を石油関連会社や商社などの四四社が出資している。
 石油公団の財源が財政投融資に由来し、これは大蔵省資金運用部が郵便貯金や簡易保険から借りた国家負債である以上は税金と同じで、この会社は国と財界で共同運営する準国策会社だった。
 普通、石油公団が巨額な国家資金を使って、石油開発プロジェクトの一環に参加する場合には、資金分担をするプロジェクト・シェアとか、資金を貸し付けて石油の買付を通じて資金回収を計る融資買油、あるいは賃貸条件で資金を前払いするリース契約などに分類するのだが、ポーフォート海計画に関しては奇妙なことに「その他」の項目に入れられていた。
 アメリカやカナダの石油開発は、ビジネスベースでほとんど行なわれているので、融資買油などという時代錯誤な名目は、いくら石油ビジネスの常識にほど遠い公団の役人でも、あまりに恥ずかしいと思って、「その他」扱いにせざるをえなかったに違いない。
 ボーフォート海のような未知数の多い地域への開発資金は、カナダ政府がすでに永年実行してきたように、会計上は収益のなかから損金扱いして控除の対象にしたり、石油や天然ガスに含まれているロイヤルティのなかから、連邦税に相当するものにクレディットを設定するのが、きわめて妥当なやり方である。
 いくら常識がないからといっても、石油公団が税金を使ってドーム・カナダ社との間に結んだ契約は支離滅裂であり、ハッター記者が言うとおりに、もらったも同然で、どう使おうとも勝手だし、返す必要もないのである。
 現にドーム石油社の人間が日本側の融資条件を聞いて、こんな気前のいい話があるなんて信じられない、と言ったという話がカルガリーに広まっているほどだから、石油公団の役人は高いカネを払って日本人のお大尽ぶりを宣伝したものだ。
 いくら前代未聞の大盤ぶるまいをしても、日本人が尊敬されたわけではないし、問題は、金の出所が国の借金として税金の形で国民につけがまわる状態で、次の世代を苦しめることになる点である。  



5 企業買収合戦

 それにしても、北極石油社がドーム・カナダ社と契約を取りかわす以前の段階で、親会社のドーム石油社の財政状態が急激に内容を悪化して長期債務は二〇億ドルを超えており、ドーム石油社の節度を失った過度の膨張策は危険だと言う人が増えていた。
 それでなくとも、カルガリーでは「ドーム石油社はエンジニアたちが設計にとり組む以前に、すでに現場作業に取りかかっているほどセッカチなやり方をする」という評判が高いのだ。若い上昇期の頃ならこんな噂は聞き流せるにしても、一般投資家の資金を預かって大事業をする立場からすると、そんな姿勢には問題がある。
 過去の例から言っても、絶頂にたどりついた瞬間に動きは逆向きに変わるのだし、三日月が丸みを帯び満月になった瞬間に欠けはじめるのが世の常である。古老の知恵だけでなく、石油ビジネスにおけるブームタウンの盛衰の歴史を知っている者には、亢竜の悔いは最良の戒めで、ドームはそれにピッタリだった。
 一九七九年から八○年にわたって発生したエクソダスの結果、カナダの石油開発資金が大量に国境の南に向かって動き、テキサスのオースチン・チョークやワイオミングのオーバースラスト(衝上断層)地帯で、百億ドルに近いカネが雲散霧消した。カナダの株式市場は急速に厳冬期の冷えこみを体験し、石油株のほとんどが三分の一から五分の一に減価した。
 さすがのドーム石油もそのあおりで資金集めの勢いが落ちこみ、すでにコミットしている開発計画や、事業投資を継続していく上で必要な資金が大幅に不足していた。浪費癖のついたオペレーションの習慣は簡単に改まらないし、国際価格よりはるかに低い石油の国内価格の七割近くが、州と連邦政府のロイヤルティだったので、石油会社の収入の増加率はインフレにはるかに立ち遅れた。しかも、天然ガスは五年以上にわたって新市場が存在しなかった。  


HBOG攻略

 一九八〇年のカルガリーで盛んだったのは、流動資金に乏しい小さな石油会社の合併であり、似たような会社が合併することで経費を節約するか、石油事業の重点をカナダからアメリカに移すことが話題の中心だった。あるいは、現金や石油収入の多い優良会社を株や転換社債と交換で吸収するテクニックも、程度の高い錬金術として有能なオイルマンによって活用された。
 そして、この技術を得意になって使いまくって、その成果が資産と株価にプラスになるように仕掛けつづけてきたビルは、乗っ取りに関しては他人に後れをとる男ではなかった。目の前にハドソンズ・ベイ・オイル・アンド・ガス社(HBOG)が魅惑に満ちた姿で、堅実な石油ビジネスを展開していた。
 HBOGは米国第九位の石油会社コノコ社の子会社だが、カナダで最も安定した生産井と有望な鉱区を大量に持ち、しかも、豊富な流動資金を誇る超優良会社だから、一度は手に入れてみたい現代のクレオパトラだった。
 だが、背後にひかえているコノコ社は石油会社の十傑としてアメリカに君臨するだけでなく、石炭は全米第二位の生産量を誇る準メージャーの総合エネルギー企業である。クレオパトラには夫のプトレマイオス一三世だけでなく、シーザーまで後ろ楯にひかえているような状況のところへ、軍資金を目当てにエジプトの富を狙ったアントニウスが、クレオパトラを手なずけるため、キリキアのタルンスに招いた真似をドーム石油社が試みた。
 背景にはいろいろな思惑とビル一流の乗っ取り技術の集大成があり、将を射るために馬を狙う間接アプローチが採用された。
 蓄積された現金と予定収入が八億ドルと計算したビルは、これだけの流動資金が手に入れば悪くないと踏んで、カナダの五大銀行とニューヨーク金融筋から資金手当てをすると、クレオパトラ攻略をめざして買収の戦いを開始した。
 狙いはクレオパトラ自身と保有している財宝だが、ドーム石油社とアントニウスの違いは、ビルが戦いを挑んでアメリカに攻めこみコノコにアタックしたのに対し、二千年昔のアントニウスは平和的な外交手段を用いたことである。ドーム石油社の背後には民族主義の意気に燃え、石油資本の砦アメリカヘの反撃に闘志をかきたてられたトルドー内閣がひかえていたことは言うまでもない。
 女心と史上最も美しい女王の自尊心をくすぐったローマの武将の知恵は、クレオパトラ自らの手で絢欄豪華な王室用ガレー船を飾り立て、香料と音楽と山海の珍味のなかで魂を奪われるほどの大饗宴を用意させ、最終的には猪首のアントニウスは世紀の美女とエジプトの財宝を手に入れるのに成功した。
 ところが、ビルの作戦はハード指向であり、クレオパトラのパトロンに喧嘩を仕掛けたのである。コノコの株が五〇ドルを切っていた段階で、彼は一株六五ドルの値段をつけて、二〇パーセントの株式取得を申し入れた。次に予想されることはテンダー・オファーによる過半数株の制圧で、この乗っ取り工作から逃れる可能性は一割前後と言われている。
 テンダー・オファーは経営陣の頭越しに、メディアと証券会社を総動員して株主と直接に取引きするもので、株主総会で委任状をめぐる攻防戦を通じて支配権を奪い合う伝統的な経営権争いに比べると、時間とコストがより効果的な買収戦術である。
 企業買収の基本は戦争のアプローチと同じであり、相手側を戦術的にパニックに陥れ、できる限り少ない出費と犠牲を払うだけで、目的を達成する必要がある。攻める側も守る側も自らの内部に崩壊の萌芽が生まれないように注意しながら、知恵と力をふりしぼって攻防戦を展開するのだ。
 特に買収をかけられた側には隙があり、奪われるかもしれない価値あるものが存在しているのだから、第一段階で相手の攻撃をかわし、次の段階で反撃に移らなければならない。そして、得るものよりも犠牲の方が大きいということで買収を諦めさせるか、あるいは買収価格をつりあげて、支配権を手放す代わりに、財貨による報酬を得るというのが、資本主義におけるマネーゲームの精髄である。
 ドーム石油社の攻略を受けて立ったコノコの経営陣は、買収の申し入れを拒絶した。なぜならば、帳簿上のコノコの含み資産は株価に比べてはるかに大きく、一株当り一三八ドルすることが分かっていたからだ。将来において石油危機が深刻化する以上は、コノコのプロダクションだけでなく、生産に至っていない未開発鉱区の価値と、安い時期に買い集めておいた石炭の採掘権は大きな含み資産だった。攻防戦が動き出すと、ビルの天才は電光石火の勢いで相手の脇腹をつき、破竹の勢いだった。永年にわたってアメリカ資本に制圧されて劣等感に支配され、屈辱感のなかからトルドー流の民族主義が台頭したカナダで、こともあろうに本命の石油ビジネスのなかから、敵の砦に乗りこんで城下の盟(ちか)いを押しつける勇者が現われたのだから、カナダ中が熱狂したのも無理はない。  


テークオーバーに成功はしたが

 ビルとジャックのコンビは、カナダの歴史始まって以来の英雄でなければ、ドン・キホーテとサンチョにほかならないが、勢いは恐ろしいものである。株式市場を通じてコノコ株を買い集めた威力を使って、取得した株式と二億四千万ドルの現金とを交換に、ドームはHBOGの経営権を手に入れてしまった。
 ビルにすれば、この成果は最初から狙いをつけた獲物だったのであり、あまり友好的なやり方だったとは言えないが、これでアントニウスと同じようにクレオパトラを手に入れ、カルガリーに凱旋できるはずだった。
 それにしても、コノコとの攻防はドーム社が仕掛けた最大の一戦だけあって困難をきわめ、“スワンピー作戦”と名づけられた攻防戦によって最終的には四〇億ドル(一兆円弱)を注ぎこんでテークオーバーはしたものの、コノコの過半数の株を支配したうえでHBOGの経営権を完全に掌握するまでに、あまりにも時間がかかりすぎた。しかも、HBOG社は確かにクレオパトラだったが、残念なことに、ドーム石油社はアントニウスの役目を果たすことができなかった。それはかずかずの企業買収を成功裡にやりつづけたビルの天才が、亢竜(こうりょう)の悔いを招いたのである。
 また、グーデリアン将軍流の機動戦術が遭遇した最大の敵が冬将軍だったことを思い出しながら、ドーム石油会社が企業買収に採用した機甲師団戦法の有効性を、軍事史のなかでゆっくりと検討することも必要だった。そして、見落としてはならないのは、ドイツ国防軍が行なったバルバロッサ作戦であり、ヒトラーにおけるロシア平原に広がる生存圏は、ドーム石油社におけるボーフォート海だった点である。
 作戦の前半部を指揮したハルダー参謀総長は、「一番危ないことはすべての戦いに皆勝って、そして最後のひとつに負けることだ」という名言を吐いたが、これだけの人物をスターリングラード作戦での意見の対立で罷免したがゆえに、ヒトラーの描いた生存圏構想は泡沫化してしまった。
 それと同じことはドーム石油社にも言えるのであり、企業買収の快進撃が行きついたところは、スターリングラードで微笑んでいたクレオパトラだった。
 ドームの経営陣のなかにハルダー参謀総長に相当する戦略家が不在だったがゆえに、ドーム石油社に結びつきを持つ人びとは、ドイツ国防軍が眼前にしたモスクワで体験し、廃嘘になったスターリングラードで味わったのと同じ冬の寒さと、厳冬の北極おろしに呻吟する破目に陥ることになるのである。  



6 奇妙な資源外交

 私は田中六助の名前がドーム石油社との関係で頻繁に現われた時に、「ウォールストリート・ジャーナル」がすっぱ抜いたサウジアラビアのGG(政府間取引)石油の話を思い出した。
 それは一九七九年一一月に起きた事件で、イタリアの国策石油会社ENIがサウジアラビアにバレル当り二ドルの裏コミッションを払い、一日当り一二万バレルのDD(直接取引)石油契約を行なったというものである。ジャーナリスティックな面では、これはP2事件としてフリーメーソンがらみのスキャンダルとして、のちに騒ぎたてられることにもなる。
 裏コミッションが露見して、イタリア政府をスキャンダルに巻きこんだ結果、明らかになった事実は、サウジアラビアのプリンスが出資してロンドンにペトロモンドという会社を作り、そこが裏コミッションの窓口になったということで、イタリア版の収賄事件を生んだ。
 それにしても、一年後に再びペトロモンドが日本の国策会社である共同石油とのコネクションで姿を現わし、裏コミッションのパターンまでイタリアの場合に似ていたのだ。
 私が記事を読んだのは掲載後一年も経ってからだが、「週刊ダイヤモンド」の一九八一年二月二一日号や、アサヒ・イブニング・ニュース社が出している情報紙「ビジネス」に朝日新聞の早房経済部次長が執筆した記事によると、イラン・イラク戦争によってイランの減産量を補填する形で、共同石油は日産一四万バレル分をサウジアラビアからバレル当り三二ドルで輸入することになった。ところがこの石油はロンドンのペトロモンド社が、バレル当り二ドル七三セントのコミッションを取ることになっていた。この話は元外務省でアラブ担当をしていた森本圭市参事官が共同石油の大堀弘社長に繋いだので、この石油は業界で「大堀原油」と呼ばれた。
 この大堀原油の存在は業界外部には極秘になっていたのに、八〇年一一月一三日に田中通産大臣が新聞記者に自宅で何げなく喋ってしまい、それが新聞記事になったので、体面を重んじるサウジアラビア政府は契約を取り消したのだ。実際、契約書の但し書きには、契約内容が表面化した場合には失効する、とうたわれていたことからも、ロンドンのメイフェア地区に事務所を構えたパナマ国籍のペトロモンド・サービス社には、サウジ王室の重要人物が関係していて、サウジ政府を動かしていたことが予想できる。
 これを裏づけるかのように、一二月五日付のロンドン発AFP電は「第二次増量分の価格はバレル当り三二ドルよりも高い三四ドル六三セントだという情報が流れていたが、この価格について日本の高官が軽率な発言をしたために、サウジ側が激怒した」と伝えたのだった。
 私は日本でこういったことが起こっていた事実を知らないまま、まったく異なった問題を扱っていた時に、親しくしているプリンス筋の中東情報のなかにタナカという名前が頻繁に現われていたので、てっきり田中角栄のことだと早呑みこみをしていた。だが、日本人で石油権益に関係した田中には、首相をやった田中角栄とフィクサー田中清玄のほかに通産大臣の田中六助がいて、その時の田中が田中六助だとあとになって知り、びっくりした。
 しかも、その時の話ではペトロモンドが扱うリベートは合計で二ドル七三セントであり、日本側が二ドル五〇セントを受け取り、サウジアラビアは二三セントで、伊藤忠商事のロンドン支店がスイス銀行経由で共同石油に送金し、自民党の金脈として政治献金に化けるということだったが、こういった情報は日本の外では流れていても国内においては誰も知らない秘密情報になってしまうのである。  


メキシコ原油をめぐる利権

 七〇年代における石油のトピックスの筆頭はメキシコであり、このメキシコ原油の輸入に関しても、折から通産相だった田中六助が派手に動いたという噂は、資源を扱う日本のジャーナリストで知らない人はないほどだ。
 一九七〇年代後半に新しい石油大国として世界中から注目されるようになったメキシコは、石油の埋蔵量を商売道具にして、ロペス・ポルティーリョ大統領自ら陣頭指揮をとって資源外交を展開して、外資導入をはかった。
 石油の供給地多角化とプラント輸出を国策にしていた日本にとって、メキシコの石油の存在は理想的であり、財界と政界が続々と使節団を派遣して有名なメキシコ詣でをした。インフレの猛威にあおられた高金利策だったが、短期の収益があがるなら、いくらでも喜んで貸しますというわけで、査定には厳しいことで定評のある日本の銀行が、相手の言うままに無担保で先を争って融資した。
 借り主は政府であり、メキシコという国が倒産するはずはないし、いざとなれば石油もあるということで貸しまくった結果、日本の大手銀行一〇社で百億ドル(二兆五千億円)の融資額になった。筆頭の東京銀行が一〇億六千万ドルで、以下富士銀行、第一勧業銀行、住友銀行、日本興業銀行、三菱銀行といった順で、一〇億ドルから九億ドルにかけての貸付額が並んでいる。それというのも石油に目がくらんだからである。
 一九八〇年五月に大平首相がメキシコを訪問したときに、日本側は日産三〇万バレル(五万トン弱)の輸入を懇願し、結果として、ロベス・ポルティーリョ大統領から二〇万ドルの輸出割当てをもらった。その見返りは日本の資金で製鉄所と港を作ることと、国営石油会社ペメックスヘ四〇億ドル(一兆円)の融資だった。この段階でプロジェクトの旗ふり役をしたのが日本興業銀行であり、財界資源派の中山素平の子飼いである池浦頭取が陣頭指揮をとった。
 ところが、対抗意識を持つ東京銀行が大あわてで割りこみ、臨海製鉄所の建設に五パーセントを切る低金利の融資を行なったが、建設工事に取りかかる段階でこの製鉄所はビジネスにならず、まず初めから失敗作であることが明らかになった。
 一方、日産二〇万バレルを割り当ててもらったメキシコ石油の輸入も、その半分は重油質のマヤ油であり、東亜燃料工業以外の精油所は買取りを拒否する始末で、日本とメキシコは太平洋を挟んで相互不信を高めあうことになる。
 なぜ、このような不始末を生んだかといえば、取引きが政治がらみとなり、最初は日本の企業対メキシコの国営会社の関係で進んでいた交渉が、途中から国と国をべースにした交渉になったからである。
 この石油をめぐる取引きでも、田中六助通産大臣が活躍し、また当時の松永メキシコ大使の功績も大きかったと言われている。松永大使は中曽根内閣の外務次官に抜擢されたが、発展途上国大使が外務次官になった例は、桜内外相の時の駐韓国大使を除くときわめて異例である。
 通産大臣在任中の派手な動きは目にあまる、とジャーナリズムに書き立てられた田中六助が、海外を舞台にして最もエネルギッシュな活躍をしたのは、日本人の目の届かない地球の裏側においてであった。
 そのひとつがバラグアイにおける国際空港建設に対する円借款であり、この人口二百万人の農業国に、日本は百億円の円クレディットを供与した。それも首都のアスンシオンではなくて、僻地のポート・ストレスナウに、国際空港を作ったのである。
 似たようなケースはボリビアにもあって、ビルブル国際空港の建設に海外経済協力基金を通じて、三二五億円の円クレディットが供給されている。パターンはまったく同じであり、人口六百万人のこの国は、石油と天然ガスもあるのでパラグアイよりははるかに豊かだが、これも首都のラパスではなくてサンタクルスの町である。
 国際空港建設の理由は、三池炭鉱の閉山の時にボリビアに移住した日本人が二千人ほど周辺に住んでいるということだが、サンタクルスには飛行場はすでに存在していて、二つ目の空港はまったく不要だと言われている。施工は藤田組だが、日商岩井のプロジェクトには合計で一億三千万ドルが投入された。  


疑惑に結びつく経済援助

 日商岩井はグラマン疑獄で悪名を高めてしまったが、航空機についての専門知識だけでなく、その周辺の技術問題に関してはすばらしいノウハウを保有していて、日本の商社のなかでは抜群だとの定評がある。特に飛行場作りのノウハウは他社の追随を許さず、航空写真による地形の解析を通じて、飛行場予定地の選定や設計まで担当できる頭脳チームを持っているので、航空関係の総合プロジェクトを推進できる唯一の商社として高い能力を誇っている。
 これだけ優れたノウハウを蓄積していれば、実力だけで世界でいくらでもビジネスを開拓していけるはずだが、惜しいことに当時の日商岩井は政治家との癒着がたいへん強く、仕事がどうしても金脈がらみの性格を帯びてしまい、せっかくの名声を汚してしまうことが多かった。
 特にこの時期は南米ブームが日本系企業を支配したあとであり、大量の土地を買い占めて土地転がしをしようと考えていた日本人は、日本と違って大暴落していくボリビアの土地をかかえこんで青息吐息だった。
 そのなかにあって、荒地や畑地を飛行場にして付加価値を高めるというノウハウを持つ日商岩井は、円クレディットを引き出すことによって、わが世の春を謳歌できた。他社や日系人が呻吟するなかで、日商岩井はかなり強引だったので、ボリビア経済界において反日本商社の気運を高めたと言われている。
 また、一部が国内に報道されたものとしては、ニカラグアの地熱発電所事件があり、これも日商岩井の仕事で円クレディットが設定され、途中でソモサ大統領が失脚する事件が起きたために汚職が発覚している。失脚後に契約価格があまり高すぎると疑惑が持たれ、イタリアの会社に再入札を求めたところ、何と五割も安かったという。しかも、失脚直前にソモサが前払金を受け取って持ち逃げするというオチまでついていたのである。
 こういった発展途上国に対しての日本の経済援助は、日本の企業だけが参加できるタイドローンが普通であり、国内の土木事業とまったく同じようにいくらでも談合が行なわれる。本命の会社は低値で入札して一番札をとり、他は高値をつけるのがそのやり方だが、落札した一番札自体が国際価格より三割から五割高いのは当り前で、おり賃を各社に配分した残りが政治献金に化けるというのである。
 こうやってかき集めた資金が金脈と結びついて、政界の腐敗を強めているとしたら、経済援助を疑惑の構造に仕立てあげた自民党株式会社の大外科手術をしない限り、救いはないであろう。
 いずれにしても、こういった資金援助は、五〇兆円に及んでいる一般会計やその三倍の一五〇兆円に及ぶ財政投融資と呼ばれる税金を財源にしている。それを取り扱うのが通産、外務、大蔵の官僚が天下る海外経済協力基金、国際協力事業団(JICO)、日本輸出入銀行などであり、公団や公社を席巻した金脈のネットワークが、ついにこういった海外援助や国際協力をうたい文句にしている機構にまで及んでいるとすると、危ういかな日本、と思わず叫ばざるをえない。
 役人主導型であり、無責任体制を地でいく税金を使った官僚による行政が、本来ならば民間会社のビジネスとして推進されていい領域をも蚕食し、日本人の行なう事業活動が金脈網のなかに組みこまれていくからだ。そして、ボーフォート海における石油開発への参加の仕方も、南米諸国で日本人が行なった各種のプロジェクトも、税金を使った金脈路線としての国策事業のひとつにほかならなかったのである。  


無謀な挑戦 inserted by FC2 system