エピローグ 文明からの破産宣告




 アメリカで生活している限り、ドームゲ一トも日本の政治もすべて世界の片隅での出来事でしかなく、ニュースにはその断片さえも伝わってこない。
 だから、東京でのめまぐるしかった体験はまるで夢のようであり、三週間後に久し振りにカルガリーに出張するまでは、その間にドーム石油社で何がどのような形で進展していたかについて、まったく気にならなかったし、注意を払う気さえ起きなかった。
 四月下句にカルガリーを訪れた時、三〇年以上にわたってドーム石油社の帝王として君臨したジャックが、代表取締役を辞任したことを知った。名目上は会長として残るものの代表権はなく、しかも、マネージメントを構成する七人委員会のコンサルタント役という形をとっていた。
 退職金としては今後八年間にわたって年間三三万ドル、合計二六四万ドルが支払われることも決まり、ジャックの半生とともにカナダの経済界にスーパー・ノバ(超新星〉として目を見張るほどの閃光を放ったドーム石油社は、新しく衰退から滅亡に向かう段階にさしかかっていた。ビルも責任をとってマネージメントの地位を去り、子会社の社長として出向することに決まっていた。


転落、そして主役交代

 組織におけるライフサイクルの理想曲線に従って、ウィック・セラーズを委員長にした七人委員会は、管財人に近い立場でドーム石油社の新しい経営陣を構成したものの、ジャックとビルを欠いた組織は、もはや抜け殻と同じであり、再びウォール街やトロント株式市場の寵児になることは、もはや期待できなかった。
 これからのドーム石油社は、看板としての社名は同じようにドーム石油社であるにしても、頭脳中枢としてのジャックとビルを欠き、肉体はHB0Gであり、今後は周期的に訪れる債務の書き換えを業務の主体にしたロールオーバー(借金繰延)に全力をあげる会社として生きのびるだけがせいいっぱいで、とても石油開発会社と呼べるものでありえないことは、組織における個体発生(オントジェネシス)の法則からして止むをえない運命だった。
 それでも、オタワ政府は大量の税金を投入するだけではなく、かずかずの奨励策を講じることによって民間資金をボーフォート海に引きつけ、ドーム石油社が主役になってプロジェクトを続けられるようにと苦肉の策を講じつづけた。
 考えうる限りのコンソーシアム(共同事業団)を動員して資金を作り、一〇億ドルの予算で今後一九年間に合計八本の試掘をする計画も発表されたが、主役はドーム右油社の手を離れて、ガルフ石油社に移ろうとしていた。
 北アメリカの石油ビジネスの常識では、およそ考えられないような度量の大きい底抜けの契約を結んだ日本人たちは、結局は資金をデタラメな形で使い果たされて、脇役から端役以下の地位に転落することにより、石油ビジネスのババ抜き合戦で、ババを掴まされることの意味を教えられる破目になった。
 それも四億ドルという高い授業料に血税を使って、石油ビジネスにまったく無知な役人と政治家の火遊びが、いかに国家に損害を与えるかという教訓を再確認することになった。
 しかし、石油公団のデタラメさや、杜撰なプロジェクトにのめりこんだ日商岩井の低迷を横目で見ながら、新しい日本人グループが欲に目がくらんだ状態で、ドロ船同然のドーム石油社と奇妙なビジネスに乗り出そうとしていた。
 それは丸紅と出光典産が組んで、カナダの石油を日本に輸入する契約を結んだことである。これまでアメリカ以外への石油輸出をしなかったカナダに、新しい突破口を作ったと考えれば快挙だが、相手がドーム石油社だという点で非常に政治のからんだ取引きだった。
 カナダ政府にとっては、経営危機に陥ってあがいているドーム石油社の救済につながり、現金取入の可能性を開拓することで再建に役立てたい、という理由が口実になったが、ドーム石油社の救済以上にトルドー内閣の救済が目的だったのではないか。ドーム石油社こそ、トルドーの率いる自由党に対して最大の政治献金の供給源であり、ドームの資金枯渇によって大きな打撃をうけるのはトルドー内閣にほかならなかったからである。
 また、このカナダ産右油の輸入というのは、石油供給源の多角化という名目を使って石油金脈のパイプを増やそうとする自民党株式会社の政策に沿ったものでもあった。メキシコ石油の次の狙いをカナダに定めた田中六助は、通産大臣の立場で一九八〇年一二月にパリの国際エネルギー機関の閣僚会議に出席した時、もっぱらカナダのエネルギー大臣のラロンドと密談に終始したが、この時の主題がカナダ産石油の対日輸出であり、そして、翌年の一月には直接にオタワに出かけていき、さらにその実現を強く追った結果が奇妙な時に実を結んだのかもしれない。
 本当に日本のエネルギー問題の将来を考えて、これだけ果敢な働きをしたのなら大いに感謝しなければならないところだが、はたして実態はいかなるものであったのだろうか。


カナダを利権の泥沼にするな

 積出しをするバンクーバー港の水深からタンカーの積載量には限界があって、毎回六万トンの石油が取引きされるにすぎないが、この石油取引きにからんで政治献金がどのような形で流れるかについて、日本人は注意深く監視しつづける必要があるだろう。それをやらない限りカナダは自民党株式会社の金脈作りの草刈り場になって、インドネシアや韓国と同じ利権の泥沼になりかねない。
 なぜならば、ボーフォート海の石油開発のための日本側の受け皿として設立された北極石油社の背後には、かつてアブダビの石油利権取得に際して、七億八千万ドルの馬鹿値をつけただけでなく、それを石油公団を使って国庫の税金から引き出した、政商として名高いある資源派財界人の存在が噂されているし、ドーム石油社が輸出する石油の買手側に、キックバック(割戻し)のフィルターに使える韓国の存在もあるからである。
 自民党やドーム石油社とトルドー内閣がどう破綻しようと構わないし、むしろ時々政権が交代して半永久的な政治支配が崩れることで聖域化している政治献金の治外法権地帯に風穴ができれば、民主主義が健全化する点で喜ばしいが、日本とカナダの関係や日本人とカナダ人の相互信頼を損なうことが起こってはならないのだ。
 共に擬態としての全体主義路線を官僚主導型で邁進しているとはいえ、政府や政党という権力機関は一時的であるのに対して、カナダ人や日本列島の民は永遠の存在だからである。
 また、私があわただしかった東京滞在を果たしてアメリカに戻って二カ月が経過した六月下句、中曽根内閣の最も重要な閣僚として自他ともに認めていた山中通産大臣が、糖尿病を理由に突然辞任した。日本のエネルギー行政の主人公が前ぶれもなく閣外に去ったので、国民の大半は奇妙な印象を抱いたし、ジャーナリズムも茫然として誰もその理由を深く追及しなかった。
 しかし、この辞任にはブルネイの天然ガス利権をめぐって、環太平洋金脈地図が明示している葛藤が大きな理由になっており、田中金脈と岸・福田金脈を強く刺激して、《一九八四年の悪魔》の安定が崩れるのを防ぐために、中曽根首相は懐刀の山中通産相を斬り棄てざるをえなくなったのではないか。普通は閣僚の辞任には数日間の慰留期間をおくのが日本の政界の伝統だが、この時は辞表提出後二時間でそれが受理されたのだ。ブルネイの利権をめぐる暗闘の顕在化は、将来の死闘の前ぶれ以外のなにものでもないと言えるであろう。
 それにしても、思い出すのは一九七三年一〇月末のことである。第四次中東戦争が生んだ石油エンバルゴ(禁輸)によって、日本中が石油パニックで騒然としていた時期、ちょうどカルガリーに住んでいた私は、一編の記事をまとめ上げようとしていた。それは一〇月六日の第四次中東戦争勃発とまったく時を同じくして行なわれた田中首相によるモスクワ訪問についてであり、題名は「利権に躍る日本のエネルギー外交」だった。
 ヨーロッパに分散して活躍するジャーナリストの旧友たちや、各国で政治家になっているフランス時代の知己を動員して国際電話の取材を行なった私は、日中資源外交の軌跡についての原稿の最後の部分を、次のような文章でしめくくった。


再び、一〇年前の言葉をここに

 「....それでなくとも、石油ビジネスは日本の政治の数十倍というスケールをもって動いており、世界における真に実力を備えた大国が、持てる力と知恵を最大限に投入して、国際政治の舞台で激しくぶつかり合っている分野なのである。
 重ねて言うが、石油にまつわる国際政治についてはまったく経験がなく、その影響力の大きさについて未熟な理解力しか持ち合わせていない権力者たちによって、石油とそれを扱う石油外交がこれ以上いじくりまわされ、日本の未来を生まれてくる前に絞め殺して欲しくない。
 そして、日本が世界から孤立させられたり、日本人の民族としての威厳と誇りをこれ以上傷つけないようにすることが、わが国にとって真の国益になると考えて、石油失政で手の汚れている中曽根通産大臣と田中首相に、その責任者としての地位を辞退することを要請したい。

 次の世代の希望と意欲を、時の権力支配者の野望と愚行のいけにえにしないことが、現在の為政者にできる唯一の善行であり、この理解ができないままズルズルと流れにひきずられていけば、日本の違命は再びあの暗黒に覆われた、満州事変から太平洋戦争にかけての道のくり返しになるのである。
 今度それをひき起こし、国民を悲劇のどん底につき落すのは、栄光に目がくらんで大東亜共栄圏の妄想を払いきれなかった大日本帝国の陸海軍と、財閥と組んだ政党政治ではなくて、単に利権漁りに熱中し、国民のことを考えるのを忘れた財界にひきずりまわされた現代の金権政治であることははっきりしている。
 田中エネルギー外交がその先兵として登場してきたわけだが、過去一年の軌跡を見る限りにおいて、国民はその危険性について理解しはじめたと期侍したい。過去一年間がすでにひとつの歴史である以上、日本列島という運命共同体の上に生活する日本民族の未来を、この歴史が監視していることを忘れてはならないのである。
 これは「文芸春秋」誌に依頼されて、一九七三年一二月号のために執筆したものだが、残念ながら締め切り日に二日遅れたために、誌面で読者の目にふれるタイミングを失った。
 しかし、折よく編集作業が進んでいた著書があったので、そのなかにこの記車は収録でき、一九七四年二月一五日に『石油飢餓』と題してサイマル出版会から上梓された本の最後の章の結語となり、歴史におけるひとつの証言として記録が残ったのである。
 あの時からひと昔が過ぎようとしているが、私は歴史におけるめぐり合わせの妙味に打たれて、不思議な感動に支配されている。この文章を改めて読み直してみると、あらゆる状況が、一九七三年の石油パニック直前の組み合わせとよく似た形で、日本列島の上に再現している事実に目を見張らざるをえない。  
一〇年ほど昔、私に石油失政の責任を取って辞任せよ、と勧告された田中・中曽根のコンビがそこにあり、田中首相が闇将軍として、犯罪者であることを東京地方裁判所の法廷で宣告されたにもかかわらず院政を敷き、中曽根通産相が田中角栄の傀儡として首相を名乗っているだけの違いしかそこにはない。
 今ここで日本の資源外交について再び執筆を依頼されたら、私は同じ文章を書くことをためらわないだろう。ただ、中曽根通産相を首相にし、田中首相を元首相と改めるだけで、すべてが通用するのであり、その間に一〇年の星霜が歴史として積み重なって、われわれの未来をさらに厳重に監視しているのである。
 また、この一〇年の時間の流れを通じ、田中角栄は総理大臣の犯罪で権力の座から転落し、カナダの彗星ドーム石油社は流れ星になってしまった。しかも中曽根康弘が天下を支配し、情報の独占を成しとげて、《一九八四年の悪魔》としての足場を固めようとしている。またこの時に当たって、新しい文明は情報革命を体験し、新しい産業社会の時代を迎えようとしているのである。
 この情報をエネルギー源にした第三文明期の情報は、二一世紀にふさわしい価値観と結びつき、われわれは新時代が新しいことばを手に入れることによって、これまで永年にわたって人間を支配しつづけた迷信や虚構を一挙に打ち壊すことになる。
 だが、その前提条件として必要なものは、巨大化して有効性を喪失しているにもかかわらず、獰猛な権勢欲をむき出しにして情報を独占し操作する《一九八四年の悪魔》と対決することであり、それに対して断固として戦う勇気を持たない限り、われわれの行手は全体主義の狂気によって、再び血なまぐさい時代となってしまうだろう。思想革命を通じて情報革命を成功させ、開かれた情報系を持つ新しい世界を地上に築きあげることが、今日における最大の人類的課題になるのである。
 一四〇年ほど前に逆立ちした価値観でマルクスが考えた社会革命の筆法に従えば、《一九八四年の悪魔》の出現こそ第二文明期の墓掘り人夫であり、エネルギー多消費型のマスプロダクションとマスコンサンプションの社会は、独裁と独占によってとどめをさされることになる。
 そして、「情報メディアの支配とその中央集権的な権力機構は、産業社会における発展法則とシステムとして一致しない点に到達する。《一九八四年の悪魔》の機構は爆破される。情報の独占と権力の私有の臨終の鐘が鳴る。収奪者が収奪される」と刻んだ墓碑銘を背にして、われわれは新しい時代の夜明けを迎えることになるのである。


真の自由主義再輿をめざしで

 ライフサイクルの理想曲線と同しパターンを描きながら、新しいものは発展し、古いものは没落して栄枯盛衰の軌跡を残すが、その変化のパターンはあくまでも弁証法的で、ゆっくりと文明の進化が継続していく。
 本書では将来に向けての現在の選択を考えるために、われわれの過去に向かって問いかけてみた。ドーム石油社の歴史のなかに南海会社やルイ・ナポレオンの面影を見出したのもひとつの事実であるし、日本に続いてカナダの官僚主義化路線が、ソビエトの共産主義やヒトラーの封建主義に似て、《一九八四年の悪魔》をともなった不吉と色調に彩られはじめたと感じ取ったのも、私にとってはゆるぎない一つの事実であった。
 権力と富には責任がともなうものであり、つねによりひとつ上位の次元で問題をとらえる努力を通じて、この責任は正しい解決法と結びつくという意味において、ドームゲート事件が残したものには、実に多くの教訓が含まれていた。
 カナダはつねに人類のフロンティアをパイオニアたちに提供しつづけるに違いないし、次に出現する新しい北極の彗星が、第三文明期にふさわしい新しいやり方で、北極洋やボーフォート海に挑戦し直す時に、かつてのパイオニアとしてのドーム石油社の名前を、人びとはドームゲートということばの響きのなかに、なつかしく思い出すことになるだろう。苦渋に満ちたひとつの体験は、より次元の高いところで新しい治癒能力をもたらすものだからである。
 確かにドーム石油社を通じて、ジャックとビルが試みた超積極路線はカナダ人にとってはあまりにもアメリカ的であり、アメリカ流のフリーエンタプライズ(リベラリズムと独立自尊事業を貫く企業家精神に基づく果敢な事業)の思想がカナダ経済に混乱の渦をまき起こしたのも事実である。私がカナダに住んだ一○年問の体験からしても、植民地主義にも似た立場で、アメリカ人たちが押しつけようとした運命共同体的な発想に、多くのカナダ人たちが警戒心を抱いたことを知っている。
 また、オタワの政治家や役人たちが国境の南側の判断でカナダの石油ボリシーを修正しかねない多国籍企業のやり方に不満を抱いていたのも事実である。人口だけではなく、経済力や軍事力を比べても、カナダの一〇倍の力を持つ隣国の巨人に対して、カナダ人が不安感を持っとしても、むしろそれは当然であり、アメリカとカナダでは歴史も伝統も違い、同じ英語を使ってもエンタプラィズや自由の概念も異なっている。
 アメリカの歴史を見れば分かるが、自由の名の下に騎兵隊がインディアンを殺戮することによって作りあげられたアメリカ合衆国では、リバティを無条件に賛美する精神が全国土に定着している。
 それに対して、リバティを妄信した荒くれ者に追いつめられて国境の彼方から逃げてきたインディアンを救うことがフリーダムへの忠誠だと考えて、山岳騎兵隊(マウンティ)が生命を賭けて守ったのがカナダの自由への伝統の基礎にある。
 そうであるがゆえに、石油開発におけるフリーエンタプライズの思想に、アメリカ人とカナダ人の発想に大きな差があるのは仕方がないとはいえ、共に自由経済体制と民主主義のベースに支えられた近代国家として、守るに値する共通の価値を持つ自由社会を維持していく上で、トルド−的な寡頭政治のあり方に対して、カナダ人は一度誠実な懐疑の気持を持ったらどんなものであろうか。
 あれほど初期においてダイナミックだったドーム石油社が、最終的に半国有化の形で生命力を喪失していったことへの追悼は、自由への誓いで飾った花束が最もふさわしいと思われる。
 そしてリバティとフリーダムのバランスの上に立った真の自由が、セルフ・リライアンス(自主自立)にあることは、政治においても経済においても否定できない真理である。また、ドーム石油社自体も、セルフ・リライアンスの基盤を失ったことによって、その輝かしい歴史は最終的に墓碑銘の上に刻まれることになるのである。


人類と文明のために

 あまりに急激な成長は、訓練と試練に耐え抜いた人材を十分に補給できないものだし、巨大化しすぎた組織における頭脳と肉体のアンバランスには、中生代の恐竜や新生代のマンモスの運命と同じ悲劇がつきまといがちである。
 ジャックとビルの偉才コンビが指揮を担当した、ドーム石油社ほどのエネルギーを持った組織でも、企業戦略の代わりに政治工作に終始すると、自由社会における企業の生存競争において敗れ去り、適者生存の厳しい掟に支配されてしまうのだ。
 レプタイル(爬虫類)症候群は組織の巨大化と中央集権化を生み、その大きさや企業家精神と官僚制度のアンバランスに由来するものがトップに魔性としてとりつくことにより破局に導くのであり、これは第二文明期のビッグビジネスに特徴的に現われる慢性病のひとつである。
 中生代末期の環境の大激変と同じように、われわれは第二文明期の最後の瞬間を体験しようとしてる。チラノゾウルス化したビッグビジネスやブロントゾウルス化した国営企業が新しい世紀に生き残るのか、それとも新しい精神と体質を持った哺乳類としてのベンチャー・ビジネスが主役の時代が訪れるのかについては、地球の歴史が新生代についてすでに興味深い記録を残している。
 二一世紀が始まるまでには、まだ一九年以上も時間があるし、情報革命は目下着実に進展中であり、社会現象と個人のあり方は、マリリン・ファーガソンが「アカリアン・コンスピラシー」と呼ぶところの変化の流れのなかを、ダイナミックに動いているのである。
 この激動を迎えているカナダの石油ビジネスと世界の産業界を舞台にして、ジャック・ギャラハーやビル・リチャードを乗りこえるパイオニアが、次つぎと若い世代のなかから育ってくるに違いない。フロンティアヘの挑戦の歴史は、一人のパイオニアに続いて次つぎと新しいチャレンジャーが現われることを教えているし、こうやって人類は進化し文明は発展してきたのである。
 そうである以上は、人類の明るい未来と文明の合理的な発展のためにも、われわれは意欲的かつ戦略的な基本姿勢を保ちながら、新しい生成と発展を求める挑戦を継続していかなければならない。明日を、よりふさわしい明日であらしめるために、われわれは人類と文明の次元で、責任感と使命感を自覚しつづけなければならない。
 また疑惑のネットワークと全体主義への回帰化の激しい日本にとって、ドームゲート事件は天の配材であり、これが近い将来、《一九八四年の悪魔》を焼きつくす業火として、炭化水素をエネルギー源にしたダイナミックな炎となり、それが屈従の臨界点を越えて燃え広がるであろうことは目に見えている。
 日本を世界のコミュニティーから孤立させず、第三文明期を人類とともに希望にあふれた時代にする選択は日本人自身の判断にかかっている。
 全体主義の台頭を抑え、暗黒政治のなかに未来をさし示すタイマツを点火しなければならないし、その最初の火は、惑星間関係によって特徴づけられた第三文明期と結びつき、未来をさし示す輝かしい一条の炸裂する閃光として、二一世紀に祝福と光明を送りつづけるに違いないのである。


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