3 石油事業を再編成せよ



三流の評価

 現在の日本に存在している、石油開発を企業活動の中核とする会社を大きく分けてみると、二つのグループになる。
 世界的な傾向からすると、本当は三つのグループに分類してそれぞれについて現状分析してみると、その性格上の差がはっきりと現われてきて理解しやすくなる。しかし都合の悪いことに、日本にはその第一番目に相当するものがグループを構成できるほどの力をもつまでに至っていない。というのは、これまでの日本の近代産業発展の歴史の中で、石油開発から精油・販売までを一貫した事業内容とするような石油会社を一社として育てあげることに成功しなかった、というのが日本経済の内容だからである。
 ここで誤解を与えかねない例えしか考えつかないのは、私の想像力の不足のせいで申しわけない限りだが、このことは次のようにいうこともできる。
 もし日本に、プロ野球の水準に達する程度のチームが存在せず、ノンプロの都市対抗野球と、高校野球程度のチームしかなかったとしたら、ワールド・シリーズで覇権を争っているアメリカのプロ野球のチームと、互角に渡りあえるなどということは、想像さえすることはできない。これと同じ状況におかれているのが、石油開発における日本の立場なのだと。
 もっともこういうと、プロ野球のチームより優秀な選手がノンプロに多くいる場合だってあるといわれるだろう。しかし私がここでいっているのは、あくまでも一つのチームが野球の試合をする場合の、総合戦力としての実力のことなのだ。この点では、ワールド・シリーズの覇者と甲子園の優勝チームがぶつかり合って、五回ほど試合をしてみれば、どれだけアメリカのプロが強いかがはっきりするだろう。高校野球の日本一が、アメリカのプロチームを一回でも打ち負かすことがあったら、その日を永久に記念するために、新たな国民の祝日の一つに加えたっていいくらいなものである。
 こんなことがいえるぐらい、「総合石油会社」といわれる普通の石油会社と、その他「雑の部」に属する第二、第三のグループとの差は大きい。
 そこでわが国に存在している、残りの二つのグループについて簡単に検討を加えながら、その性格を明らかにしてみよう。日本にあってその第一のグループに属する組織というのはもう幾十年という長い期間にわたって石油開発事業にたずさわってきたグループである。ある意味で、お役所に似た体臭を持つというか、または準国策会社とでも呼んだらいいような性格をもっている。また秋田、新潟といった日本海に面した、わが国の猫の額のような石油地帯を活動の中心としながら、戦前、戦後を通じて地味な仕事を続けている会社がその構成メンバーになっている。
 その長い輝かしい伝統にもかかわらず、このグループは、戦後の日本経済の発展のベースからはるかに取り残されてしまう程度の成長をしか記録することができなかった。それは、石油開発の重要性に対する認識におおいに欠けている政府との腐れ縁を断ちきるだけの気迫がないまま、自ら半工半農の体質を脱皮できなかったことと、インターナショナルな視野をもった指導者に恵まれないまま、停年退職の高級官僚の疎開先として、自ら進んで姥捨山の別荘分譲地帯の役目を買って出ていたためである。
 しかしながら、地道に築きあげてきた石油開発技術と、石油探査の実績という点では、不毛に近い日本の石油開発業界の中にあって貴重な存在であるということができ、自他ともに、日本の石油開発事業の正統であると認めている。
 なにしろ、石油開発にたずさわっている日本の技術者や石油地質学者のほとんどは、ここで実地教育を施された上で一人前に育てられたのであり、その面での功績には特筆すべきものがある。とはいえ、世界的なスケールで検討してみた場合、その実力ということになると、ノンプロの実業団野球の水準でしかなく、居並ぶ世界の石油会社の中では、果して百位以内にランクされうるかどうかというと、それはおおいに疑問になるのである。正統な血すじをひいているということは、一般的にみて、実力を持っているということとはまったく無関係な場合がほとんどであるように、日本の石油事業の場合も、やはりその例外とはなり得なかったのである。
 しかし、これからの日本の石油事業が、世界の一流にアプローチしていくためには、このグループを中核にして、石油業界を、再編成し直すことがもっともオーソドックスなやり方であるという意味で、あいかわらず嫡子としての権利を保留している点については、おおいに評価すべきだろう。
 とはいえ、時にはフランスの国営石油会社の組織系統を形の上だけまねし、別の時には、イタリアの国策会社の石油政策を模倣したり、ドイツの石油資本のような財界・政界の共同歩調をうらやんでみたりする主体性のなさと、政治権力との癒着指向型の発想法を徹底的に改めない限り、次にひかえている第二のグループに属して、少なからず利益をあげている企業に向って大合同を提唱するだけの発言権は、永久に手に入れることはできないのである。
 それでは、第二のグループに属するものはどのような会社なのだろうかというと、それは民間ベースの企業とでも呼んだら、最も適確にその性格をあらわすことができるかもしれない。日本の経済界のあとおしによって、日本の石油資源を確保しようという目的で設立された会社である。その数は二〇社を上まわっており、これからの一、二年の間におそらく三〇社をはるかに越えるだろうと予想されるほど盛況である。
 このグループの中には、財界系、精油所系、商社系、その他もろもろといった系統上の違いもみられるが、そのほとんどが最近バタバタと作られたものだ。そして、日本の政府や経済界の石油資源に対する伝統的な問題意識の水準をそのまま反映して、石油を探査するという目的よりは、むしろ海外の石油資源を、どうにかして有利な条件で日本に持って来ようという性格がより濃厚なのである。
 それぞれ、「ナントカ石油開発株式会社」あるいは「ナントカ石油」という立派なカンバンをかかげているのだが、技術や知識に対する評価よりは、資金力と幸運に対する崇拝の方がより強く支配しているから、地質学や地球物理学といった石油探査に不可欠な分野の人材は、いっさい省略されてしまっている。そしてプロジェクトに応じて、第一のグループの企業から、短期契約で必要な人間を借りてくるか、あるいはコンサルタントにいっさいを下請けに出すというやり方に頼っているから、会社内部の知識と技術の蓄積という点では、実にお粗末の限りなのだ。この点では、ひと山あてようと中東へ進出して、ツキに恵まれたおかげで資金を使い果す前に石油を発見でき、株主たちに高配当を分配することに成功したような会社も、似たような内容である。
 ただ、運命の女神にほほえまれて石油を掘りあてたにすぎず、別段その企業が優れた内容をもっていたわけではないのだが、とにかく成功しさえすれば、たとえそれが短期間でも、人はその内容について批判することをさしひかえるものだ。そして同じグループに属する他の企業からは、垂涎の的として羨望の眼で眺められ、一夜にしてスターダムにのしあがるのである。その成功が、人知の限りをつくして動員した知識や近代技術によってもたらされたものでなくとも、とにかく石油を手に入れて、儲かってさえいれば英雄視されるというのが、アラビアンナイトの日本版なのだ。
 これはある意味で無理もないことだ。というのは、日本の財界筋の伝統的な発想法からすると、正統派を代表する考え方だからである。たとえ自分の会社で開発したノウハウ(技術と知識)でなくとも、とにかく、他の同業者に先んじて外国特許を買ってきて、市場競争に勝ちさえすれば優良会社といわれるのだし、また、たとえ粉飾決算でも、高配当を行ないさえすれば優秀な経営者の仲間入りが果せるのが日本経済の一面なのだから。
 結局、このようにして、日本には中東における石油神話が、現代における英雄伝説を生みだす素地として存在していて、自分もひとつ運命の女神にあやかってひと山あてたいという人びとを魅惑し、ペルシァ湾の蜃気楼の中に欲の深い人びとを招きよせるのである。
 これがこのグループの特性の代表的なものだが、「知識と技術」を最大の武器にしながら、石油に結びついた自然に関する情報を物質化して、石油発見を実現していくことが企業活動そのものになっている、いわゆる世界の石油会社とはだいぶその内容を異にしている。
 石油を取り扱う姿勢において、探査活動よりはむしろ、その存在が確認されている油田そのものに強い関心をもっているということもできる。この点で、このグループに属する企業は、金融力を背景にして石油を取り扱う石油専業の商社に近いもので、非常に日本的な石油会社だということができる。
 アメリカにも、幾分これに似たような会社が数えきれないほどあって、俗に「ヒトクチ屋」と呼ばれている。それぞれ同じように、「ナントカ資源株式会社」と名のってはいるが、日本のように大規模な組織形態をとっていないところがアメリカ的である。ある意味でブローカー、あるいはプロモーターに近い性格のヒトクチ屋は、組織が複雑化していない上に、機敏な行動に結びつけるようにきわめて少数の手にその決定権が集中していることが、成功への鍵になっているから、小さい方が能率的なのだ。中にはトップにいる人の持つ鋭い問題意識と、その小まわりのきく機動性によって、中堅の石油会社をはるかに上まわる大きな商売を営んでいるものもあるし、またある程度以上に組織がふくれ上がってしまうと、一般の石油会社とほとんど区別できなくなってしまう。
 今をときめいている大石油会社の中にも、かつてはこのヒトクチ屋から身を起こして、成功をつみ重ねながら発展して現在に至っている会社もいくつか見うけられる。しかしそれは非常に限られた例外なのだ。なにしろヒトクチ屋の世界での栄枯盛哀はきわめて激しく、おそらく大石油会社へと成功する割合は一パーセント以下であることはまちがいのないところだ。それでも自分こそはと思いながら、寝ても起きて石油のことばかりを思いわずらう日々を送っているのである。
 さて、以上のような二つの系統に分類される石油事業が日本には存在しており、それぞれ違った形での問題をかかえながら、これから立派に成長していこうと期待に胸をふくらませている。そして枯木も山のにぎわいというものの、ヒトクチ屋的な会社が盛況な日本の石油業界は、果してどのような潜在的な力を秘めているといえるのだろうか。
 こういった意味あいで、日本の石油事業を全体として眺めわたしてみると、現在の段階で日本が莫大な量の石油を消費して、世界最大の石油輸入国であるにもかかわらず、石油ビジネスの実力では世界の三流であるという評価に甘んじざるを得ないのである。


貧乏人の子沢山

 あらゆるものに、生成、発展、そして衰退という変化の過程が存在している。そしてこれを組織についてあてはめてみると、創業、拡張、そして解散というパターンをとりながら、われわれの見ている目の前で変化していく。また、このプロセスが存在していることを十分承知の上で、あることを達成しようという目的のために組織は作られ、そして存在している。
 中には、非常に短期間のうちにこの過程が移り変って、二年前に設立された会社が、創業六カ月足らずで立派な本社ビルを完成したと思ったら、今年はもう「会社更生法」の適用をうけて残務整理に入ったというようなケースもよく見うけられる。そして石油開発にたずさわる石油事業こそ、創業と解散が最も頻繁にくりかえされている代表的な産業分野なのだ。
 それなのに、ほとんどの人は、決まったように生成から発展までの過程だけを見つめて、明日の日の成功だけを夢想しており、あのいまわしい衰退の時期など決して来ないようにと、一生懸命になって努力をするのだが、この取り消すことのできない自然の大法則は、ともすると非常に苛酷な結果をもたらすことが多い。また創業そのものにしても、決して平坦な道をいくようなわけにはいかなくて、そのほとんどが困難につきまとわれていて、実に苦しいものが多いのである。
 だいたいどんな産業でも、組織がまだ駆け出しの時代には、そこでつき放されてしまったら、もうとてもやっていけないという時期があるものだ。特に石油事業のようにスケールがけた違いに大きな産業の場合には、この傾向は一段と強い。その上、石油はエネルギー資源の中核として、日本経済の繁栄と安定の鍵を握っているのだから、この若い時代につきものの苦しい局面を打開して、一刻も早く一人立ちできるようになるために、国からの政治的、経済的な支援が、時と場合によっては必要になってくる。
 石油事業が自立した産業としてやっていける見通しがつくまでは、国から有形無形の援助をしてもらうのは、それが当然だといわないまでも、ある程度不可欠という点については、われわれは十分な理解をもつ必要があるだろう。問題は、一人立ちする時期がいつなのかということであり、乳離れをする年齢なのである。それはまた、他からの援助を頼らずに、自分の力だけでやっていこうという本人の意志にもかかっている。
 もちろん、各組織がもっている歴史、習慣、実力、体質、思想といったものがそれぞれ違うから一人立ちする時期に、遅い早いの差はあるだろう。それにしても、日本の石油開発事業全体を見渡す限りにおいて、それは母親に甘えたまま、いつまでも乳離れをしたがらない子供のようだという印象がとても強い。あるいは、結婚後何年たっても、国元の両親からの仕送りを頼りにして生活している「ヨッカカリ夫婦」に似ている。それは自分たちの力で新しい生活を切り開いていこうという意欲に欠けているからだ。
 だいたい、親から小遣い銭をねだりとるためには、上手に手紙を書いて説得をしてみるのが、もっとも一般的なやり方であるという点に関しては、あまり異論がないだろう。
 「コレコレの事をするのに、カクカク、シカジカのお金と時間がどうしても必要です。そのためにも、とりあえずコレダケのお金を送ってもらえたらと思いますので、どうかよろしくお願いします」というわけで、ナダメつ、スカシつしながら無心を試みる。これは、私自身もかつて学生だった頃にさんざん使って来たきわめて普通のやり口だから、その効果のほどについてはとてもよく分る。
 そして親とはまったく有難いもので、「この手紙は上手に書かれた作文なのだ」と分っていても、知らん顔をしてだまされてくれる。自分は、すき間風の吹きぬけるアバラ屋に住んで、粗末な食事に耐える生活をしているというのに、「ガンバッて早く一人前になっておくれ」というわけで喜んでだまされてくれるのである。そして自分の子供が、ひよわであればあるほどそれが激しくなって、よそ目にもいじらしくなるほど一生懸命になるのだ。
 日本の場合、国がまた親馬鹿の役を夢中になって演じていて、石油事業にみる限り、正直にいってわが国は貧乏人の子沢山だ。それも精神と肉体において発育不全のまま、作文ばかりがやけに上手になった子供たちをワンサとかかえこんで、米ビツが、すっかり空っぽになりかけている家庭によく似ているのである。


味なしダンゴ

 多少議論が飛躍することを許していただくが、私はここで、日本の石油開発事業を再編成し直して、せいぜい二つくらいの単位にまとめるべきだということを強調しておきたい。国際舞台における石油開発の面でみると、別格のアメリカ合衆国をのぞくと、イタリアは一社、フランスは三社、そしてイギリスは二社半(一社はオランダ六割、イギリス四割で共同保有)しか自国の企業をもっていないというのに、日本では二〇社以上も目白押しであるというのはまったくどうかしている。
 それも米やアズキの相場ではあるまいに、確実な見通しも実績もないままに、思惑と欲の天秤棒でかき集めてきた札束をにぎりしめた石油の素人たちが、たかだか二、三本の石油井戸しか掘れない程度のちっぽけな資本の会社を設立して、国からのテコ入れを待ち構えて作文作りに余念がない。そしてめくら滅法に何本かの試掘をしてみるのだが、それが皆空井戸だったために、手持ちの資金をすっかり使い果して動きがとれなくなり、挙句の果てには他国の石油会社に、鉱区もろとも身売りして一巻の終りになる、ということをくりかえしているのだ。
 こうやって日本の富を少しずつ使い果していくのが、現在のわが国における石油事業の姿なのだが、それを片手間にやって有限責任をフルに行使しているのが、本業を別の産業部門の経営者として持っている日本の財界のおえら方なのである。
 それでなくとも石油事業は、将来きわめて不確定な成果を手に入れるために、現在手持ちのありとあらゆる資源を投入しなければならない運命にある。それなのに、まるで先もの買いの投機でもするような気持で、人びとがこの石油資源のまわりにむらがり集まり、しかも必要な人的資源で手を抜き、財政資源で出し惜しみをし、加えて、知識と技術にはまったく配慮さえしていないというのが日本の現状なのだ。
 下品なたとえをして申しわけないが、もしそれがダンゴだったら、日本の石油事業にたずさわっている会社を全部まとめて、にぎり直してもう少し見ばえのするものに作りかえたい程度のものばかりなのだ。
 「十団子も小粒になりぬ秋の風」という句ではないが、佗しさばかりを感じさせられるような大きさで、そのくせ粒よりだといいかねる。それに加えて、ダンゴに味を添える塩や砂糖に相当している知識と技術の面において、ほとんど零に近いギリギリのところまで大幅に手をぬいているから、うっかりすると、いくら団子だといって力みかえってみても、それが単なるメリケン粉のかたまりにしかすぎないことが、すぐにバレてしまうかもしれない程度のしろものばかりなのである。
 こういうと、「中には立派な成績をあげている会社もあるし、しっかりとした経営をしている会社があるというのに、そんなひどい決めつけ方をするとはけしからん」とおっしゃりたい人があるかもしれない。しかし正直にみたところ、どの会社も似たり寄ったりなのだ。その差はといえば、発育不全と実力不足で鳴かず飛ばずのまま悲運をかこっているか、あるいは失敗と成功の間にあって、仮に幸運をつかんで石油を発見でき、経営上利益を生みだしているにすぎない。本当に実力があって、それによってもたらされた成功であったのならば、少なくとも日本の石油事業を代表して、世界の石油問題に対して、より積極的な役割を果してもよさそうなものだ。
 そして、世界の石油会社に伍して、堂々と渡りあえるような石油会社として、三つに分類されたグループの筆頭に相当するものを日本にもたらせてもよさそうなものである。ところが、残念なことにこれだけ日本が大量の石油を消費しているにもかかわらず、世界の石油問題における話し合いでは、イニシアティブをとるどころか、その仲間にさえも加えてもらえなかったことは、われわれの記憶にいまだ新しいことであるし、また筆頭グループにあたるものは、いまだ日本には存在さえしていないのである。
 そしてリーダーシップからは、はるか遠く離れたところにいるばかりでなく、自分の属している石油事業という産業分野が、いかに知識と技術に依存しているかということにさえ、はっきりと気がついていないのだ。その結果当然のこととして、この面での組織的強化という点に関しては、相変らず放棄したまま、もっぱら安いコストで石油を汲みあげて日本に持って来て、利益をあげるということにキュウキュウとしているのだ。
 いかにも日本の財界の申し子として考えそうな、高配当を実現するという一つ覚えの経営哲学ばかりを口の中でつぶやいて、それで事たりたとしている点は、リーダーシップからの距離の大きさを、予想させずにはおかないのである。


石油事業といくつかの課題

 私が日本の石油事業を名指しで、発育不全の半病人だといったことに対して、石油の仕事に関係している人の中にはとても不愉快な気持を持たれた例があったかもしれない。しかし、何を達成するために石油事業が存在しているのかという目的と、その成果について考えると、こう結論せざるをえなくなるのだ。
 それは、組織というものが、ただ存在するためということではなく、ある目的を達成するための一つの手段として、作られているからである。たとえば石油開発を目的として作られた企業であるなら、まず石油を発見して掘り出し、市場にもって来ることが第一の課題である。
 しかし、むやみやたらに試掘して運を天にまかせるというやり方ではなくて、現代の水準で動員できる限りの科学的な手段を駆使して、数少ない可能性の中からより確実に石油発見を実現していくことが大切だ。
 そしてこのことを保証してくれるものが、日ごとに革新されている石油開発の技術と、自然現象に対する知識なのだ。この点で人類が長い時間をかけて切り開いてきた、宇宙に対する認識と、自然現象についての理解の内容に対して、ある程度の信頼が確立されることがないならば、石油を発見するという仕事は危険きわまりない投機にすぎないのではないかという不安を、ぬぐいさることはできないだろう。ということは、とりもなおさず人知の限りを動員したあとで初めて、現代のわれわれのもつ認識限界の外にあるなにかが最後の決め手となって、一つの運として働くのだという理解に結びつき、企業はあくまでも現代科学の粋を総動員して、より確実に石油発見へのアプローチをしていこうという考えにたどりつくのである。こうした姿勢の上に学問は進歩し、石油発見の科学は日ごとに革新されるのだ。
 こういった意味あいにおいて、日本の石油開発に対する基本的な考えの中には、人知の限りを動員しないままサイを投げるという傾向が、あまりにも強すぎはしないだろうか。そして、人間がその全歴史を通じて、少しずつ獲得して来た知識と技術という情報の量と質に対して、われわれはあまりにも過小評価しすぎていないだろうか。
 また、こんなことをいう根拠は、ここでいっている石油に関する情報の数々は、それを石油発見に結びつけていく人間によって、石油会社の内部にノウハウとして蓄積していくのであり、この数字に換算することのまったく不可能な資産こそ、石油会社の実力といわれているものの最大の要素だからである。この点日本では、帳簿づらに現われてくる数字に換算できる資産だけで会社の内容をみるという、「貸借対照表主義」があまりにも強く横行しすぎている。
 これが日本経済の中に、ソフトウエァー部門で真に実力をもった企業を育成しないまま、外国で開発されたノウハウに今なお依存して、それでも売上げさえ伸びれば優秀な会社に格付けされるという、誤まった神話を保ちつづけている社会的な背景になっている。この不毛な神話をつき崩すためには、「真の人材」に対しての評価をこの際大幅に改めることが、一般の企業、そして石油開発に従事している会社にとって、最も重要だと分るだろう。
 なぜならば、人材を育て、そして活動の場を提供することこそ、石油会社にとっての直接的な利益と結びついていることであり、石油発見を実現するための最短距離だからである。この点日本の石油事業によくみられる、短期問における採算性だけを尺度にして、すべてを判断するという態度は、いかに安いコストで石油を手に入れるかということばかりをむやみやたらと強調しがちであり、人材に対する考慮を忘れる結果に終りやすい。そして、ともすると時間と費用のかかる技術と知識の開発には、できるだけ手を抜くことをもって、合理化などといって、いかにもむだを省いているように思いこんでいる。そのあまり、内部のポテンシャリティが低くなり果てて、石油事業から脱落してしまうということを繰り返しているのである。
 そうならないためにも、ソフトウエアーを生みだし、企業に活力を与える真の人材群に対する評価が、会社の最重点を置いたポイントの一つであると、頭のきりかえをしていく必要があるだろう。
 さて、これまで述べてきた、石油の発見と緊密に結びついている問題だが、その次に来るものとしては、石油事業を続けながら、企業が経済的な面で完全に自立でき、しかも新しい開発計画に対して力強く立ち向っていけるだけの利益を確保するということは、今さらいうまでもないが、きわめて重要なことである。
 実際問題として、日本の石油事業のほとんどが、この段階で行きづまって、動きがとれなくなっているのだ。石油事業というものは、石油を発見しない限り一円の収入も期待できないばかりでなく、企業活動そのものが、コストセンターとして何かするたびに、莫大な出費を強制するメカニズムである。
 そして組織の中に石油発見を実現していく有能な人材群が存在しない場合には、最初のうちは巨大な資金に恵まれていても、石油をみつけない限りこの資本は日一日とやせ細っていくばかりなのだ。挙句の果てには、組織としての体面を維持していくために、政府に泣きついて、石油開発の名のもとに補助金をもらってかろうじて生きのびるという破目に陥るのである。そしてこの段階で余命を保っている会社が、どれほど多いかということを知れば、これはまさにスキャンダル以外の何ものでもない。
 また石油事業の場合、流動資産が大きければ大きいほど企業活動が活発となり、次の新しい成功への確率が大きくなるというジンクスがあるが、これはいまだかつて破れたことがない。そして世界のメージャー石油会社と呼ばれる有力会社は、いよいよ大きくなるばかりである一方、日本の企業のように、世界の零細石油資本は取り残されるばかりでなく、どんどん潰れかけているという点についても、われわれはもう少し注目してもいいだろう。
 さて経済性の次にくるものとして、石油事業の課題の一つに数えられるものは、石油産業であることにおおいに関係した問題だ。まず、地上最大の産業であるからには、人類の直面しているフロンティア領城の開拓に大きく貢献するという、積極的に肯定しなければならない分野での使命がある。
 石油事業が、すでに述べたように、情報を物質化していく過程で石油を発見していく事業である以上、フロンティアの意味するものは、地理的なものばかりではなく、技術と知識の領域をも合む、非常に広大な内容をもっているのは当然のことである。
 さらにそれだけにとどまることたく、人類が長い歴史の中で絶えず新しい問題を生み出してきた国際問題も、常に新しいフロンティア領城の一つに数えあげることができる。石油会社の属している国の利益だけではなく、国際協力を実現しながら、地上における資源と富の分配によってもたらされる利益が、いかに公正になされているかという点に注意を払い続けることは、無益な紛争の種をまかないためにも、忘れることはできないだろう。
 この問題は有史以前から、そして二〇世紀の歴史の中でも利害の対立として、ことあるごとに国際的な紛争の原因になってきた。そして特に石油のように、莫大な富が関係している資源の場合は、その傾向がきわめて著しい。
 あれは市民戦争ではなくて石油戦争だといわれているビアフラの戦争にしても、また、われわれ日本人自身がひきおこした太平洋戦争でも、その直接の原因の一つには、常に石油資源の確保ということが、大きな役割を果していた。またイラクのクーデターにしても、リビアの革命騒ぎにしても、その背後には必ずといっていいほど、石油の権益と結びついた複雑な動きが存在している。
 このように、石油はその取り扱いをひとつまちがえることによって、一国の運命をあやまってしまいかねないほど、重大な結果をひきおこすおそれのあるものなのだ。それだけに、十分すぎる注意と慎重な判断に基づいて決断を下す必要のある仕事といえるのである。
 さて、以上のような石油事業が直面している課題のいくつかについて、簡単に検討してみたが、私はこれらの課題に対する日本の現状について観察してみた結果、さきに指摘した通り、日本の石油事業が発育不全である上に、非常に危険なことに、石油問題を扱う上でとても重要である問題意識において、おおいに欠けるものがあると判断したのであった。実際問題として、「知識と技術」に関しては外国の下請け会社の助けを借りない限り動きがとれず、また経済的な自立も、たかだか二、三木空井戸(石油を生産しない井戸)を掘ったあとはおぼつかなくなってしまい、補助金によって甘やかされている日本の石油事業は、今すぐにでも構造改革にとりかからない限り、日本は永久に世界の三流国にとどまっていなければならないばかりでなく、その繁栄を維持することさえおぼつかなくなるだろう。
 せっせと税金と国の富をつぎこんだ挙げ句、発育不足の企業が数字の上ばかりでにぎわっている日本の悪循環を、一日も早く断ちきることが必要である。そしてまったく新しい精神のもとに、日本の将来の安定のために、新しい課題と困難に挑戦できる組織に作り直す作業に今すぐとりかからないかぎり、日本には明るい未来が開かないだろう。
 手術に伴う出血を恐れるあまり、ガンの腫瘍を放置したままにしておけば、あとになって日本全体の命取りになるのである。


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