9 迫りくる石油危機



タンカーの大爆発

 もうだいぶ昔のことだ。私は不思議なオランダ人に出会ったことがある。それはイタリア領かユーゴスラビア領なのかはっきりしないが、とにかくイタリアのアンコーナという町の沖合三〇キロほどのアドリア海上のことだった。私は、地貿学のコンサルタントとして、アドリア海上に浮かぶネプチュン号というプラットホームで海底の石油を掘る仕事をしていた。
 日課というのは、掘り出されてくる岩屑(カッティング)を顕微鏡で観察して、現在どんな地層を掘り進んでいるのかを判定して、現場監督に操作の指示を与えるだけで、比較的暇のあるものだった。船員ではなく、海底油田を相手にしているという違いはあるが、いうならば外国航路の船医みたいなもので、忙しい時は眠る時間もなかったが、暇なときにはおおいに時間をもてあました。これがアドリア海上における私の生活のリズムだった。こんなわけで忙しく立ち働いているボーリング労務者や熔接工の仕事ぶりなども手のあいている時などは二〇分でも三〇分でも眺めていることができた。またこのネプチュン号で唯一の東洋人だったせいか人目をひいたらしい。夕食前には誰かしらが近づいて来てバーでアペリティフ(食前酒)をおごってくれたりして、お近づきになっていろんなことをしゃべりあった。
 こうして親しくなった一人にティルケルという名のオランダ生まれの機関工がいた。フランス語はカタコトだが英語を上手にしゃべる上に、日本のことをだいぶ詳しく知っていたので、よく飲みながら話をしたものだった。
 彼は、若い頃から船乗りとして世界の海を渡り歩いてきた経歴の持主だったが、なんとなく孤独な顔つきをした痩せぎすのロマンスグレーだった。もちろん横浜や大阪にも行った経験があり、三の宮(神戸)がご贔屓だった。ある晩のこと、いつものように夕食前のアペリティフを傾けながら、彼がかつて太平洋航路の貨物船に乗り組んでいた話の途中で、「そうだ、パールハーバーで思い出したけど、私一人の力だって、日本軍が真珠湾でやった以上の奇襲をやって日本人を驚かすくらいのことはできるんじゃないかとよく考えたことがありますよ」と突然いい出した。
 私は彼のことばに不意をうたれたが、そのまま耳を傾けていた。
 「もっとも、私は個人的に日本に対して何のうらみもありませんから、そんなことはやりませんよ。もし日本人にうらみを持っている人間がいて、私と同じことを考えたとしたら、日本を大混乱させるくらいのことは至ってたやすいです」。私は驚いたままこんなことをいい出した彼の顔をしばらく見つめているだけだったが、そこをなんとかとりつくろって、「今どきそんなことができるものですか」と打ち消してみた。
 するとオランダ人は、「それがね、お望み次第なんですよ。たったマッチ一本で、日本は壊滅的な打撃うけることまちがいないですね」と力強くいいきるのだ。彼のこの確信にみちた顔をみているうちに私は少しずつ不安になってきた。そこで、「それじゃあいったいどんことをやればいいというんですか」と水を向けて、彼はいったいどんな説明をするのだろう思いながら、話の始まるのを待ち構えた。そんな私の気持にはお構いなしにゆっくりとパスチスという強い酒を味わってから、彼はしゃべり始めた。
 「私はオランダ人ですが、家族の中でインドネシアにいった人間がいなかったので、日本軍がどんなことをしたか知りませんよ。だから日本には何のうらみもないですから、あなたの国を混乱させてみても何の得にもなりません。それに私はまだこの世におおいに未練がありますから死ぬわけにはいきませんね。しかし万が一にですよ。私が日本を大混乱に陥れてやりたいと考える男で、しかも油槽船に乗り組んでいるとすれば、これ他愛のないことなんですよ。東京湾でも大阪湾でもどこでもかまわない。ダイナマイトがあればそれを使ってもいいし、もしなかったら、ちょっとバルブの加減を操作しておいて大爆発させたらそれで終りです。私が乗ったことのあるのは七万五千トンで、あの頃は超大型でしたが、今じゃあもう小型タンカーの部類ですよ。でも八万トンの油が東京湾に流れ出したらどうします。おまけに火がついて燃え拡がったら東京湾一帯はどうなると思いますか。大阪だって同じことです。私は事故死ということで海の藻くずとなってしまうでしょうが、大阪湾一帯は焼熱地獄にならないと、いったい誰が保証してくれます。たとえ火がつかなくたってあれだけの量の油が、一年や二年できれいになると思いますか。なりませんね。あんな狭い所に八万トンも流れ出したら、もう半永久的に汚い海になってしまって使いものにならないでしょうね……。それにね、機関銃だって手榴弾だってジブチの港へ行けばいくらだって買えます。イギリス製、フランス製、アメリカ製、チェコ製、何でもよりどりみどりです。ダイナマイトや時限爆弾くらいなら、なにもジブチまで行かなくたってシンガポールやシヨロンでいくらでも手に入るんですよ……」
 私は彼がしゃべることばを聞いているうちに少しずつ悪感がし始めた。そしてこの男は何と嫌らしいことばを並べたてるのだろうと陰鬱な気分を強めながらなおも聞いていた。
 「でも、あなたならよく分っているでしょうが」とティルケルは曖昧にニヤリと笑った。
 「どんなことです」
 「いやね、日本はベルシャ湾から石油を運んで来ない限り、動きがとれないという運命のことです」
 「もちろんよく知ってますよ。なにしろ日本の石油の九二パーセントは中東から来ていますから」
 「そうです。日本のこういった運命のおかげで私の友人や仲間たちがタンカー暮しをして、日本とペルシャ湾の間を行ったり来たりして生活しています。でもその中に一人くらい頭のおかしい奴がいて東京湾でさっきいったような大爆発をやらかしたとしたらどうなります。それでも日本政府はタンカーの運行を禁止するわけにはいかないでしょうね。日本にとって石油はどうしても必要不可欠ですから、まさかタンカーをストップさせて自分で自分の首をしめるようなことはできないはずです。そして東京の次は大阪湾でドカーン、その次は瀬戸内海で……と考えたら、五万トンのタンカーでも広島の原爆以上の威力をもっていると思いませんか。実際タンカーは移動原爆なんですよ」こういって彼は一息ついた。
 私はもう息苦しくってたまらなかった。
 それでも「それじゃあ、いったいあなたはどうしたらいいといいたいんですか」これだけをかろうじていうと、私はオヒヤをたてつづけに三杯も飲んだ。
 「いや、どうってことはないんです。私は日本に行くたびにメイド・イン・ジャパンのトランジスター・ラジオを合計で三個も買いました。ところがどれもみな一年くらいで駄目になってしまったんです。もう日本製のトランジスターは絶対に買わないつもりです。たとえ安物だったにしても、あれですっかりこりました。今度はドイツ製か自分の国のフィリップスを買いますね」
 私がこんな気持になってしまったというのに、この頃じゃあアメリカ、ソ連、そしてドイツに次ぐ大国になったと日本人がいばり出したでしょう。あれが癪にさわるたびに、いつか東京湾でタンカーが爆発しないかと思っていたんです。でも今じゃあ、あんな馬鹿げた考え、決してしません。ところがなんです。偶然私のこんな考えと同じものを持っているイギリス国籍の船員に出会ったことがありました。もっとも香港育ちの中国系ですがね。彼の意見によると、中国がいまだに日本政府からあんなにいじめ抜かれているというのに、何の仕返しもしないでじっと我慢しているのがたまらないというんです。もっとも彼は父親を日本軍に殺されていたんです。私は彼の話を聞いているうちに、もし私が彼の立場だったら、東京湾でドカーンとやっちまったところであたりまえだろうという気になって来ました。でもこの中国系の男は貨物船に乗り組んでいましたから、私の考えたようなタンカー爆弾は考えつかなかったようです。その代り麻薬を持ちこむんだといってましたけど、結局は日本にとって危険人物といえるのでしょうね」
 私はそれくらいの人間はどこにでもいるだろうと思ったので、「でも麻薬の密輸をたくらんでもあまり成功の確率はないんじゃありませんか。もっとも東京湾のタンカー爆発はおおいに可能性があるでしょうが」と相槌をうつと、「大ありです。その通りですよ。もし日本に近づけないとしたら他に方法はいくらでもあります。それも三干トンくらいのタンカー一隻で十分です。マラッカ海峡というのをご存知ですか。あそこは実に嫌なところです。潮流は早いし、サンゴ礁やちっぽけな島がいくつもあって、マレー航路の最大の難所になっています。あそこで一発事故を起こしてしまえばいいんです。そうすれば黙っていてもインドネシア政府やマレーシア政府は、タンカーの通行を制限してきますよ。なに、シンガポールでも香港でも、リベリアでも、どこの国籍の船をダシに使ってもいいんです。事故さえ起こしてしまえば、それで日本の首をしめる目的は充分に達成できます。事故はあくまでも事故ですから、これはどうしようもないですね。大陸育ちの中国人だったら、これくらいのことをいとも簡単にやってのけるゲリラはたくさんいるでしょう。日本が、これからも中国大陸に対して嫌がらせを続けて敵視政策をやるようでしたら、彼らはこんな有効な武器を持っているから黙っていないでしょうね。どこという場所に限りませんけど、特にマラッカ海峡での海難事故は、日本にとって何よりも影響が大きいでしょうね。こんなことから言っても、結局日本はあまり大きな顔をしていばり返ったり意地悪をしたりしないで、どこの国民とも仲良くしない限り立つ瀬がないということなのでしょう。私はもうあのトランジスター・ラジオのことはすっかり忘れてしまうつもりです。どうです。仲良くやろうじゃありませんか、親愛なるジャパニーズの友!」
 こういわれて私は、日木の急所をよく観察しているオランダ人に対して、すっかり舌をまいてしまうとともに、目の前が真暗になったような気がした。


マラッカ海峡の火の手

 戦後の日本経済は、自分自身の手で石油開発は行なわなかったものの、得意の商取引きを通じて世界中の安価な石油資源を買いあさりながら、低コストのエネルギー費用に支えられてひたすら発展してきた。東に安い石油があるときけば、黒海までいってソ連の石油を買いつけたし、西に低硫黄の石油が売りにでているときけば、ナイジェリアまで出かけた。こうやって築きあげてきた現在の経済灼な水準を維持していくためにも、日本はエネルギー源の中心になってる石油をいよいよ欠かすことができなくなっている。日本はもはや石油なしに一日もやっていけないところまできてしまっているので、どんなに高くても石油を買い続けなければならない。事実、日本が石油を買い叩いてきた、かつての買手市場の夢が忘れられないといってみても、もう二度と石油大安売りの時代はもどってくることはないだろう。
 七〇年代とともに、石油が世界的に不足する時代が始まったからである。こうして「石油の安定供給」とか「イエロー・キャピタリズムの反省」ということばが日本のジャーナリズムの関心をひき始め、日本がこれまで無原則に行なってきた海外資源開発に対して、反省の機運が茅生えるまでになってきた。これはある意味で全体的に行きつまっている日本の資源政策の中で、特にエネルギー政策が大きな曲り角にさしかかっていることを示している。このままだと、日本はエネルギー不足が原因して、経済活動を発展させるどころか、現状維持さえおぼつかない状況に追いこまれつつあるのだということを意味している。
 ちょうどそんな頃、ヨーロッパに本拠地をおいて石油開発の仕事に従事していた私は、自分自身の体験を通じて石油ビジネスの分野におけるヨーロッパとアメリカの落差が五年もあることに気がついた。そこで住みやすかったヨーロッパの生活を捨てて、アラスカの石油ブームで湧いている北米大陸に渡ってきたのだった。こうやって極寒の支配する北極洋地域の石油開発に取り組み始めた私のところに、太平洋の向う側から変な噂が伝わってきた。それは、日本へ財界の一部から「マラッカ海峡防術論」というたいへん勇ましい議論が湧き上がって、賑やかに論じられているというのであった。
 これを聞いたとき、私は何よりもまず先に、あのアドリア海で出会ったティルケルというオランダ人のことを思い浮べた。彼こそ日本の経営者たちが、マラッカ海峡について騒ぎたてる五年も前に、私にこの海峡の名前をはっきりと教えてくれた人だったからだ。日本で始まったマラッカ海峡についての議論というのは、だいたい次のような内容のものだった。
 「マレー半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡を通る大型船の九〇パーセントは日本向けである。中東から買いつけた石油は、すべてこの海峡を経由して運ばれていて、いわばここは日本の生命線に相当する。それに英国は、軍単戦略上スエズ運河を境に、それより東は完全に撤兵するという政策を進めているし、アメリカもポスト・ベトナムの段階で、東南アジアからは漸次手を引く政策を検討し始めた。そうなると、マレー半島、周辺がまったくの無防備地帯になるから、この地域を日本が責任をもって防術しない限り安心できない。
 考えてみるまでもなく、これはまったくピントのはずれた意見であるばかりでなく、思い上がりばかりがやたらと目につく考えといえた。イエロー・ヤンキーなどという有難くないアダ名をつけられ、財界の総本山にいる人たちならなるほど思いつきそうな、いたって軽率でしかも鼻もちならない発想法なのである。よその国の主権や国民感情、そして国際世論に対する配慮がまったく欠けていて、何とも手前勝手な言い分でしかない。それなのに、不思議なことに、こんな低い次元の問題が、日本では財界人たちによって真面目に議論されていたのだ。
 もしあのオランダ人が言ったように、東京湾で一〇万トンのタンカーが爆発してしまえば、いくらマラッカ海峡を厳重に守っても何にもならないのだし、大阪湾、伊勢湾、瀬戸内海、その他ありとあらゆる場所でやろうと思えば、タンカーは爆発させることができるのだ。何しろ一九七一年でさえ、日本は一日に六〇万トン近くの石油をタンカーを使って外国から運んできているのだから。 肝心なことは、いかなる国とも紛争の種になるようなものを作らないように、日本の姿勢を正すことなのだ。変な大国意識をもつ前に、相互信頼を基礎にしたところに日本の基本的な立場があり、それは平和的な国際関係を維持することによってしか保証されないのだということを、まず日本人自身が徹底的に理解する必要がある。その上で、この日本の立場をよその国の人びとに本当に理解してもらうようにひたむきな努力を続けることが順序なのだ。日本はあらゆる国を信頼して、仲良くやっていかなければ、単独では生きていけないのだという点を、日本人自身がはっきり自覚しない限り、日本は孤立して破滅するばかりだ。
 それだというのに、「マラッカ海峡防術論」をいいだした日本の財界人たちの発想には、こういった視点がまったく欠けていたのだった。かつては洗練されたつつましさを誇っていた日本人が、いつの間にか醜悪な繁栄の中で大国意識をもち始めるとき、この日本の思い上がりに対してソッポを向く国が続出することだろう。そしてそのときになって「驕れるもの久しからず」という平家物語の冒頭のことばをかみしめて味わっても、すでに手遅れなのである。


日本の宿命的な体質

 日木で持ち上がったマラッカ海峡防衛に関する議論は、地の果てのような北極洋で石油探しに没頭して、少しばかり油くさくなっていた私の興味をひきつけた。それは中東と日本を結んで、「タンカー銀座」と呼ばれているこの束南アジアの一角の問題としてではなくて、日本の安全ということを考える意味で、とても興味深かった。
 というのは、日本の安全とは、果してどのような内容についていわれるべきなのだろうと考えたとき、私はギクリとさせられるような一つの問題が目の前に提起されているのに気がついたからであった。別のいい方をしてみると、国の安全上の意味はいったいどのように理解したらいいのだろうという、いたって基本的な疑問が湧き起こったのである。
 いうまでもな国の安全というテーマは、人間の長い歴史の中でたびたびとりあげられてきたし、また現代においても人びとの注意をひきつけて放さない古くて新しい問題である。それだけに、これまで数えきれないくらい行なわれてきた、「戸じまり論」や、「憲法論」のような観念的なやりとりをここでむしかえしたくない。そんな空まわりの議論をつづけているかぎり、いつまでたって国民的な合意は生まれてこないばかりでなく、気まずい喧嘩別れに終ることが分りきっているからだ。
 さて、そこでいよいよ本論に入るわけだが、従来のように抽象的な議論を始めないで、その代りに、現在の日本が置かれている状況から判断して、これからの国際環境の中でいったいどのような生き方をしていくことが、日本の安全にとってもっとも大切なのかというふうに、問題のたてかたを変えてみよう。「なんだ、つまらない、どこが違うんだい」という人があるかもしれないが、こうすることによって、日本の安全という雲をつかむような問題は、小中学生を含めて一億人の日本人が一緒になって考え合える共通の広場を見つけることが可能になるのだ。
 いうまでもないことだが、一国の安全の問題は、経済的、あるいは政治的に大きな影響力をもつ国になるほど複雑なものになる。日本の場合を歴史的にふりかえってみても、それは明らかだ。戦後の例をみても、平和の立場を強調した新憲法のもとに、戦争の廃墟の中から立直る努力だけでせい一杯だった日本は、一九五〇年代の半ば頃までは、世界の中でも、いうならば、その他大勢の仲間であった。後進国も日本はあまり期待していなかったから、エコノミック・アニマルなどと悪口をいうこともなかったし、先進国もまた、日本に対して特別な警戒心なしにつきあってくれた。日本の支配層が、勝手に日本の平和と安全を脅かす相手だと決めつけて、仮想敵国だと考えたソ連や中国でさえ、現在のように「日木の帝国主義の野望と軍国主義の復活」と激しいことばで非難することを繰りかえしはしなかった。彼ら自身、日本を自由の安全にとって脅威的な存在であるとは考えなかった。そして日本人自身もまた、日本が世界の三等国であるという評価を甘んじて受け入れていたのだった。
 これは身のほど知らずの戦争をして、すっかり疲弊しきった上に、持たざる国として、よその国と協調して資源の供給をあおがなければ生きていけなかったからだ。よその国と摩擦なしに地味にやっていくという態度は、日本が身につけた一つの生活の知恵だった。しかし日本の経済規模が少しずつ大型化し、日本人自身が大国意識に似たものを持ち始めるようになると、こうした堅実一本やりの従来の姿勢では物たりない人びとが、政治の表面に派手に登場するようになってきた。
 とはいえ、国際的な軋櫟は、話し合いによって根気よく解決していかない限り、自分で自分の首をしめるだけだという意味で、日本の立場は三等国時代と少しも変っていないのである。外国からいろんな資源を買って来て、それに付加価値を高めて国際市場に進出していくという宿命的な加工貿易経済という日本の体質は、基本的に変更できないからだ。それに加えてあらゆる部門で、基礎研究に対しての投資をケチって来た日本は、この加工貿易を続けるために、外国からの技術導入が途絶えたとたんに再び三等国に逆もどりをする運命が待ち構えている。
 こういったことを考えると、政治的、経済的な力が大きくなっていくに従って、日本人がより注意深い態度でよその国との関係を考えて、できるだけ摩擦が少ないようにと心がけていかないと、日本の立場は自然に悪化する傾向にあることは、まず誰の目にもはっきりとしているにちがいない。そして一国の国際的な立場が悪化するということは、とりもなおさず一国の安全が損なわれることの始まりだといえるのである。


逆は必ずしも真ならす

 マイクを片手に「モシモシ、あなたは日本の安全についてどのようなお考えをお持ちですか」という質問を、道行く人びとにあびせかけてみるのは、日本人の反応をためす一つの試みとして面白いかもしれない。中年以上の日本人ならほとんどが、「ええと、日本の安全というと、外敵からの侵略とか自衛権に関しての意味ですか」とききかえしてくることだろう。それくらい、日本では国家の安全の問題というと、国防とか防衛の問題として考えられる習慣が強いのである。そしてこれは、年齢が高まるに従っていよいよ強くなるという一般的な傾向がある。
 五〇歳以上の日本人なら、八割以上は、国家の安全を戦争と直結させて、すぐに国防問題として考えようとする反射感覚を持っている。彼らの生涯は、あまりにも戦争と関係が深かったからだ。しかし、戦中、戦後の世代といわれる三〇代と四〇代では、比較的に安保条約や政治のゆがみ、あるいは公害や地震といったものが、国家の安全との関連でとらえられるようになり、ヤングジェネレーションを代表する一〇代と二〇代になると、「魔神ガロン」や「ブラック・ゴースト」といった老人たちにはまったく耳新しい名前が登場するようになる。
 このように同じ日本人といえども、「国家の安全」に対する世代の反応はおおいに異なっているのだ。日本の政治と経済を支配し、しかも国家の安全をすぐに国防と結びつけて考える日本の老いた世代は、自分たちの考えこそ、もっとも正統なものだと思いこんでいる。確かにそれはもっともなことなのだ。日本人に限らず多くの民族が、これまで国防をいかにするかが国家の安全を保証する決め手であると考え、そのまま命題を逆にして、国家の安全は国防問題にあるとしてきたのであった。
 かつてはほとんどの人がそれを当然のことのように思いこんできた。ところが、猫はヒゲをはやしているが、反対にヒゲをはやしているのは猫だとはいえないように、逆は必ずしも真ならずなのだ。ヤギだってヒゲをはやしているし、マルクスやサンタクロースだって立派なヒゲをたくわえている。この点では、これまでの日本における「国家の安全」に関する議論は、ほとんどが国防問題の枠の中から一歩もでることがなかった。日本には優秀な人びとがたくさんいるというのに、こんな逆の命題をひっくりかえすこともなく、日本の安全の問題は、いつの間にか国防問題になってしまい、もっぱら軍隊や兵器といった軍事力を中心にして扱われるようになってしまった。
 まず第一にいけないのは、日本の安全と国防の問題が対等に扱えないことに気がつかなかたことだ。その次には、国防問題を、大砲、飛行機、兵隊といった軍備の問題の中に埋没させてしまえないというのに、ここでも同じように誤まった扱い方をしてしまったことだ。こういった二段跳びの論理の飛躍によって、日本人の多くが、国家の安全の問題というと自動的に軍事力の議論を始めてしまう習慣をもち、こんな錯覚に気がつかないで、それを当りまえと思いこむようになってしまった。
 確かに、兵隊の数を比較し、武器を数て戦力の優劣を比べるやり方は、歴史以前の神話時代から続いてきたものである。これは量や形として数られるものは、誰の目にも戦力として理解できるという印象を与えやすいからだ。それゆえに、昔から便宜上利用されてきただけにすぎない。しかしそれはあくまで戦力の問題なのであって、国防の問題ではない。いわんや一国の安全の問題ではありえないのだ。そのへんが、日本のトップレベルにいる人たちにはよく理解されてないのだが、これは子供にも分るあの「裸の王様」のたとえ話と同じことなのである。


世界一の将棋王国

 ウィーナーによって「情報の理論」が体系づけられたおかげで、われわれはあらゆるものをソフトウエアーとハードウエアーという二つの基本単位に区分して考える習慣をもつようになった。そして従来のようなハードウエアー万能主義は、ここ数年のうち目に見えて没落してしまった。このような経過を通じて、国防問題は、大砲や飛行機といった軍事力の大きさによって決定づけられるという、ハードウエアー的思考法がすっかり有効性を失ってしまい、各国は、国家の安全の問題と国防問題をはっきりと切りはなすとともに、国防問題を軍事力で判断するという伝統的なやり方を修正せざるを得なくなった。
 そしてアメリカでは、エネルギー問題をどうするかということが、国防問題とともにアメリカ合衆国の安全に関する議論を二分する大問題であったが、ここ数年来、エネルギー源の中心である石油をいかに確保するかという問題が、国防問題を議論するときにさえ、軍事力と対等に扱われるまでになったのである。この傾向が続いていく限り、近い将来において石油資源の確保ということは、軍事力を論ずる場合の中心テーマになるであろうことは予測するのに難しいことではない。
 こうして石油資源は、国の安全、国防、軍事力のあらゆる分野において、最も重要だといわれる位置を獲得しているのである。この石油資源を確保して、アメリカの経済活動に生命力としてのエネルギーをたえまなく供給することこそ、結果的にはアメリカの安全にとって最も重要であるという議論が始まって久しい。
 現在の水準からいうと、全人類を二百回以上も繰り返し殺戮できるだけの水爆を持っているアメリカ人が、やっとのことで、これではアメリカにとって真の安全を手に入れたことにはならないのだと気がついたことを意味している。これは、アメリカに始まっている石油危機のおかげであった。こういった認識があったから、ニクソン大統領は、アメリカのパートナーとしては、将来アメリカの世界政治のバランスの上でそれほど役に立つとは思われない日本をとびこえて、明日のにない手として魅力をもつ中国人と手を結ぶという大決断をしたのであった。それだというのに極東の日出づる国では、世界の現状についての正確な把握もできないまま、この米中接近を「頭ごし外交だ」と憤慨したのだった。
 そればかりではなく、日本の安全の問題というと、まるで軍事将棋でもやるような気持で「やれ飛行機だ、潜水艦だ」とさわぎたてている。おまけに、こんな程度のお粗末きわまりない発想法にもとづいて国防論をふりかざして、一九七二から七六年にかけての第四次防衛計画では、何と五兆八千億円もの資金を投入してこの時代遅れの戦争ゴッコの準備をしようとしている。
 まったくなんとあきれ果てたオツムのでき具合なのだろう。こんな程度の人びとが国政を担当しているのかと思うと情けなくなって涙がでてくる。
 しかしながら、ここで嘆いていても日本の安全は少しも保証されないので、再びソフトウエアーの問題に戻ることにしよう。
 さて、将棋を指すという点では、日本は世界に誇るべきすばらしい伝統を持った国である。そしてほとんどの日本人が、将棋を指すことの意味を心得ていて、ウィーナーの情報理論の一般化よりもはるか昔に、ソフトウエアーの重要性について、はっきりと気がついていた。これはまったく驚異的なことであり、すばらしい民族的な財産なのだ。それというのは、将棋においては、飛車や角行、あるいは金や歩兵といった駒そのものに決定的な価値があるのではなく、戦局全体を見通しながら、この駒をいかに動かしていくかと考える人間の頭の中にこそ真の価値があることを、日本人は知っているからだ。
 こんなことを言うと、ほとんどの人が、「なんだ、それはあたり前のことじゃないか、今さらそんなことをいっても始まらない」というだろう。それほど日本人はソフトウエアーの価値について知りぬいている。ソフトウエアーなどという英語をわざわざ持ってこないと、あたり前のことが理解できないのは困ったことだが、それにしても、日本人はハードウエアーである将棋の駒と、ソフトウエアーである頭脳の本質的な差を、体験的によく心得ている民族といえる。日本の子供なら、飛車や桂馬が将棋をさしているのではなくて、この駒を動かす自分の実力が味方の安全を保証しているのだくらいのことは、教えなくとも気がついている。現に、実力がありさえすれば、飛車、角落しだって、いくらでも勝負できるのである。
 問題なのは、いくら名人でも、十段のタイトル保持者でも、満足な食事ができなくて餓死しそうだったり、頭痛で頭が割れそうになったとき、危険が迫っているのである。要はソフトウエアーの内容であり、その健康状態なのだ。
 同じように、内部が腐敗していたり、エネルギー不足で呼吸困難に陥りかけた国家というものは「獅子身中の虫」で、どんなに駒を並べてみてもだめである。それだというのに、現代の日本では、国政を担当している人びとが、将棋をおぼえたばかりの小学生にも劣る頭で、「それ飛行機だ、ミサイルだ」と騒ぎまわってハードウエアーを追いかけまわし、肝心な日本という国の健康状態については、まったく考えが及ばないのだから、どうにも始末におえない。


国を守ることの意味

 国防ということばが出たついでに、「国を守る」ということの意味について考えてみるのも有意表だろう。
 「だいたい国を守るといっても、日本の場合、どうやって守るかという議論を始める前に、何から守るのかと考えた方がいいのではないか」という疑問が湧いてくるのは当然なことだ。なぜならば、何から守るということがはっきりしない限り、どうやって守るかという議諭はなりたたないからだ。
 そして、もしこのとき、今の日本を支配している老人たちと同じように「よその国から守るのだ」というようなことを考える人があったら、それは想像力の貧困を示す以外の何ものでもない。というのは、手近に日本の歴史を眺め渡してみるだけで、われわれは石器時代からの二千年の間に、他の民族による侵略以上に、自然の脅威や日本人自身の権勢欲による争いのために、この美しい四季に恵まれた日本の国土をすっかり荒廃させていることに気づくはずだからである。
 天明(一七八三年)や亨保(一七三二年)の飢饉の時には、全国で何百万人という餓死者を数え、人肉を食う悽惨な地獄絵が出現した。また応仁の乱(一四六七年)や天文の乱(一五四一年)では、権力を目ざした戦乱の中で、「人の餓死すること無限」といわれる悲惨な状況を生み出したことも有名な史実である。わざわざ日本の歴史を遠い過去にさかのぼらなくとも、宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……」の詩で名高い東北の冷害や関東大震災、それに太平洋戦争の戦禍だって手近に思いうかべられる。
 こういったことから、日本の安全を考える楊合、その基本精神として第一にいえることは、同胞を不幸にするような破滅の道をたどらないように、人知を尽すことのはずである。そして外に向って守りを固めることを考えつく前に、まず自分の内部に破滅の原因を作らないように心がけることはより重要である。腐っているリンゴは、いくらみがきあげてもそのうち悪臭を放って崩れてしまう。こういった点で、国内問題は最大の国防のテーマだ。そうはいっても、叛乱や暴動という現象を対象にした近視眼的な治安対策のようなものではなく、その原因となる社会的なゆがみや、政治の貧困といったものを真剣になって取り除く努力をすることが、これからの国防問題の中心課題になっていくだろう。 こういった意味では、日本の現情は、実に悲しむべき姿をしている。ちょうど李承晩の時代の韓国、蒋介石の台湾、そしてゴ・ジン・ジエム支配下の南ベトナムに、とても共通したものをもっている。
 いずれも頑迷な老人支配の続いた国で、自分に抵抗するものは警察権力やさまざまなしめあげを使って弾圧し、自分に都合の悪いものは、いっさいきかないという風潮が強いのだ。こういった強権政治が続けば、都市ゲリラ、個人テロが増えるばかりなのだ。日本人のティルケルが東京湾でタンカーの大爆発を試みるだろうし、再びよど号のハイジャックが起こるだろう。犯人がオランダ生まれのティルケルだと初めから分っていたら、捜し出すこともできるだろうが、日本の近海を西に東に走りまわっているタンカーの乗組員を、一人一人調査するわけにはいかない。それに、同じ国土に生をうけた日本人がお互いに信頼できなくなるという段階で、国家の安全は内部から崩れ去っていくのだということは、これまでの歴史がそれを証明している。
 こういったことからしても、政治が国民に信頼され、しかも国家がその国民を大切に扱うという関係が確立しない限り、日本にとって真の安全はなりたたない。この視点こそが今の日本に最も欠けているものなのである。


迫りくる石油危機

 石油地質学を専門にして、オイルビジネスの世界に生きている私の職業的な予測能力によると、日本はここ数年のうちに重大なエネルギー危機の中で、あらゆる経済活動が麻痺して空前の大混乱が始まる。それは一九八〇年よりも以前のことであり、それほど遠い将来のことではない。
 動力源としての電力や石油製品等の需要と供給のバランスが崩れて、日本経済は壊滅的な打撃をうける。そして数多くの工場や企業は活動を停止して、たくさんの失業者を生みだすだろうし、一般家庭では、電力の使用制限と停電の繰り返しの中で、重苦しい生活を余儀なくされるだろう。日本版の「暗黒の水曜日」と太平洋戦争の末期的症状が、同時に日本経済を襲って、わが国の安全が根底からおびやかされるのが、この時なのである。
 それを回避する唯一の方法は、石油開発と石油の安定供給に対して、まったく新しい発想法のもとに取り組む姿勢を確立して、日本の持っている総力を結集することである。現在の制約を次の時代の新しい機会にするために、国民が一致協力して一大革新をすることである。そのためには、昨日までやってきた伝統的なやり方を、明日も続けていこうと考えてはだめなのだ。新しいアイデア、今までとは異なった視点、座標軸の転換が必要である。このようなものをもとにして、今日こそ、勇気をもって、日本の安全のためにやるべき最優先の課題は何かについて、一億人が知恵を出し合って、迫りつつある危機をのりこえ、さらに力強く生きていく日本の姿勢を決定する最終日であることを自覚すべきである。
 この点で、アメリカと日本は同じ悩みをもった隣人である。同じ胃の疾患で悩んでいる仲間とはいえ、アメリカは胃拡張だが日本は胃癌なのである。どちらが早くだめになるかは、自覚症状の有無には関係なく、病気の内容とその国の体質によって決まってくる。
 ここで改めて、合衆国の場合を他山の石として検討してみよう。石油帝国を誇ってきたアメリカは、自国にとって必要な石油資源の確保がおぼつかなくなって、しのびよるエネルギー危機の影におびえ始めた。アメリカの安全は、核ミサイルや飛行機といった軍事力の不足によってではなく、むしろこのような軍事力にばかり気をとられて、あり余るほどかかえこんだ軍備を維持しようという体制のために、逆に損われるようになった。そして二億のアメリカ人たちの文化的な生活が、エネルギー源の不足によって脅かされてみて初めて、世界一の豊かさを誇るアメリカは、自国の安全を損い、合衆国の破滅の原因になりかねない石油不足が、外国の脅威よりもはるかに大きな力をもっていることを悟った。
 こうして、アメリカの没落を防ぐためには、エネルギー源の七六パーセントを占めている石油と天然ガスを確保することなのだという結論に達して、石油が国防の中心課題として位置づけられたのだった。ところが、目の前で、すでにアメリカの国防に対する考え方の大きな転換が行なわれて久しいというのに、日本では十年一日のごとく、飛行機や大砲といった軍事力に、大量な国家資金を投入することによって国防が果せるのだという、いたって幼稚で軍事将棋的な考えからいまだに脱皮できずにいる。その上、目の前に迫っている石油危機に対しては、いっこうに目もくれないで、ただひたすらに軍事的国防計画だけを推進しているのだからあきれてしまう。
 特に、接近しつつあるエネルギー危機によって日本の経済のあらゆる分野が重大な危機にさらされているというのに、日本の財界人が、ひたすらに軍事力による国防にしか考えの及ばない老政治家たちを支持しているというのは、実に不思議である。日本の経営者たちは、再軍備に投資される資金の波及効果が日本の経済に与える利益という点から、軍事力中心の国防計画におおいに期待しているのだろうというくらいは予想できる。でも、背後からしのびよって来るエネルギー危機によって日本経済が麻痺してしまったら、元も子も失ってしまうのだ。
 そして太平洋戦争の教訓は、いくら飛行機を作り戦艦をそろえてみても、それを動かす石油や潤滑油がない限り、まったく戦力にもなり得なかったことをはっきりと教えているではないか。総力戦と呼ばれながら、戦争準備のためにさえ日本は石油を確保することもなく、無謀にもたった七百万トンという石油だけを頼りにして第二次大戦に突入し、すぐに石油不足に直面したのだった。おかげで飛行機のガソリンには松根油を入れ、それでも足りなくて、遂には片道の燃料で出撃するという特攻隊戦術を考え出したのであった。世界中にその名を知られている「カミカゼ」は、若者の英雄的な犠牲精神によってあみ出された効果的な戦術である以前に、ガソリン不足が生み出した皮肉の策であり、石油が生んだ一つの悲劇の典型なのである。また史上最大といわれた戦艦大和は、ナタネ油入りの重油をたいて走らなければならなかったので、帝国海軍の虎の子として世界最高の内容を誇っていたにもかかわらず、あっけない最後をとげてしまったのであった。
 このように、石油に対する正しい評価のできなかった日本は、相当な規模の陸海軍をもっていたにもかかわらず、第二次世界大戦において惨敗した。これとまったく同じ状況にあるのが、今の日本の経済界である。
 目の前に大きな試練が近づいているというのに、エネルギー源としての石油に対する認識が欠けたままなのだ。石油問題の重要性に対して認識能力がないのは財界ばかりでなく、日本の持っている体質なのだろうか。石油危機に対する日本人の問題意識は、現在も戦前も少しも変っていない。むしろ経済規模と石油に対する依存度からすると、今の方が甘いとさえいえるだろう。
 戦前の日本の石油資源は、ほとんどアメリカとオランダの会社に依存していた。日本石油会社を通じて進出していたスタンダード・オイル・オブ・ニュー・ジャージーと日の出商会を窓口にしていたロイヤル・ダッチ・シェルがそれである。
 さて、太平洋戦争の始まる数週間前のことであった。清水憲兵隊長に指揮された総勢八百人の憲兵隊と特高警察は横浜にあった日の出商会を急襲して、さまざまな書類を押収し、オランダ人のマネージャー、ウーリー氏を逮捕した。その理由は、日の出商会が日本海軍の燃料状況を逐一スパイしていたからだという。しかしこのオランダ系の会社がスパイする必要がどこにあっただろうか。海軍の石油と潤滑油は、全部この日の出商会を通じて購入されていたのだから、日本海軍の燃料状況ははじめから全部分っていたのだ。
 このようなわけで、日本は戦争の始まる直前まで、戦略上大切な石油資源の確保さえできておらず、船や飛行機の保有量だけを数えてそれを軍事力だと評価して、無謀な戦争に突入したのだった。もっともいざとなれば、インドネシアを押え、ロイヤル・ダッチ・シェルの油田施設を横どりしてしまえばいいと考えて、パレンバンやバリクパパンへ落下傘部隊を降下させたり、奇襲上陸を試みたのだし、中国東北部(満州)の油母頁岩から石油をしぼり出そうと考えていたのであった。しかし結局は石油が命とりになって、軍事力を誇った大日本帝国は撃滅されてしまった。
 同じような運命が、経済大国を誇る日本の将来に待ち構えていないなどと、いったい誰が保証できるだろうか。


一億総野垂れ死に

 日本の石油資源は、八割が中東諸国からの供給に依存しているそれにペルシャ湾を中心にした地域は世界の貯蔵庫であるとともに、不気味な火薬庫としてその不安定な政治情勢の中で揺れ動いている。現にイスラエルとアラブ諸国の対立は、いつ火を吹くか分らないままである。
 こういったことから、日本の石油資源が中東依存一辺倒であることの危険性が認識されて、西部シベリアのチューメン油田の石油を大量に輸入する話し合いが、日本とソビエトの間でまとめられた。その具体的な内容は、イルクーツクからナホトカまでの約四千三百キロ(東京・香港間の距離)のパイプラインを建設するために必要な約六億ドルの資金を日本がバンクローン(銀行借款)の形で供与し、その見返りとして年間二千五百万トンくらいのソビエト石油の供給をうけるというものである。この計画を推進する日ソ経済委員会の石油問題委員会には、日本の財界の主要メンバーが顔を連ねている。
 こうして日本経済の安全を確保するために、ソビエト石油の購入を目的としたパイプラインの設置に日本が本格的に身をのりだすことを決定した段階で、一つの重要な対外政策上の転換が行なわれたのであった。財界人自身がまだ自覚していないことなのだが、それは、戦前の帝国陸軍が図式に従って、日本の経営者の支持を背景に推進されてきた、ソビエトを仮想敵国として作りあげられている防術理論が完全にここで破産したことである。敵国にエネルギー源の供給を依存しながら敵対関係を続けるという馬鹿げた過ちを、帝国陸軍の参謀本部は犯して、国家の安全を台なしにしてしまったが、同じ過ちを日本の財界は繰り返すことはできない。
 この意味で、日本のエネルギーの供給国か仮想敵国かという二者択一に当って、日本の経済界が文句なしにエネルギーの方に支持を与えたのだから、政府がおし進めているソビエトを仮想敵国として作られた防術計画は破産したのである。迫りつつある石油危機に備えて、より大きな国家の安全を手に入れるために、単なる軍事的国防計画という視野の狭い考えを、財界人自らの手で無自覚のうちに破産宣言してしまったことは、日本の将来にとって喜ぶべきだろう。
 また、その代りといったら変だが、新たに中国や北朝鮮を仮想敵国に仕立てあげようとたくらんでも無駄である。近い将来、ソ連の石油と同じ経過をたどって、これもまた行きづまってしまうであろうことは目に見えているからである。なによりも、資源大国である中国は、世界でも指折りの原料供給国として、近い将来、国際経済の中に登場してくると予想される。そして中国経済の発展は、鉄、非鉄金属、化石燃料といった資源の供給源を求めて懸命になっている日本にとって、この上もない大きな支えになることは分かりきっている。
 こうしたことから、仮想敵国という目に見えない影におびえて、年間一兆円もの莫大な資金を使って、すでに破産宣言をうけている防衛計画を推進しようとすることは馬鹿げている。破産しているものに未練を残すことは、日本の安全にとって何の役に立たないばかりでなく、むしろ害になるのだ。この点で日本の財界人たちは、ある日総会を開いて、この破産宣告を国民の前で再確認すべきであろう。
 重ねていうが、軍事的な国防論は、死の商人を太らせ、日本の経済を軍需産業を中心とした臨戦体制の中にひきずりこみ、しかも日本経済の体質を、エネルギー危機さえのりこえられないような弱体なものにするばかりである。これは一億人の国民を不幸にする道なのだ。たとえいくら軍備を整えたところで、それは戦争ゴッコにはなっても、日本の安全は損われる一方といえる。
 なぜなら、仮想敵国に指名された国は、そんな手前勝手ないじわるをする日本に対して資源の供給することを断わるだろうし、軍事主義への傾斜が強まるに従って、それに比例して東京湾や大阪湾のあちこちで、タンカーの大爆発が続発するばかりだからである。もちろんマラッカ海峡だって例外ではない。こうして日本は、ついに石油の供給不足と石油による国土汚染によって、どうにも動きがとれなくなってしまうのだ。
 これが、すでに破産宣告されている第四次防衛計画が、完全に解消させられないで、ズルズルと延命工作をさせられた場合の日本の未来図であり、その具体的な内容は、エネルギー危機によって経済活動が完全に麻痺してしまう「一億総野垂れ死に」の地獄絵図なのである。


日本の挑戦

 これまで見てきたようなことから、軍事力を背景にした日本の安全に関する議論は、これからの日本の生きる道にとって何ら建設的な役割を果しえないことが分った。そして日本の経済体制が、永久に加工貿易を基盤にして、世界に向けて開放的であるという性格を持たざるをえない以上、自国の周辺に仮想敵国を作って一つの閉鎖的な防衛体制を確立するなどという馬鹿げた考えは、博物館行きにした方がいいということも理解できたはずだ。
 こうしてみると、現在の日本にとって最も大切なことは、わが国が国防の名の下に行なっている個々の問題を解釈しなおしてみることではなく、それ以上に、日本が国家として当然行なっているべきなのに、まだ取りかかっていない問題はなにかと捜してみることだということも明らかだろう。
 そして日本の安全と繁栄にとって、最も優先度の高いものは何だろうと考えてみると、日本がこれから生きていくにあたって、どうしても放棄できないいくつかの基本的な問題の中で、とりあえず数年後にさし迫っている石油危機の問題をとりあげないわけにはいかない。そして石油だけに限らず、あらゆる資源は日本が二一世紀に生き残るためには、今後の世界状勢の変化にかかわりなく必要不可欠なのだから、資源問題を国の基本政策の筆頭におくことは、検討していいテーマではないかと思われる。そして資源の安定供給を保証する唯一の条件は、日本がどこの国とも仲よくやって平和的な関係を維持することなのだということからも、積極的な平和外交を展開していく姿勢を確保することも重要である。
 また、日本という運命共同体の中で生きている一億人の人間のことを考えると祖国を滅亡させて、これらの人びとの幸福と、健康な生活を奪い去ってしまわないためにも、すでに現在行きづまりを見せている都市の過密化や公害の問題を一つ一つ丁寧に解決していくのも、さし迫った問題といえる。あるいは、他にかけがえのない日本を、いつまでも、豊かさに満ちた活力のある国であるようにするために、すでに還暦を過ぎた老人たちが一〇年、二〇年と国民の上に君臨して、そのエゴを貫いているといった老人支配体制の若がえりを試みることも、国家の安全という意味で大きな意義をもっている。
 さて、それでは優先度の低いものはというと、それは何もしなくともすませられるもの、あるいはまたそれを中止したとしてもさしたる変化がなく、むしろそこに投入されている資金や労働力が最優先のものに移っていくことによって、全体にとって大きなプラスになる可能性をもっているもののことである。
 日本の真の安全にとって最も関係のないものは、すでに破産宣言されていることがはっきりしている軍事力を背景にした防衛政策であることはいうまでもない。そして放棄されるべきリストの筆頭として、具体的に指摘されている第四次防衛計画は、迅速に中止されるべきである。当然のこととして、五兆円という資金は、日本の真の安全と切っても切りはなせない資源、都市、国土計画、あるいは公害といった問題に重点的に再配分されるべきだ。
 それをやり抜くだけの真の勇気を持ち合わせない場合、「一億総野垂れ死に」はここ数年のうちに現実の問題として、われわれ日本人の目の前に登場して、情け容赦なくその猛威をふるうことだろう。
 こうして、一億人の日本人が総力を結集して立ち向わなければならない課題は、われわれの手の届くところにあることも分った。そして何をなすべきかという問題意識と目標がはっきりしていれば、世代の断絶を埋め、思想の違いをのりこえて、日本人は手をつないで協力できるはずであり、そこにはまた新しい闘志を生み出す原動力としての希望も発見できるのである。
 それに加えて、目標を設定して、それに向って挑戦していくことは、われわれ日本人の特技が最大限に発揮できる領域でもある。明日の日本の安全のために、今ここで挑戦しなければ民族が自滅してしまう課題が目の前に示されているとしたら、今日こそそれに向って勇気をもって取りくむために、最初の第一歩を踏み出さなければならない。迫り来る試練を前にして、日本民族の未来をかけ、一億人の総意を結集するその時こそ、光栄に満ちた挑戦の日の夜明けになるのである。


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