<<補説>> 石油をめぐる国際政治

 現代社会の繁栄は、安定したエネルギーの供給によって初めて保証される、という点については、もはや誰も否定しないであろう。 地上におけるエネルギー源の六〇パーセント以上を占めている石油資源は、二〇世紀という時代そのものを動かしている最も基本的な生命力であり、石油がなくては一日も社会生活を維持できないという意味で、現代社会の血液であることもはっきりしている。 私は、この石油という決定的な重要性をもつエネルギー源の主役を取り扱う専門的な立場から、私の祖国である日本の経済社会の健康状態について観察し判断したことをこの本にまとめてきた。そして結論として得たことは、日本自身、非常に深刻な症状を至るところで見せており、このまま放置しておいたら命取りになる日がそれほど遠くないうちにやって来る、という確信であった。
 それだけに、使いふるされたことばだが「明日では遅すぎる」と思いながら、毎日が過ぎ去っていくのをむなしい気持で見送っていたのである。
 日本をめぐる世界の石油情勢は、いま大きく変化しつつある。その変化とは何であるかを理解するために、七二年一月以後、過去一年間に起こった石油と結びついた出来事について、簡単な解説を加えながら、クロニクル風に補っておきたい。


米中ソ日の角逐(72年1〜2月)

 世界の石油問題は、ペルシャ湾と北アフリカを中心にして大きく流動していたが、それに対する不安要因として一枚加わっているのが、通貨危機の様相を呈して世界経済に動揺を与えているアメリカドルであった。
 こういった情況下に、スイスのジュネーブで進められていた石油輪出国機構(OPEC)と国際石油資本の交渉が七二年一月二〇日にまとまった。この交渉でOPEC側が要求していた八・五パーセントの石油価格値上げと、ドルの価値の減少に見合ったスライド値上げが受け入れられたことにより、産油国は年間七億ドルの増収を手に入れた。
 この交渉が進められていた一月一〇日、ミスター・五パーセントとして石油史上に有名なトルコ生れのN・グルベンキアンがカンヌの病院で静かに息をひきとった。七五年間の生涯は、ヨーロッパと石油の歴史を飾る波乱にみちたものであったが、これは中東石油に関する古い時代の終りを告げるものだという意味で、印象深い訃報であった。
 アラブ人とイラン人は、伝統的にも仲が良くないが、七一年一一月二九日に、イランがペルシャ湾にあるオーマン領とされてきた二つの無人島を占拠したことは、この対立に油をそそぐ役目をした。イラン側の行為の背景には、石油権益を押えようという意図がはっきりと現われているが、これに対してアラブ諸国きっての急進主義者で「アラブの暴れん坊」という異名をもつリビアのカダフィ革命議会議長が、抗議の行動を起こして注目をあびている。
 そしてこのイランの侵略の原因は、スエズ運河以東からの軍事撤退政策をとっている英国政府の責任であるとして、カダフィ議長は、リビア国内でも有数な油田で英国ブリティッシュ・ペトロレアム会社が開発しているサリル油田の国有化を断行した。イギリス政府は、約六億ドルにのぼる石油資産の国有化に対する報復措置として、イングランド・
 バンクにあるシリア政府預金を凍結するとともに、国際司法裁判所に提訴した。 また一月末にソ連の経済使節団が米国を訪問して、ホワイトハウスで会談を進めた。モーリス・スタンス内務長官が発表したところによると、ソ連は、アメリカが、石油開発に関するノウハウや資材を提供するなら、シベリアの資源開発で共同事業を起こしてアメリカに天然ガスを輸出する用意があると申し入れた。これは、東京で話し合いが進められているチューメン油田の開発とシベリア横断パイプラインに対する一〇億ドルのバンクローン提供の交渉を牽制するためと思われる節もある。しかし、アメリカ自体がここに来てエネルギー危機に見舞われている時でもあり、成り行きによっては、この米ソの話し合いは世界政治の今後に大きな影響をもつと考えられる。それを決定的にするのは、五月のニクソン訪ソであろうと考えられた。
 二月には東京で第五回日ソ経済会議がおこなわれて、シベリアのチューメン油田開発問題を中心に活発な話しあいがおこなわれた。建設予定のイルクーツクとナホトカを結ぶ大口径パイプラインは、中ソ国境地帯を通るきわめて軍事的・経済的に重要性をもつものであり、中ソ関係が悪化している折りから、中国は動揺の色をかくそうとしていない。
 そのこともあって、中国政府は一七日のニクソン訪中を前に、アメリカ側と秘密裡に中国の石油資源開発について話し合いをもっており、アメリカの大手石油資本があわただしく動いている。おそらくニクソン訪中を通じて、石油開発についての協力体制のお膳だてが始まるものと思われた。このような情勢については、ほとんどマスコミの注意を集めないまま、ニクソンは北京訪問に旅立っていった。
 また東ヨーロッパのコメコンのメンバーである七カ国は、七一年から七五年にかけて石油共同開発のために協力体制を整える準備をしていたが、次のような具体案がまとまった。まず地質調査部門の統一組織を作って、東独、ポーランド、西ロシア、カルパチア、準カルパチアを共同開発地域に指定することを決めた。また合同で黒海とバルト海地域を開発するために、深海ボーリング用のリグを共同研究することが決定した。


ソ連外交と石油戦略(3〜4月)

 七二年初めにジュネーブでまとまったOPECと石油会社の間の会談は、その後第二ラウンドを迎え、石油産出国政府が自国内で操業する石油会社に資本参加して経営権の一部を手に入れるという要求をつきつけ、大いに難航していた。一時は、石油資本側がこの要求を受け入れないならば二〇パーセントの強制接収もやむをえないという強行意見も出たが、原則的に資本参加を認めるという大手石油会社側の態度により一応まとまりを見せ、具体的な内容の検討に入った。
 最近デンマーク領北海で日産二千トンの規模の油田が発見され、ブームに湧いている北海の石油開発は、イギリス領鉱区の売り出しによって世界のオイルマンたちの注目を集めた。その中で特筆できるのは、イラン国営石油会社がブリティッシュ・ペトロレアムと組んで鉱区を獲得したことである。これは、イランの石油資源をイギリスの会社が開発するのとひきかえに、今後イランが直接イギリスのマーケットに参加するための足場固めと見られた。イギリス領北海鉱区の入札には、世界の一流石油会社がほとんど参加しているが、日本系はただ一社も顔を出していない。それは鉱区評価に対する情報能力がないせいと思われる。
 マレーシアとインドネシアの両国政府は、マラッカ海峡が国際法による二〇キロの領海水域に属しているので、吃水一八メートル以上で二〇万トンを越すタンカーの航行を制限する権利がある、と声明を発表した。これに対して、日本、ソ連、米国などは国際水域説をうち出してこれに反対を表明したのに対して、中国は内海説を主張してマレーシアとインドネシアの立場を支持した。
 また中国政府は、領海三百キロ説を主張する南米諸国を支持し、中国もこれに賛成するという公式見解を打ち出した。これは、台湾や東シナ海地域の石油開発に深い関連をもっており、将来への重要な布石と考えられる。
 また西シベリアのチューメン油田の石油開発計画に対する日本側の足並みの乱れは、ソ連政府に大きな動揺を与えた。それでなくともソ連は、急テンポで進展している米中関係の改善と、それに揺さぶられている日本の態度に不安と焦りを感じていたからである。
 日本側の不一致の理由は、チューメン石油の硫黄含有量が一パーセント以上だからであると伝えられている。これは、国策としていかに石油資源を確保していくか、という面で考え方がまとまっていない日本の内情を物語っているものである。それとともに、通産省がすでに開発されている海外油田を購入するための基礎調査をおこなっていると明らかにした。このように、何もまだ準備がまとまっていない段階でうかつに情報を公表することに対して世界のオイルマンたちの間では軽率な態度だとして一様に驚きの表情をもって迎えられた。
 アメリカのベトナム戦争に対するエスカレートは、いよいよ激しさを増し、ニクソンがもっぱら人気稼ぎの思いつき外交に終始している時、ソビエトは中東に対して強力な外交戦術を展開していた。
 ソ連は、イラクの北ルマイラ油田の開発に対して資金、機械類とともに多数の技術者を派遣して援助をして来たが、産油に成功し、四月四日、この石油がペルシャ湾のファオ港から積み出された。タンカーの行く先は明らかにされていないが、東独かソビエトの港と推定された。
 この開設式に臨んだコスイギン首相は「友好協力条約」を調印するとともにスタートのセレモニーの席で「ソ連はアラブ諸国の国家目標達成のためにあらゆる協力を惜しまない。またアラブ諸国の資源に対する主権を尊重するとともに、真の協力者として末長く友好関係を築きあげるために、このルマイラ油田をひとつの代表的な例とする覚悟である」と演説した。
 これをみても、中東に対する関心が並々でないものであり、ソ連一流といわれる石油外交が決してお座なりなものではなく、日本などとても足もとにも及ばないということがはっきり分る。
 また四月一九日のモスクワにおける会談から帰って来たE・ブッツ農務長官は「アメリカはソ連との間に大計画を成立させるであろう」と述べたが、ほとんど時を同じくして、ホワイトハウスのエネルギー委員会のフラナガン長官が「ソ連はアメリカのテクノロジーと資本を必要としているので協力したい」と発言した。これによって五月のニクソン訪ソと石油資源の関係が輪郭を現わし始めたと見るむきもある。
 中東諸国では石油増産を競い合っているが、クウェート議会は、石油資源を枯渇から守るために日産四〇万トン以上は生産しないように制限するという法案を提出した。


石油が狙いのニクソン訪ソ(5〜6月)

 訪ソの結果によっては世界情勢が大きく動くであろう、という予想のなかを、ニクソンは五月二〇日モスクワヘの旅に出発し、二二日には早くもエネルギー問題について話し合いをおこなった。
 その直後、エルパソ、テネコといったアメリカの石油会社は、ソビエトとの間の約六〇億ドルにのぼる総合開発計画の具体的な内容を発表した。それは西シベリアのオビ川の流域で米ソが共同で、天然ガス開発事業を起こし、三千キロにわたる超大口径のパイプラインをシベリアからバルト海沿岸まで建設し、そこに天然ガス液化装置と港湾施設を作る、ということを骨子としている。その内容の中には、アメリカ政府は一二隻の液化天然ガス用タンカー建造のために必要な一二億ドルの資金に対して財政措置を施す、という考えも含まれていて、ニクソンがモスクワでどんな話を進めたかについて予想させる材料を豊富に含んでいる。
 一方、タンカー運賃が軟化したために、イラク政府とイラク石油会社の関係が対立化し、深刻な問題となり始めた。それはマンモス・タンカーを利用すると、イラク石油をシリアを経由するパイプラインで地中海渡しの値段で買うより、クウェートやイランの石油をペルシャ湾仕切り値で買う方が、トン当り一ドル八○セントも安いことと、欧米資本に支配されているイラク石油会社が、意識的に、生産調整というやり方でサボタージュを続けているためである。特に、急進的な政策をかかげてソ連に接近を深めているイラク政府を牽制するためといわれている。
 なにしろイラクの国家収入の五〇パーセント以上は、この会社が支払う利権料によっているのだから、このサボタージュは大きな効力を持っている。現にイラク政府は、年間三億ドルほど収入を失うといって騒ぎたてているのだ。
 そして六月一日、ついにイラク政府はイラク石油会社を国有化すると宣言し、世の注目を集めたのであった。同時にシリア政府も、自国領にあるパイプラインとイラク石油会社の資産を国有化してしまった。
 日本国内では、無能無策といわれ、国民にすっかりあいそをつかされた佐藤内閣の末期的低迷状態が続いていた。マスコミは、三角大福などというまったく低次元な発想でしかこの問題をとらえることができず、競馬の予想屋よろしく、次期首相の人選にまつわる利権争いをめぐっての自民党の派閥争いにまきこまれて騒ぎたてていた。
 シベリアに眠る莫大な石油の利権を手に入れたいと考えていた財界の主流は、この話を具体化するには、次期首相に田中通産大臣をかつぎ出すに限ると判断し、ひそかに工作を進めていた。こうして、チューメン油田の利権と次期政権担当者を財界の期待する方向で決定する下準備がほぼ完全に出来上がった段階で、財界と通産省の役人を中心に構成された官民合同のチューメン調査団が、ソビエトに向けて出発していった。
 またリビア政府は、同国の石油生産上昇率を年間七・五パーセントにおさえると発表した。これは先に行なわれたクウェートの生産制限に歩調を合わせたものである。


顕在化する石油危機(7〜8月)

 イラク北部のキルクーク油田を国有化したイラク政府は、その後、イラク石油会社の構成メンバーである国際石油資本側からの妨害によって、石油を販売の軌道に乗せることができないで苦境に立たされていた。国家予算を半分の三億ドルの規模にするとともに、アラブ諸国から一億四干万ドルの緊急借款をして経済危機をきりぬけようとしていた時、リビア政府は、イラク政府を支援するために自国の石油生産を大幅に切り下げることを決定した。
 これは、リビア政府自身も、イギリスの会社が開発した油田を接取してその販売ができないという共通の悩みをもっていたからである。このリビアの繋争中の石油に対して、ユーゴスラビアが買い取りの交渉を始めた。
 一方、すでに三カ月以上も続いている海員組合のストによって、日本国籍のタンカーがすべて止ってしまい、石油が入って来ないために日本国内は石油不足が目立ち始めた。国内における石油備蓄を怠って来たことも大きな要因となって、精油所の中には操業停止や短縮をするものが続出した。これは、従来からの通産省の行政指導の至らなさが災いしたものである。それにもかかわらず、長年この通産省に君臨して来たその責任者が自民党の派閥争いに勝って、田中内閣が発足した。その背景に何があったかという点を理解しないまま、日本のマスコミは自分の作り出した角サンブームに酔っていた。
 日本の関西電力も節電を強制したが、ニューヨークでも電力不足が目立ち始めた。その同じ時、マイアミビーチで開かれた民主党大会でマクガバンが大統領候補に指名されて、石油の輸入制限廃止をはじめ、幾つかの石油問題を公約として発表したが、最も注目をあびたのは、公害に対して積極的な発言をしたことである。
 またカリフォルニアのオクシデンタル石油のハンマー会長は、約三〇億ドルにのぼる石油開発に関する契約をソ連政府と結び、それに調印したと発表した。その直後、南カリフォルニア出身のニクソンも共和党の次期大統領候補の指名をうけ、石油資本をバックにした豊富な資金で選挙戦に臨むことになった。このニクソン大統領は、八月末にハワイで田中首相と中国問題を中心に話しあった。


田中訪中と中国の石油(9〜10月)

 八月末から北京を訪問していた日本の経済人訪中団は、中国最大の大慶油田から生産される低硫黄石油の輸入について中国政府と交渉した。そして、中国から石油が買えそうだという期待がそのまま田中訪中への地ならしをする行為となり、日中関係のその後に重要な役目を果すことになった。もっとも、これはこの使節団構成している財界人の顔ぶれが、いずれも中国で石油開発が盛んに行なわれるようになった場合、そのおこぼれをもらって商売をすることができる鉄鋼や精油、あるいは機械、造船といった部門を代表していることからも、おそらくここに集まっている人たちが田中元通産大臣を首相の地位につけた原動力になっていたと考えられ、田中訪中劇の筋書きの全貌が明らかになった。
 それだけに、次に予想されることは、日本が中東から運んでくる高硫黄の石油を、中国南部に位置する上海や広州の工業地帯に供給するというアイディアであろう。そしてその代りに、日本に近い大慶油田や渤海湾から低硫黄の中国石油をもらうという日本財界側に読みがあるのではないかと思われる。しかし、果たしてこの虫のよい単純な考えに中国側がのって来るほど石油をめぐる世界情勢は甘くないという意味で、今後の成り行きが注目されている。
 また日本は、樺太周辺の石油にも強い関心を示しているが、それはソ連政府が公式発表した樺太には五〇億トンの石油が水深二百メートル以内の大陸棚に存在している、という説に刺激されたものである。
 日本国内では、田中首相が書いたといわれる「日本列島改造論」をめぐって大騒ぎしているが、これは専門家の目から見ると、全くお粗末な内容でしかないといわれている。おそらくは、石油利権をめぐる日本財界の投機的な動きを隠すために意識的に操作された煙幕として用意されたのではないかと考える人たちがいる。なぜなら、このアイディアは田中氏白身のものではなく、通産省の一機関である地質調査所の内部ですでに一〇年以上も前から話題にされて来たものであることは周知の事実だからである。それを通産大臣であった田中氏が自分の名義で発表したのであり、地質専門家の間では「アイディア借用で首相になる法」という本を書く人が現われるはずだ、ともっぱら噂されているそうである。
 フィリピンでは、マルコス大統領が戒厳令をしき、新聞や政党の活動を制限した。それと同時に、外国の石油資本がフィリピン領内で石油開発を希望する場合には積極的に奨励する政策を行なうと発表した。
 また、四年間という長い期間にわたって難航していた石油産出国の経営参加に関する交渉が成立した。
 アラブ諸国が国際石油資本から獲得した経営参加の内容は、予想を上まわって、アラブ産油国側に非常に有利なものであった。以下のような段階で、一九八三年にはアラブ諸国が石油会社の経営権の過半数を手に入れることになっているが、この決定は石油史上画期的な意味をもつものである。一九七三年二五%、七九年三〇%、八〇年三五%、八一年四〇%、八二年四五%、八三年五一%。
 サウジアラビアのヤマニ石油大臣は、アメリカ政府に次のような申し入れをした。米国が将来に予想されている石油危機を回避し、しかもドル流出による国際収支の赤字増加を防ぐために思い切った石油政策を推進するというのなら石油資源の供給面で大きな余裕を持っているサウジアラビアは協力を惜しまない。具体的には、米国がサウジアラビアの石油に対して輸入制限のわくをはずすならば、サウジ政府は米国が支払う石油の輸入代金をすべてアメリカ国内に再投資する。対象は精油所並びにサービス・ステーション網の整備が中心になるであろう。これは、ドルの海外流出によって米国がドル不足に陥ることを予防するとともに、サウジアラビアにとっても、安定した石油供給地と安心して投資できる新しい金融市場を獲得することを意味している。もし合衆国政府が賛成すれば、これは共存共栄の新しいやり方として世界に誇れるものであると確信する――。
 このような内容の申し入れを受けた米国政府と石油業界は、予想もしていなかったような余りにも大胆な発想であるために、初めは唖然としていたが、冷静になるとともに大議論が始まった。


米ソの結託(11〜12月)

 世界の石油問題とエネルギー資源の将来という点で、サウジアラビアのヤマニ石油相が米国政府に申し入れたアイディアは、大きな波紋を投げかけた。しかし余りにも画期的でありすぎたために、ニクソン政権が受け入れる余地がなかった。アメリカ政府は、その影響が国際経済に与える以上に米国の国策の基本に関係してくるものであるから受け入れることはできない、と正式に態度を決めた。もちろん国際世論に対する慎重な配慮があったためと思われる。
 とりわけ、フランス人が厳しい態度でこの問題に臨み、激しく非難をくりかえした。フランスの主張は、サウジアラビアとアメリカという世界最大の石油余剰国と不足国が相互に便宜をはかることにより、米国以外の国をサウジアラビアからしめ出す意図をもったものであるという内容で、これは伝統的に中東の石油権益獲得競争を続けて来たフランスにとっては、黙認できないといういら立ちが読みとれる。
 テキサス・イースタン油送会社やテネコという天然ガスを扱う会社で構成しているコンソリチウムが、ソ連の天然ガスを今後二五年にわたって米国東海岸の市場に供給する総額百億ドルの計画が、ソビエト政府と合意に達したと発表した。これは、ニクソン大統領のモスクワ訪問がもたらした成果のひとつであった。
 この報らせに対して、一〇月末にモスクワで開かれた「石油と天然ガスの博覧会」に参加した大量の米国石油関連業者は、両手をあげて歓迎の意を表わした。それは、このコンソリチウムのシベリア進出が、米国資本がソ連圏内部で行なう一連の大事業の第一弾となり、ソ連経済の中枢部にくさびをうちこむことになると判断したからである。一方、ソ連側にもこれを機会にアメリカをシベリアにさそいこむとともに、自分たちは中東により積極的に石油外交を展開していく足場が固まったという読みがあるものと思われる。
 なお、米国における石油危機は、冬に入って石油と天然ガスの需要が増加するとともに急激に深刻化した。特にアメリカにおけるオイル・ステートの異名をもつテキサス州も、この石油危機をさけることができず、州都のオースチン市では、暖房用の燃料が不足して大学が休校になったのをはじめ、コロラド州では市がタンクローリー車を出して軽油を緊急に市民に配った。またニューヨーク空港では、ジェット旅客機に十分な給油ができず、燃料庫がほとんどからのまま出発して、次の空港で給油をうけなければならない飛行機が続出した。
 OPEC諸国は、非常用積み立て金として二億二干万ドルをプールしたが、これは今後における国有化や値上げ交渉の際のバーゲニング・パワーとして大きな意味をもってくるといわれている。


日米石油競争の開始(73年1〜3月)

 中国石油の買いつけと、渤海湾をはじめとした中国における石油開発の動きに多大の関心をもつ日本の財界筋は、しきりに北京を訪問して、中国政府の意向を打診していた。
 それに対して周恩来首相は、中国の石油資源開発に外国の資金を受け入れたり、資本提携をする考えは全くないと表明。これは、中国が国策としている自力更生の路線からすると当然なことであるし、革命前の、日本をはじめとした列強の資源収奪の手痛い教訓が生きているので自主開発以外考えられないが、そこは日本の財界である。中国が閉ざそうとする扉をこじあけ、鉄パイプや工作機械を売りこもうと秘策をねっている。こうした中で、中国政府は、香港系ルートや国営の貿易公司を通じて世界中で石油開発用の機械器具を買い集めている。
 一九七三年に入って、米国はエネルギー不安に対する危機感が高まって、合衆国議会における討論の中心も石油問題に焦点が移っている。
 また待望のベトナム和平も、交渉が幾度も中断しながらもようやくまとまって、一月二七日に休戦が成立した。そしてポスト・ベトナムの第一番目に来る課題としてアメリカが特に深い関心を示しているのは、石油の宝庫であるとともに、イスラエルとアラブの根づよい対立が続き、しかもソ連がたくみに背後から介入することに成功している中東問題であることは周知の事実である。なぜならば、中東問題をいかにたくみに処理し難局をきりぬけていくかが、アメリカの将来にとってきわめて大きな意味をもっているからである。それでなくとも米国の中東石油に対する依存率は高まる一方であり、簡単な計算をしてみると、米国は一九八〇年には総額七百億ドルの石油を一年問に輸入せねばならず、その過半数が中東諸国から供給をうけるものと、予想されている。
 この意味で、石油獲得競争における日米間の利害の対立は、これからいよいよ深刻なものになるであろうと考えられる。
 このような今後の世界情勢を見通しながら、イランのA・ホベイダ首相は、イランは七三年三月から始まる第五次五カ年計画によって、七七年には現在の二倍に相当する日産一一〇万トンの石油生産目標を達成する予定である、と明らかにした。それとともに、もしこの目標が達成されない場合には、七九年に予定されているイラン石油会社との契約更新に際して、イラン独自の利益の立場に立った考え方で行動すると強調した。
 これは、七二年六月にシャーが国際石油資本との協調を力説し、それ以後イランだけはアラブ石油産出諸国とはまったく異なる路線を歩んできたにもかかわらず、再び国際石油資本に対して厳しく出る態度を取り始めたことを示している。その背景と考えられるのは、イランがアラブ諸国を軽視して来たにもかかわらず、ここに来てアラブ産油国が国際石油資本から二五パーセントの資本参加という予想以上の成果をかちとったのを見て、多分に動揺しているためである。あたかもこの点を裏づけるかのように、イランはもっと権限を必要としているというパーレビ皇帝の発言があったと報道された。
 またイラン以外の中東諸国の動きも活発で、クウェート、サウジアラビア、リビア、アルジェリア、バーレン、イラクの六カ国は、五億ドルを出資して共同でアラブ・タンカー株式会社を設立した。これは、国際石油資本に対抗して、産油国が独自のマーケッティングを始めたという意味で注目に値する。
 国有化したことによって、イラク石油会社と繋争中のイラク政府は、その石油の売りさばきに難航して来た。それでもエジプトとバーター取引きで二百万トン、スペインと機械器具との交換という条件で石油輸出の商談をまとめてきたイラク政府はアメリカとも交渉を始めた。それは、イラク石油と交換に六台のボーイング七〇七が欲しいという内容である。
 さて、六九年にアラスカのアンカレッジで行なわれたノース・スロープ油田の鉱区の国際入札は、総額一〇億ドルに近いボーナスがついて、史上最大の石油相場と騒がれたものであった。しかし、二月に行なわれたメキシコ湾のルイジアナ沖の鉱区は、そのボーナス額が二二億五千万ドルという超高値を呼び、今さらながら、石油会社の資本力とアメリカがいかに石油に渇えているかということをはっきりと示した。
 久し振りに日本の話題になるが、通産省はすでに開発されている油田を購入するという、いたって近視眼的な石油対応策を発表したが、日本の経済界を中心にしたコンソリチウムは、英国のブリティッシュ・ペトロレアム会社からアブダビ海洋石油会社の持っている鉱区の三〇パーセントを七億八千万ドルという高値で買いとった。これは、日本自身が独力で新しい油田を発見する能力がまったくないために、仕方のないやり方だといえるが、余りにも安易な国家資金の使い方だと一部では論じられている。
 しかし、こんな愚かしいやり方であったにしても石油をなんとか確保しなければならないという気運が、財界や政府の内部に芽生えて来たという点は、評価しなければならないであろう。これに対して、鉱区を売ったブリティッシュ・ペトロレアム会社の主脳部は、この資金で北海の石油開発に挑戦し、新しい大油田を発見する予定だと発表した。
 没落の道をたどるアメリカドルは、米国の石油輸入の増加によって、いよいよ世界に氾濫を続け価値を低下させている。そして第一回目の切り下げから、一四ヶ月目で、早くも米国政府は第二回目の一〇パーセント切り下げを発表した。これによって円は、相対的に再び高くなった。しかし、円が高くなっても石油価格は自動的に上昇するので少しも安くならないし、それ以上に、日本の将来にとって悪材料になるのは、円が一パーセント上がることによって輸出競争力の実質が二パーセント落ちることが計量経済学的な分析によってはっきりしていることである。この点で、内政の行きづまりから国内に漲っている悪性インフレとともに、日本経済の行く手に立ちはだかる難問として今後に残された解決しなければならない課題である。
 このように、日本の将来には幾多の難関が待ちかまえているが、その中でもとりわけ深刻なのは、石油を中心にしたエネルギー問題であることは今さら論ずるまでもない。しかし、エネルギー危機は日本だけでなく、わが国の最大の競争相手であるアメリカ自身きわめて深刻にその影響を受け始めている。
 それを意識したかのように、世界の石油問題についての主導権を手に入れている石油輸出国機構(OPEC)は、三月一四日にウィーンで特別会議を開催して、今後の長期的な石油政策を検討し直し、有効な戦略の練り上げに着手した。そして、今後石油の確保で悩み続けるであろう大量石油消費国に挑戦するかのように、会談の中心テーマが「世界を覆う石油危機」というのだから、まったく皮肉なことである。
 こうして、世界政治は過去五〇年がそうであったように、今後の三〇年間も、石油資源とともに目まぐるしく流動していこうとしているのである。


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