『理は利よりも強し』


第5章・アメリカの対日強硬派の虚実




バブル崩壊後の日本異質論者たち
 二十一世紀に向かって世界は動いているし、ベルリンの壁の崩壊とソ連の解体によって、世界政治を考える基準体系が大きく変わり、崩壊した旧秩序に代わるものを構築するためにも、新時代にふさわしい発想と人材が求められている。しかも、新時代に 有効なものとして期待されるのは、十九世紀から二十世紀にかけての時代を支配した、国民国家を基盤にした国益中心の思考ではない。経済と情報の面ではボーダーレスでも、政治と文化の面ではローカルの特性を持つ、多様性に支えられた発想が決め手になるだろう。
 一九八〇年代の日米関係の中心課題は、閉鎖的な日本の市場と激しい対米輸出であり、日本は アンフェア(卑劣)だと非難されたし、日本人はそれをアメリカの圧力と空洞化の反映と考え、二十一世紀が日本の時代になる前ぶれだと誤解した。
 日本が経済大国だと胸を張って摩擦が高まり、その反動の中からリビジョニストが台頭 (1)し、経済面では日本バッシングが盛り上がった。
 『日本・支配者は誰か?のチャルマーズ・ジョンソン、『日米逆転』のクライド・プレストウィッツ、『日本封じ込め』のジェームズ・ファローズ、『日本・権力構造の謎』のカレル・ヴァン・ウォルフレンの四人が、在来の日本観の修正を強調した本を書き、日本叩きのリビジョニスト四天王と言われた。
 それに対し日本人の適切な対応が欠けたので、論理的な対決も反批判も効果的に行われず、日本側は批判と攻撃の波浪で洗われた。
 だが、バブル経済の破綻で日本が低迷してしまい、一九九〇年代になると懸案は経済ではなく、米軍基地の関係で沖縄問題に移行し、極東の安全保障が優先課題になった。そして、食糧危機で政治破綻に直面した北朝鮮や、金融破綻の時限爆弾を抱え込んだまま、抜本的対策のない無能な日本政府のせいで、北東アジアに新低気圧が誕生しかけている。
 こんな状況に日本が立ち至っている時に、リビジョニストは何を考えているだろうか。 そう思っていた折も折、サンディエゴで「技術に関しての日本の経営、その政策と実 践」という研修会が開かれ、最初の晩に会員たちのパーティがあるので、それに参加したらいかがという招待状が、人類学者のシーラ(Sheila K. Johnson)から届いた。
 彼女はカリフォルニア大学サンディエゴ校(USCD)の名誉教授として、リビジョニストの総大将(グル)になって行動しているチャルマーズ・ジョンソンの夫人であり、アメリカ人の対日感情を分析した『アメリカ人の日本観』(サイマル出版会)の著者である。そこで彼女に電話をかけて聞くと、約六十人ほどの会員が参加する予定だという。
 研修会はチャルマーズが理事長の「日本政策研究所」と、ニューメキシコ大学の「日米センター」の共催であり、リビジョニストたちの生態観察には最適だ。
 合計三回にわたる講習で理論武装するが、初回は二日間にわたりサンディエゴ大学であり、第二回目は二ヶ月後に大学のあるアルバカーキで行ない、第三回目は半年後にワシントンで開催する。しかも、予定されているスピーカーの顔ぶれには、三回の全部に登場するチャルマーズとともに、その弟子でタカ派右翼のスティーブン・クレモンスの名がある。
 二回登場が上院の国防産業技術小委員会で、ニューメキシコから出ているジェフ・ビガーマン議員(民主党)である。彼はクレモンスを政策顧問にしていて、軍事部門の日本バッシャーとして有名な議員である。
 第三回目のワシントン会議は顔見せ興行で、リビジョニストのオンパレード。元国務省の対日交渉審議官として、日米交渉の第一線に立ったクライド・プレストヴィッツをはじめ、『アトランチック』誌のワシントン支局編集長のジェームズ・ファロアーズと共に、『影響力の代理人』(早川書房)の著者パット・チョートまで名を連ねている。
 ランドからブルッキングス研究所(2)に行ったマイク・モチヅキや、ジャーナリストのヘンドリック・スミスは付け足しにしても、リビジョニスト四天王のうち三人が揃っており、欠けているのはカレル・ヴァン・ウォルフレンだけだった。
 ニューメキシコ大学の日米センターから速達が届き、中に討議用の必読資料のコピーが入っており、一日を費やして百ページ近い文献を読んだが、どの論文も掘り下げが浅いように思えた。資料をリサーチする人の問題意識が低く、都合のいいデータを含むものを集めれば、これと似たような結果になることは、科学実験のデータの収集と共通している。
 「公団−威力的な日本の政策兵器」と題した論文は、極めて特殊で技術的な問題に終始していて、せいぜい修士論文のレベルの内容だった。また、「日本における私的利権と公共の利益」と題した論文は、底の浅い理論構成の欠陥が一目で読み取れ、初出がオックスフォード大学プレスである。最近のオックスフォード大学における水準が、こんなに低下したかと天を仰ぎたくなるほどだった。
 その他の論文のレベルも似たり寄ったり。チャルマーズの「世紀末の日米関係」と題した論文も、いつもの通りのチャルマーズ節が鳴り響き、『フォーリン・アフェアーズ』誌の一九九五年七・八月号に出て日本でも騒がれた、極東の安全保障にまつわる国防論の旋律が、通奏低音として唸りを発していた。
 発言者たちの基礎資料を一読しただけで、会議の内容と全体像は推察できるのであり、大した成果は期待できないと予想したが、「百聞は一見にしかず」ということもある。名誉会員として招かれた都合上、私はサンディエゴに向けて出発したのである。

安易な日本叩きに終始する
 手違いで道に迷い会場に着くのが遅れたために、最初のチャルマーズの講演の大半をミスしたが、全部を聞かなくても、客観性に乏しく攻撃的な彼のスタイルは定石通りだった。次の「日本の産業政策の規制環境」と題したスピーチは、イースト・サイドの商人のガラクタの陳列に似て、ハードウェアの名前が続々と並んでいた。
 われわれが好むのはソフトな秘伝だが、数量化を好むアメリカ人は料理法 (Recipe)まで数字であり、数字合わせで何でもやれると考えるらしい。
 質疑応答に入ると日本叩きが賑やかで、司会役のスティーブ・クレモンスが調子づき、日本の経済侵略と軍事ただ乗り論を展開した。しかも、「液晶技術をシャーブが独占しているので、それを突き崩すために対米投資を勧誘して、活断層の上に工場を作らせろ」と発言したが、これが本物のジャパノフォビア(日本嫌い)ではないか。
 さらに多くの意見が交わされて興味深かったが、本格化するボーダーレス経済の問題よりも、アメリカの国益を損なう日本の政策や、開鎖的なマーケットへの攻撃が圧倒的で、まるでバイロイトの音楽祭の雰囲気だ。
 午前中の討議の最終段階で"ケイレツ"問題が出て、日本の金融機関や産業構造の弊害を論じ、ケイレツが世界の秩序を撹乱している点や、その排他性の脅威に対して議論が集中したので、たまりかねた私は挙手をして発言した。
 「三十年ほど前にコンサルタントとして資源開発を担当し、主にヨーロッパやアフリカの開発計画を手がけ、 プロとして三井物産で三年ほど仕事をした。最初の年は三井グループの仕事が主だったが二年目には三菱や住友の仕事も三井に集まり、系列の壁など無関係になった経験によれば、大事な仕事は有能な人材の存在と結びつく。だから、外側を堅い殻で防御するのは強みではなく、逆に弱みを補うための身構えが系列の正体であり、商社マンが無能になれば系列化が進み系列は弱さを示す証拠だから、実力があれば能力発揮で開放的になるので、実力があれば何も系列を恐れることはない……(後略)」
 この発言の真意が果たしてどこまで理解され、リビジョニストたちが納得したか知らないが、私の発言で午前の部が終わって昼食になった。
 午後の講演は「日本の対外援助を使った戦略」で始まり、スピーカーは日本や東南アジアでの現地調査をしたようだが、フィールドワークの欠陥が目立った。細かいデータをいくらたくさん集めても、全体を把握する視座の水準が低けれぱ、暗黙知の閃きは伝わってこないのである。
 次はフリーのジャーナリストにょるもので、『フォーチュン』誌や『ニューズウィーク』誌の執筆者が、「産業政策における大蔵省の役割」を講演した。私は話の内容に期待したが、結果は幻滅だった。日本経済によるアジアの完全制覇を強調したり、米国のアジアからの脱落の危惧を表明したが、そんな心配は不要でもっと自信を持つべきである。ジャーナリストの省察を欠いた空騒ぎは、メディアを使ったプロパガンダに終わりかねない。
 三十三歳のビル・ハーストが『ニューョーク・ジャーナル』紙を支配して、一八八七年のキューバ危機をチャンスに使い、「スペインのウェイラー司令官が四十万人の女性を捕らえ、十万人を殺し、捕虜のサメの餌にした」と書いた事実。また、ハバナ港を訪問中の米海軍のメイン号が、原因不明の爆発で沈没した事件に対し、スペインの陰謀を書き立てた歴史の記録。ハ−スト帝国はこういう虚報の積み重ねで世俗的な成功を得たが、イエロ−・メディアの砦を築く上で、仮想の敵を肥大化させる手法を駆使したのではないか。

低レベルの日本問題専門家
 コーヒー・ブレイクの時にスピーカーたちに接近して、日本語のカをチェックして驚いたのは、新聞記事や週刊誌を読める程度だったことであり、それで専門家ぶるのでは嘆かわしいではないか。二日目の会議の内答も似たり寄ったりであり、ジャーナリストや学者の発表に共通していたのは、語学能力の至らなさによる欠陥のために、言葉は激しくても内容の掘り下げが浅く、こんな程度かと呆れてしまうほどだった。
 この報告ではイメージが湧かないというなら、日本にも似た雰囲気の場が存在しているので、それと対比して考えてみたらいいだろう。
 それは主観的な思い込みと偏見に支配され、紋切り型で押し出す主張を満載している『請君』、『正論』、『THIS IS 読売』、『潮』、『ボイス』などの月刊誌で見かける、懐疑の精神や批判精神の裏づけに欠け、冷静さとバランス感覚のない言論活動がそれだ。系統としては『フェルキシャー・ベオバハーター』や『日本及び日本人』の流れを汲み、自分の発言だけは正論だと確信しているが、その背後には権力と結ぷパトロンが控えている。
 これらの雑誌は紙を使った街宣車であり、小遣い提供を通じた懐柔に目のない、売文評論家や御用学者たちで賑わう、赤電球が光る言論版の低俗サロンだ。これらの雑誌が活字化している発言の多くが、日本側の歴史修正派の見解であるのに対し、米国のリビジョニストは鏡像の役割を演じ、相互が自国中心の偏狭な発想に基づいて、相手のほうが悪いと攻撃の声を張り上げている。
 最近における従軍慰安婦や教科書問題で、ネオ国家主義に立つ日本の御用知識人たちが、恥も外聞も忘れて不都合な過去の事実を否定し、歴史感覚のお粗末さを露呈して絶叫している姿に、リビジョニストが行う会議はそっくりである。
 幕末の攘夷思想の信奉者たちと同じで、相手に対しての浅薄な理解に基づき、思い込みと偏見で過激な言論を展開し、当事者たちが興奮して情熱的になるに従い、狂気に支配された時代精神が高まっていく。
 それが一九八○年代のアメリカを刺激して、ジャパノロジストの中でよじれが最も顕著なリビジョニストたちに活躍の機会を提供し、日本叩きのエネルギーを盛り上げた。そして、太平洋の対岸において被害者意識を高め、ネオ国家主義の声が日本列島を包み、反米や嫌米の気分の高揚と結びついた。
 その背景に相手を真に知るという意味における、日米の間のコミュニケーションが不足して、相互理解の面で抱え込んだ問題があった。ことに情報化時代でニュースの洪水があるために表面的な知識を理解と取り違えてしまい、相手を熟知しているという錯覚に支配され、それが裏目に出てしまったのである。
 このようなリビジョニストの台頭の背景には、若いジャパノロジストが即物的傾向を強め、経済的利害を優先に考えていたことがあるわけだが、同時に浅い日本語の能力でも事足りると考え、言語能力の面での徹底した訓繰に欠け、相手の文化の深層への埋解の欠如があった。
 新聞や雑誌が読める程度の能力しかなくても、日本研究者として通用するような時代性は、書けなくても読めるだけで胸を張ったフォーゲルやカーティスの日本語能力でも、ジャパノロジストたり得た甘い日米間係の持続があった。だから、チャルマーズの読解力でも日本問題の権威者になり、それに続いて中途半端な専門家が輩出し、仲間の英語論文のキャッチボールが得意な、リビジョニストで賑わうことになったのである。

知日派の系譜と変化の歴史
 その点を明確に理解するためには、ジャパノロジストの歴史を知る必要がある。アメリ力日本学の父であるセルゲイ・エリセーフ以来、どのようにジャパノロジーの基礎が確立し、それが育ってきたかを知ることが大切だ。
 日本文学を専攻したロシア人のエリセーフは、優秀な成績で東大を卒業してから、革命後にソルボンヌの教授になったが、ハーバードの客員教授として招かれた時に、エドウィン・ライシャワー(元駐日大使)がその弟子になっている。
 われわれが知る戦後のジャパノロジストは、戦前の日本に青った宣教師たちの子供で、その中には根っからのバイリンガル世代に属していた、あのハーバード・ノーマンやエドウィン・ライシャワーのような第一世代を特徴づけたマルチ人間がいる。
 とくにノーマンのような特級に属する逸材は、日本が誇る最高の人材と交遊関係を築き、シナジー効果でお互いを高め合い、俳句に精通した学習院のブライス教授に肉薄していた。ノーマンは維新史を羽仁五郎から直接に手ほどきされ、都留重人、渡辺一夫、中野好夫、丸山真男といった日本の最良の人間と友人づきあいをして、日本文化のエッセンスの最高級品を吸収した。彼のおかげで木戸幸一内府は戦犯にならなかったし、 天皇の戦争責任もウヤムヤで終わった。もし、彼がマッカーサーの右腕 でなかったら、戦後史の内容は大きく変わっていただろう。
 だから、ノーマンの前ではライシャワーも形無しであるが、さすがはケンブリッジの空気の中で青春を過ごし、顧維欽の後輩としてコロンビア大に学び、最後にハーバードに行って学位を得た点では、同しカナダ系でもブレジンスキーとは月とスッポンである。
 第二世代は戦時体制の中で言語教育を施され、軍事要員として日本語を学んだ人たちである。ハーバード・パッシンやロバート・クリストファーをはしめ、碩学の誉れの高い多くの人材を誇るが、現在この世代は第一線から引退している。
 第三世代は戦後の復興期の日本を訪れて、経済繁栄の中で独自の仕事で基礎を築き、今をときめいてはいるが、実力は三代目的なグルーブだ。この世代はアンファン・テリブル(恐るべき子供たち)の戦後派で、チャルマーズもその一員に属しているが、ハーバードに隠居所を見つけたエズラ・フォーゲルや、フィクサー的な日本屋稼業で暮らすジェラード・カーチスなどがいる。
 一応は日本語の読解力を身につけているので、円高の日本を舞台にこの世の春を謳歌して、東京に頻繁に出没する姿を見かける。しかし、彼らは現在のパフォーマンスを誇るより、かつて築いたコネをうまく使っている。だが、人脈の広がりが官僚や財界の老害族に属すために、日本側の世代交代に足もとをすくわれるし、コネの人材の質が大したことがないせいで、影響力が急激に風化するのを阻止できない。
 それに続く第四世代はヤッピーに代表され、日本語はしやべれるし新聞程度なら簡単に読むが、飽食の時代に育って苦労の経験が乏しく、もっぱら現象と機能の面で日本の間題を考える。だから、第二世代が誇った内面的な強靱さがなく、クリントン的なパフォーマンスに終始するし、その中からリビジョニストが輩出している。
 この世代に切磋琢磨の機会を提供することは、日本だけでなく世界の将来を破錠させないために、必ず有効であると確信できるし、不信の嵐を太平洋に発生させないためにも、適切な人材育成の道を開拓する必要がある。

孫引きと相互引用の危険な論文
 ジャパノロジストが直面している障壁の多くが、解読レベルでの桎梏と限界であることは、彼らと対話することで理解できるし、書いている論文の引用文献を見るだけで、その内容の度合いまでが簡単に読み取れる。論文の引用文献の傾向を調べるだけで、筆者の頭の中はある程度は予想できるものだが、大部分のジャパノロジストは英語文献に依存し、原典に当たらず孫引きが圧倒的である。
 ことにリビジョ二ストたちの論文に見る特性は、仲間の論文の頻繁な相互引用が目立ち、ヒトラーが好んだこの雪ダルマ効果のおかけで、彼らは時代の脚光を浴びるに至っている。また、日本語による表現能力に関しては、自在に論文を書けるジャパノロジストは限られ、ロビン・ギルなどの例外的な一匹狼を除き、そこまでやれる者はあまり見かけない。
 格調高い内容の文章を書くのは困難であり、日本語はことにその傾向が強烈なために、中国や朝鮮系の人を除くと希少な存在で、この領域に大きな処女地が広がっているのに、そこに踏み込む人間は歴史的に限られてきた。
 同じことは太平洋の両岸で観察できる。長谷川慶太郎、牧野昇、大前研一、唐津一などのエンジニア系の人が、日本語で続々とベストセラーを書くように、米国でも文章が上手なリビジョ二ストたちの手で、刺激臭の強い論文が次々と誕生している。だが、母国語による表現の絶大な威力のおかげで、彼らが英文で発表する論文が大量に生まれ、日本でも翻訳されて注目集めているが、実は誰も日本語で執筆していないのである。
 日本の月刊誌で日米関係を論じる日本人も、日本の読者を相手に日本語で書くだけで、世界のメディアを舞台に英語で意見を主張し、真の意味で論陣を展開している者は少なく、ディベートを通じた相互の理解はおろか、コミュニケーションにもなっていないものが多い。
 日本人の英語の達人も似たパターンを持つが、例外はいつの世にも存在するものである。シカゴ大学で第一号の博士になった浅田栄治や、大英博物館を舞台にした南方熊楠のように、何語でも自由自在に操る語学の天才もいる。
 だが、「武士道」を書いたあの新渡戸稲造でさえ、夫人の朱入れにより英文の推敲がなされていて、それはブリティッシュ・コロンビア大にある草稿を調べれば明らかになる。
 非母国語で書くことの困難さは絶大であり、やりたくてもできない悔しさは痛切だが、大部分の人間はこの限界の前で立ちすくみ、その深層には根強いコンプレックスが潜む。
 そして、第四世代の中からこの限界を乗り越えて、自由自在に和歌や漢詩を交えた論文を書いたり、政治論の中に文化の香が漂うような人材が出てくれば、リビジョニズム(修正派)がレシオナリズム(合理派)に脱皮できるのだが、果たしてそれはいつの日になるだろうか。
 同病相哀れむ人間の気持ちを表白すると、私自身も中学時代からフランス語をやり、読むレベルでは英語やフランス語で追えても、書くとなると母国語の日本語の一点張り。四半世紀も北米大陸に住んでいるくせに、英語で執筆することに二の足を踏んでいる。
 だが、英語が世界に通用する国際語であるために、英語使いの日本人にほうが日本語使いの米人より、量だけでなく質の上からも圧倒的である。この問題はジャパノロジストの今後の課題になるに違いない。サイエンスの分野では日本人に圧倒的な差をつけ、若者を卓越した人材に育てるアメリカが、語学をマスターする上で日本語を苦手とし、真に優れたジャパノロジストを輩出させないというのは、どう考えても不思議と言うしかない。
 原資料に直接当たって解読できないために、英訳された限られた文献をありがたがって、新聞や雑誌の解説記事を参考にしたり、仲間の論文のキャッチボールを繰り返していたのでは、真の日米相互理解が実現するはずがない。
 それに、日本のアメリカ学者の書いた論文に対し、米国の高校生が見当違いを指摘したり、庶民が認識不足をよみとることがあるように、文化の差異は情念や情動のレベルで反応があり、付け焼き刃に似た知識をまとう学者には宿命的な限界がつきまとう。
 例外的にこの壁を乗り越える逸材もいるが、後天的な意識や知識はそれをいくら高めても、無意識や暗黙知の水準のメタモルフォーゼ(変性)は難しく、大部分はこの障壁の前で立ちすくみ、文化遺伝子の障壁を意識せざるを得ないようである。

貧困な雑誌ジャーナリズム
 私は趣味でアメリカの大学図書館の書庫巡りを楽しみ、過去十数年を費やして蔵書内容や読書傾向を調べ、スタッフの関心度や問題意識を推測してきた。
 専門分野や特殊領域には別の指標を使うが、日本の政治や戦略への関心を測るためには、丸山真男の「戦中と戦後の間」(みすず書房)、小室直樹「危機の構造」(ダイヤモンド社)、永井陽之助の「現代と戦略」(文芸春秋)の三冊をもっぱら利用している。
 これらの本は日本語版しかない名著であり、日本の政治を知る上で必要文献に属す。だから、その図書館が何冊これら本を保有してどれだけ借り出されたかを調べ、そこの大学の頭脳水準を測る目安としている。
 本のページの折れ曲がり具合や底の汚れで、どれくらい読まれたかが判読できるし、買ってから一度も読まれた形跡がなければ、司書が手当てしただけの宝の持ち腐れであるが、その種のケースが最近は非常に目立つ。こうした仕事はコンピュータにはできず、趣味と道楽を兼ねた頭脳ゲームに属しており、インテリジェンスの能力を高める訓練として、若い人に勧めたいフィールドワーク術である。
 最近は米国の大学予算の欠乏の皺寄せで、量だけでなく蔵書の質の低下が著しく、ゴミ同然の刊行物ばかりが増えている。その理由の一つは新聞や雑誌の書評の質が低下し、良い本を発掘する努力をする代わりに、売れ行きがよかったり、広告が目立つ本を取り上げ、発行が古くても内容がタイムリーな本を見落としているからだ。
 定期刊行物の内容のチェックも役に立ち、どんな新聞や雑誌を購読しているかにより、日本への関心の度合いと傾向を判読する。良質の情報は特定の読者を対象にするために、書店で売らずに予約購買のケースが多く、新聞広告をしないのが最近における日本の傾向である。そのために司書が勉強不足の施設は悲劇で、宣伝を兼ねた企業の宗教の刊行物や、広告で売る有名雑誌ばかりが並んでいる。
 また、日本の週刊誌は経済誌を除くと質が悪く、とても図書館の展示に向かない内容である。そのために、アメリカでは誰にも見向きされないし、人前で手にしただけで軽蔑されかねない。だから、週刊誌がいくらセンセーショナルに騒いでも、それは国内レベルのコップの中の嵐に過ぎず、世界に対して何の影響力も及ぼさない。だが、逆に、夜郎自大のネオ国家主義的な月刊誌は、日本のオピニオン誌として購読されており、意外なほどの影響を与えている場合が多い。
 そして、鏡像作用で強い反発えお示しているのが、対日強硬派のリビジョ二ストたちであり、自分たちが持つ表に出せない気持ちや行動をはじめ、恐ろしくて考えたくない不合理な状況を想定し、相手の側に投影して嫌悪する。
 また、自ら読んで理解した上での反発でなく、噂のまた聞きで感情を強く高ぶらせ、攻撃的な態度で反日意見を主張しており、太平洋を挟んだ嫌悪の投げ合いに結びつく。
 こうした悪感情のエスカレート傾向の強化は、言葉の理解が表面的なパロールの水準にとどまっていたり、常識的なラングのレベルでとどまっているせいである。さらに上位の意味の実態に迫るランガージュの水準において、問題の全体把握と洞察が行なわれなければ深い理解に到達し得ない。

日本の肩書き主義と常連会議屋
コミュニケーションを語学の間題に矮小化し、そのレベルで悪戦苦問して憶測に留まる点では、米国のジャパノロジストの多くがそうであるだけでなく、日本の官僚や財界人も似たようなものだ。外交関係や人間の信頼関係の基本は、地位や肩書きでなく問題意識の高さであるのに、日本人は代わり映えしない顔ぶれを並ベ、相手の満足を得られると盲信してきた。
 アメリカの心ある人たちの間でよく聞いたのは、日本の国際会議のメンバーの人選についてであり、大来佐武郎、牛場信彦、盛田昭夫、平岩外四、岡崎久彦のような会議屋モドキを揃え、いつも同じ顔ぶれを選ぶのはなぜかとの声だった。日本にはそれ以外の人材がいないはずはないが、マンネリズムが日本人への信頼を損ない、若い人に活動の場を提供せずにいるうちに、時間の流れの中で老害≠ェ蔓延してしまい、人材育成の機会まで奪ってきたのである。
 ダボス会議(*19)で日本人の存在が希薄だと言われ、知り合うに値しないと侮蔑されたり、香港や台北の会議で日本人のスピーチの時に、出席者が激滅している状況の背景には、個性溢れた独創的な見解を披露できる人が、ほとんどいないことが関係している。
 香港や台北のトッブには日本の刊行物を読み、『フィナンシャル・タイムズ』紙や『インターナショナル・へラルド・トリビューン』紙で国際情勢を把握し、経済を地球の上で位置づけている人もいる。『日本経済新間』の解説レベルの意見はお呼びでないのである。
同じことはアメリカ人相手の場合にも言え、日本側の対応は独りよがりのことが多く、相手に笑われていても気づかないでいる。その一例が未来のコンセブトを考えると謳った、「日米二十一世紀委員会」の会合に出席した時の体験だ。
 堺屋太一座長も稲盛和夫委員もまったく英語ではしゃべらず、自己紹介からあいさつまで同時通訳で済ませたが、これは語学以前の外交能力の間題である。
 そして、巻き物を一生懸命に読み上げる日本側に対して、会場に白けた気分が標うのを目撃したが肩書きよりコミュニケーターの資質が肝要であり、それを忘れたら太平洋上に低気圧が広がってしまう。
 日本の政治と経済の混迷で幕末現象が強まり、日米間の経済摩擦が目立たなくなったおかげで、最近はリビジョニストたちのトーンも低くなった。
 だが、彼らが存在しなくなったわけではないし、良質ジャパノロジストが輩出したのでもなく、一時的にお天気が小康状態にあるに過ぎない。
 日本人の事大主義が波涛の動きを狂わせ、両岸の住民の運命を損なわないためにも、世界で活躍できる優れた日本人の選択と、質の高いジャパノロジスト育成への協力が必要である。二十一世紀を希望に満ちた時代にするために、世界に通用する人材の抜擢と活用を通じた、叡智の結集が不可欠ではないだろうか。


■ 第5章・註解

*1 リビジョニスト
 文化的な多元主義に基づいた発想を指し、時には歴史修正主義者と呼ぶこともあるが、日本叩きの高まりにつれて派手に動き出した、米国の日本見直し論もその中に含まれている。ただ、米国に見る一部強硬派の発言の中には、「日本は欧米とは異質な国であるために、市場原理や自由貿易のルールが働かない」と言って、日本攻撃の論調を展開するものが目立ち、日本の国粋主義者の発言と鏡像関係の中で、必要以上の相互刺激を生み出す傾向がある。

*2 ブルッキングス研究所
 アメリカ最古で最大規模の民間研究所として、民主党系の立場で政策の立案を担当しており、付属期間として大学院を持つシンクタンク。

*3 イースト・サイドの商人
 ニューヨークのイースト・サイドには、ユダヤ人の経営する吉道具屋が集まっており、山積みのガラクタを並べて商売している。

*4 バイロイトの音楽祭
 ドイツのバイロイトで行なわれる音楽祭は、ワグナーの楽劇やオペラで知られているが、大袈裟な演技と騷々しいことでも名高い。

*5 ケイレツ
 企業グループや金融系列をはじめとして、生産や販売を縦に繋いでグループ化し、株の持ち合いや役員の派遣で結びつく、排他的な従属関係で支配された取引関係。

*6 暗黙知
 人は語ることができるより多くを知ることができるが、全体の中での関係を認知することによって、包括的な統合性に基づいて意味を読み取る。対象を理解し認知する肉体的な知覚活動は、訓練されたイマジネーションに結びついている。

*7 ハースト帝国
 センセーショナリズムを売り物にして成功した、ハースト系の新間はデッチ上げ記事を得意にしたが、読売の正力松太郎社長はその手法に学び、ビル・ハースト社主と親交して贈り物を交換し含っている。

*8 フェルキッシャー・ベオバハーター
 ヒトラーが意見発表に愛用したナチ党の機関紙で、「民衆の観察者」という意味の名前を持つ。

*9 ジャパノロジスト
 基本的には日本について研究する者を指し、日本語に精通している人物だと信じられている。だが、日常会話や簡単な新間雑誌は読めても、目本語で文章を書ける人は非常に少なく、アメリカ人の場合はその大部分が、日本人の翻訳に頼っているのが実態であり、ここでも目本語が大きな障壁を作っている。

*10 セルゲイ・エリセーフ
 (Elisseeff Sergei一八八九〜一九七五) ロシア生まれだがベルリンと東京の帝国大学に学び、パリ大学高等学院やハーバード大学の教授を歴任した、ジャパノロジ−における優れた開拓者で、日本学の精髄をタタミザッションと命名した。

*11 ライシャワー
 (Reischauer Edwin O一九一0〜一九九六) ハーバード大学の日本学担当の教授から、ベトナム戦争の時期に駐日アメリカ大便になり、再婚相手のハル夫人は中学の同窓であるが、テロリストに刺された不運な経験を持つ。

*11 ハーバード・ノーマン (Normann E. Herbert一九○九〜一九五七)
 日本生まれのカナダの外交官であり、安藤昌益の研究で知られているが、五○年代のマッカーシー旋風の犠牲になり、エジブト駐在カナダ大使の時に飛び降り自殺した。

*13 アンファン・テリブル
 伝統から断絶した若い奔放な世代を指して、「恐るべき子供たち」と名づけたフランス人が、戦後派における価値観の違いを形容した表現。

*14 ヤッピー
 専門職についている独身指向の若い人を指し、金回りが良くて遊び上手な特性を誇り、仕事にも熱心に取り組む八○年代的な世代。

*15 新渡戸稲造(一八六二〜一九三三)
 台湾総督府の農政技師を経験してから、アカデミーの世界に陣取って教職生活を送り、国際連盟に出向し事務次長として活躍した。

*16 丸山真男(一九一四〜一九九七)
 『超国家主義の理論と心理』でデビューした政治学者で、冴えた分析と明噺な理論の展開を続けて、権力の走狗が多い政拾学の世界で孤高を保ち、学者の責務が何であるかを実証して生きた。

*17 小室直樹(一九三七〜)
 京都大学で数学を学んでから、大阪大学で高田保馬教授の経済理論に接し、MITでサムエルソンの学間落差論の真髄を学ぶ。その威力を駆使して東大法学部の丸山真男教授に政治学を、川島武宜教授から法社会学を学んだ法学博士。モルトケとマックス・ウェーバーを敬愛しており、藤原肇とは『脱ニッポン型思考のすすめ』(ダイヤモンド社)があるが、残念ながら絶版のために入手するのが難しい。

*18 永井陽之助(一九二四〜)
 豊かな歴史感覚と幅広い視野を駆使して、複雑に錯綜した国際関係の綾を解きほぐすカを持つ、日本人に珍しく戦略発想ができる政治学者。

*19 ダボス会議
 メンバーだけに開かれている会議であり、国際的に指導的な立場にいる人が意見交換のために、厳冬の一月末にスイスの保養地ダボスで、世界経済フォーラム財団が開催する年次総会。君主の番頭役をする世界のトッブが集まる会合として知られ、ここで優れた資質を発揮して評価されることは、将来の指導者としての認知を意味している。

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