『サンデー毎日』1979年11月11日号
シリーズ7 80年代の日本




□■石油 原子力を頼りにするな!■□

国際石油コンサルタント 藤原肇





 エネルギー問題を考えた場合、八〇年代は二十世紀において、最もいやな十年間になるのではないか。
 一九七九年版の世界地図に独立国として、国境線とか首都がはっきり書いてある、いわゆる主要国家のうちの幾つかが地上から姿を消すような状況が、八〇年代にはあるのではないかど思う。
 特にGNPで世界第何位とかいわれて、ひとけたの地位を誇っていた国が、あっという間に内乱とか革命に巻き込まれるのではないか。世界のあちこちで、戦争が始まったりもするだろう。  


貧乏な国が戦争を始める?

 その火種になるのが石油である。八〇年代に、恐らく石油が一バーレル当たり四〇ドルくらいになった段階で、要するにエネルギーは要るけれども、それだけの外貨を持たない、どこからも借金できない国が戦争を始めるのではないか。
 その可能性としては−−これは私が個人的にいろいろ集めた情報を総合したのだが、まずトルコあたりがイラクに入ってキルクーク油田を占領する可能性。
 あるいはイタリアあたりがリビアを占領して、リビアの油田からイタリアのエネルギー源を確保するとか、あるいは韓国が大量に派遣している労務者をうまく組織して、イランあたりに急変を起こすとか。国が単位の、よその国乗っ取り事件というのが案外起こるのではないか。
 より大きな次元としては、東欧諸国が、ソ連に反乱を起こし、それにアメリカが介入してコメコン諸国を分裂させるとか、ソ連とアメリカが手を組んで、ソ連がイランを呑み込むと同時に、アメリカが、サウジアラビアを軍事占領するとか、そういった形での戦争の可能性もあって、日本はあれよあれよという間に石油が手に入らなくなり、パニック状態という可能性もある‥‥‥。  
 これからの十年間は、恐らく石油を中心にして、あらゆるものが、めまぐるしく動き回る。その世界の石油の問題が、日本の運命を荒波の中の木の葉のように揺り動かす。    
 実は石油をめぐる世界情勢はそこまで緊迫しているのである。しかも、そのような破局が目前に迫っていることを日本の政治家はだれも考えていない。日本の政治家だけでなく、世界をリードしているとうぬぼれている、自称"先進国"の首脳たちさえも自覚していない。
 政治家たちは、考えていないが、実際の国際政治の中では、そういう非常に不吉で、不愉快な状況が刻々と迫っている。それは第二次世界大戦前、ミュンヘン会議なんかで政治家たちが浮かれていて、これから世界が、どのような破滅状態に陥るかを深刻に考えていなかったのと同じだ。我々が当時と同じ状況に置かれているという意味で、きわめてペシミスチックな未来が待ち構えている。  


まだまだ主役は"石油系統"

 そのような世界の荒波を、日本はどう受けとめ、どんな政治をし、どう覚悟を決めるべきか−−それを今、考えなければならないのに、日本では、そういうことさえ、ジャーナリズムのうえにも現れないのだから心配だ。
 石油がなくなって日本全体がパニック状態に襲われ、国民の何割かが飢餓線上をさ迷う状況について、先見性のある人たちが、いろんなイメージを描いているが、その飢餓状態をより軽減するために、今の日本人は何をすべきか、もっと深刻に考えるべきだろう。  
 八〇年代のエネルギー事惰を考える場合、我々が支配されている大きな錯覚について、日本人はもう少しはっきり理解すべきだ。というのは、日本でエネルギーの将来を論ずると、すぐに原子力とか太陽エネルギーが出てくる。
 ここにきて原子力がだいぶ行き詰まりを現し、急に太陽エネルギーが脚光を浴びているが、やはり太陽エネルギーの実用化は二十一世紀にならざるを得ない。
 しかしウラン235の核分裂を中心にした軽水炉など、日本の財界あたりが論じている核分裂型エネルギーをあてにする政策は、ほとんど破産状態だと私は考える。
 それでは、これから何がエネルギーの中心になるかというと、やはり、この二十年間がそうであったように「石油」といわざるを得ない。ただ、いわゆる液体としての石油というように狭く考えてはいけない。
 もっと広く考えて、石油資源、より専門的には炭化水素−−炭素と水素が組み合わさったエネルギー源である。
 もちろん石油が中心だが、天然ガスも入る。ガス化した石炭、液化した石炭、石炭からつくる炭化水素、夕ールサンドとかオイルシェールから抽出するような人造石油。あるいは地熱、水素ガスまで含めて、こういった石油のバリエーションが、二十一世紀が始まるまで、とく一九八〇年代は石油系統のエネルギー源が主役である。


核融合技術の"カベ"は学閥

 ところが、日本では、どういうわけか電力会社とか政府が、核分裂型のエネルギー源にのめり込んでしまっているので、これが主役になるというような誤った宣伝が、マスコミなど、あらゆる機会に氾濫している。
 これは非常に危険だと思う。彼らは石油の枯渇を盛んに強調しているが、実はウラン235のほうが、石油よりも簡単に枯渇するくらいあやふやな資源だということを、いつも議論の中で抜いている。
 日本の財界とか政府は核分裂を「あすのエネルギー」といっているが、実は「今晩のエネルギー」で、これは、その後に続く、いわゆる高速増殖炉に統いて核融合が生まれるための"つなぎ役"にすぎない。原子力エネルギーの主役になるのは、実は核融合である。
 核融合というのは、プラズマ状態の高温エネルギーを長時間持続させて、それを社会のエネルギー源にするテクニックだが、大別して二つのテクノロジーがある。
 ひとつは、ソ連を中心に開発されたものでマグネチック・フィールドを利用した、いわゆるトカマク法だが、今までの日本はこれに全力をあげてきた。日本人はどういうわけか一つのものに全力をあげて取り組んでしまうのだ。ところが、多様性の重要さが、ここにあるわけで、最近アメリカ、とくにカリフォルニア大学などを中心に、レーザー光線を利用した核融合のテクノロジーが、非常に進んできている。
 が、日本はこれまでMIT(マサチューセッツ工大)とか東部の大学と協力関係を強め、東大閥が日本の原子力政策を牛耳っている。東海村などは東大の出先機関のようになっているが、ここがトカマク法に全力をあげている。
 トカマク法さえやっていれば一生教授で、しかも東海村の研究者として安泰だというわけで、新しい技術に対してあまり好感を示していない。
 世界では、レーザー、トカマク、その両方、さらにだれも考えたことのない新しいものの研究が行われているのに、日本では、今は核分裂、将来はトカマク法の一点張りで、へんな学閥、縄張り争いが、新しいものの芽が育つのを妨げている。
 そういう日本の原子力政策の過ちが、そのまま「これからの石油エネルギーが、あいかわらず日本のエネルギーにとって重要だ」という考え方を発展させず、「これからは原子力に飛び込みさえすればすべてが解決する」という神話をまき散らす役割まで果たしている。
 ところが先ほど述べたように、八〇年代の日本のエネルギー問題は、石油をぬきにしては語れない。石油に対して、どのように日本が対応していくかを考えると、まず、第一にくるのは「石油を確保していく」ことである
 石油は二十世紀において、もっとも重要な戦略資源だから、この確保に関しては、やはり政治の指導性の問題をぬきにはできない。
 ここで日本の政治は日本国内だけを舞台にして通用する次元でしか機能してないという問題がある。そうなると、日本の政治の国際化の問題、そして政治だけでなく、政治において最も有効な武器である経済社会の国際化も考えなくてはならない。結局、日本全体が国際化していくという問題が出てくる。
 同時に国際化を進めていくうえで、日本が持っている、いろいろな道具、ポテンシヤル、そういうものを、いかに石油の確保と結びつけていくかという、日本の生存のための政策問題が関係してくる。
 金を払えば石油が手に入るというような、非常に安易な経済環境は、もう地上から姿を消す。石油の性質が重油質とか軽油質とかいうような問題は、ほとんど議論の余地がなくなって、日本が石油の産出地にタンカーを送っても、果たしてタンカーをいっぱいにすることができるかどうか、心配しなければならない時代が、もう始まっている。
 これまで日本の通産省を中心にした人たちは、国産のメジャーをつくれば解決するというような、なにか国粋主義的な考え方で、国産メジャーの育成を図ってきた。
 が、日本の安全を考えると、いわゆるDD石油−−産油国政府が持っている石油を直接買ってくる政府間ビジネス、あるいは政府と商社との間の取引によって買ってくるというようなものと同時に、やはり国際石油資本が市場原理にもとづいて取引している石油を買ってくることも大事だろうし、商社が買い付けにいってくることも重妥になるかもしれない。
 あるいは日本の石油会社が、どこかで生産した石油をスワップ−−交換という形でもらってくる、そういうやり方も重要になってくる。要するに石油を取り扱うチャンネルが、いろんな形で増えるほど、日本にとっては安全になる。
 そのような多様化を図るには、日本がやはり交換するのに必要な、なにか「石油」を持っていなければならない。
 たとえばカナダで夕ールサンドで生産した石油をアメリカに売って、アメリカがインドネシアで持っているものを買ってくるとか、あるいは日本人が直接アメリカヘ進出して、アメリカで石油を生産し、アメリカがサウジアラビアから買う石油の何割かを交換に日本にもらうとか、そのようなクッションをおいた石油開発の仕方が重要になる。


利権あさりは資源国の信用を失う

 ところが、日本の石油公団とか通産省は、日本人がどこかで石油を生産した揚合、それを直接日本に持ってこなければならないというような直線的で短絡的な考え方ばかりしているから、結局は何もできない。
 そうではなく、日本人がどこで生産しても構わないが、それを交換して日本に持ってくるやり方をしなければならない。
 そこで日本の石油開発の問題になる。日本の石油公団が金を集めてどこかで石油を掘るとか、商社系の開発会社が、どこかから鉱区を買うということだけでなく、より大きなコミットメントの仕方として、たとえば三菱グループの何割かの資産をサウジアラビアとかメキシコに支配させて、その代わり、油田(油田があるかないか分かっていない土地を含めて)の管理権と交換するとか、インドネシアのどこかの島の採掘権と、例えば住友グループの支配権とを交換するとか−−さまざまな形での石油開発を推し進める必要がある。 (この問題は複雑なので、これだけにするが、詳しくは先日出版した拙著『日本列島不沈の条件」=時事通信社=を読んでいただきたい)
 ただ日本の石油公団が盛んに国策事業で石油開発をやろうとしているが、石油事業はそれ自体がもうかるビジネスなので、国策事業になると、必ずウソが始まる。
 利権争いをする、いかがわしい財界人が顔を出し、いろいろとウソ八百を並べたて、国民の税金でシリぬぐいさせる形で利権を自分の私権とすりかえていく。
 ちょうど第二次世界大戦の時に東南アジア、満州(中国東北部)への進出が、国策であり、戦争やるのが国策であるという形で、大日本帝国が破産してしまって、結局は、国民がすべてのシリぬぐいをさせられたのと同じだ。こんな羽目に陥らぬようにする必要がある。でたらめな国策事業は日本の破滅を招くばかりだ。
 次に日本の政治の指導性については改めていうまでもない。やはり世界を舞台に国際的な頭脳ゲームを、石油を使ってやり抜けるような政治をやってもらわぬ限り、日本人は油田地帯で、すべてババをつかまされるようなことになってしまう。
 そうでなくても日本の今までの政治は、政府が政界にうごめいている右翼のフィクサーのロ車に乗せられて、黒い利権を高値でつかまされ、税金を浪費するようなことばかり繰り返してきた。
 それはシベリアだけでなく、中東でもそうだし、インドネシアでもそうだった。特にインドネシアの場合などは、日本で首相をやった人たちを含め、あらゆる利権をあさってインドネシアを食い荒らした。で、インドネシアに日本人が行くと、お前たちは、また利権あさりに来たのかと、相手方はマユをひそめる。まともなビジネスがほとんど不可能な状態になっている。それが今度はまたメキシコで始まろうとしている。
 今までの日本の政府あるいは多数党の財源は、こういうフィクサーたちが利権をかき集めて持ってきたもので、その土壌の上に金権政治が続いてきた。
 まだ汚れていないメキシコとかカナダ、あるいは中東のいろいろな国を、日本の政界と財界が二人三脚で食い荒らすようなことがあってはならない。
 日本人というのは、やはり、まともなビジネスをしてくれるし、お互いに協力をするんだという信頼関係のうえで、世界の国々からパートナーとして歓迎される立場を貫いていくべきだろう。
 さらに日本の国際化の問題だが、「日本人だから生活のすべてを日本列島の上でやらなければならない」「日本の企業だから、すべて原料を日本に持って来て加工しなければならない」という蟻地獄的な発想でなく、能力のある人は世界で活躍し、実力のある企業は世界へ進出して、そこの国の人たちと協力関係を結んでいくという発想が不可欠だ。  
 今まで日本人が世界各地へ出て行ったとはいっても、いつも東京の指令を仰いで、東京のために何かをやる発想だった。これからは、世界の人たちと協調しながら世界の中で生きていくというべースの産業社会をつくっていけばいい。
 特に鉄鋼とかアルミニウム、セメント、パルプのようにエネルギー多消費型の産業は、日本国内に立地を設定せず、世界の、そういう産業にもっともふさわしい、エネルギーを持った場所で生きていくことを考えたらいい。
 例えばコンゴ川などは、ヨーロッパ全体の包蔵水力の何倍、何十倍というポテンシャルを持っているわけだから、日本の技術力あるいは資金力を動員して、コンゴ川にたくさんのダムをつくって電力を生産し、アルミニウム精錬をするといった発想法でやったらいい。
 ということは、今、我々が直面しているエネルギー問題というのは、実はエネルギー不足に由来する問題ではないということだ。むしろエネルギーを多消費するような産業社会をつくっているという文明自身の問題に関係しているのではないか。
 こういう問題が重要なのに、例えば東京サミットに集まった人たちは、単なる一国のエネルギー政策とか、OPEC(石油輸出国機構)に対する対抗策だとか、非常に次元の低いことしか議論しなかった。低次元の政治問題しか考えられない人たちが、先進工業国を自称している国々を指導しているのは危険なことだ。
 ほんとうに我々が理解しなければならないのは、「産業設備が過剰である」「産業設備が偏在している」「エネルギーを生産する場所と、エネルギーを消費する場所が、非常にちぐはぐな状態で存在していて、しかもエネルギーとしての石油、電力などを全体量として使いすぎている」といった問題である。
 東京に集まった各国の首脳は、この過剰の問題をもっと深刻に考え、討論すべきだったのに、それをしなかった。


多消費型軍隊を制限せよ

 さて特に、そのような次元で物を見た場合、何が一番多消費型かというと、いわゆる軍隊が最大である。軍事機構はエネルギーを大量に消費するけれどもエネルギーを少しも生産しない。
 エネルギーの消費を抑えるために我々はどういうアプローチをするのが最も有効かとなると、最終的には、軍事力を制限することである。
 各国が十九世紀的な国民国家のワクの中でつくりあげている軍事機構をいかに縮小していくか、いかに合理化するか、その問題こそ実は東京サミットでもやらなければならなかった問題だし、日本が直面している最大の問題なのだと思う。
 例えば日本の場合は自衛隊をいかに解体していくかということが、これからの国民世論のもっとも中心になるべきだと思う。というのは軍事組織も石油開発も、ともに一国にとって政治の道具としての役割を果たしている。が、これからは、軍隊よりも、石油開発あるいはその石油開発が中心になっているエネルギーをどのように確保していくかということが、一国の安全にとって、もっとも重要な課題になるからである。
 これからは石油の確保ができないことによって一国のエネルギー事情が悪化し、国家が破滅状態に陥る傾向がいよいよ強くなると同時に、軍隊のようなものは、その一つの国の困難さをいよいよ強める役割を果たすことになる。
 軍事機構をいかに最小限度までそぎ落とし、それを機構改革して石油を確保する組織に改めるか、あるいは消極的な意味でトータルのエネルギー消費をより少なくするために、最もエネルギー多消費型の組織を他に転用するといった方向での政治議論が、これから始まらなければならない。
 そうなると、例えば防衛予算を石油開発用の予算に転用することなども国民の議論の対象になるはずである。
 石油開発も軍隊も大量の人間を総動員する性格を持っている。両方とも組織の機構が非常に似ていて、有能な、判断をするトップ、すぐれた行動力を持ったそれぞれのスーパーバイザー、卓越した参謀、あるいは政策マンが必要だし、それからたくさんのテクニシャンクラスの人間、労務者など、人的資源も非常にたくさん必要になるわけだ。


自衛隊を石油開発の組織に  

 具体的には海上自衛隊、航空自衛隊をできるだけ石油開発の組織に改組し、現在持っている種々の施設とか、飛行機、トラック、船とかいうものを、石油開発に転用していく−−そういう議論が、だんだん日本で広まらなければいけないと思う。
 ところが、日本の場合、最近の航空母艦ミンスクのウラジオストク回航を中心にして、軍事力を強化しなきゃいかんといった、時代遅れの議論が盛んだ。
 軍事力で一国の安全が保障されるという十九世紀的な、時代遅れの考え方を転換し、エネルギー源、それを支えている石油によって日本自身がつぶれかねないという視点から、日本の安全を確保する議論を盛んにやっていくべきではないか。それをやるのが八〇年代である。
 一九八〇年代を、かつての陸海軍復活の時期に対応させようという、時代遅れの政治家のペースに巻き込まれてはならない。八〇年代は、エネルギー多消費型日本をエネルギー不足で破滅させかねない条件を、いよいよ悪化するような軍事機構をそぎ落とす、建設的な十年間にしてほしいと思う。
 そうすることで、八〇年代を石油飢餓の時代とせず、エネルギー多消費型からエネルギー少消費型の社会に転換することによって、九〇年代にバトンを引き継ぐことができる。
 そして二十一世紀の最初の五十年間は、いわゆる核融合の原子力による時代、二十一世紀後半は太陽エネルギーによって無限のエネルギーを確保する時代である。そんなバラ色の輝きを持った時代−−その基礎づくりをやるのが八〇年代である。その意味で、我々は新しい八〇年代を迎えようとしているが、行く手には新しい試練が待ち構えている。
日本人のチャレンジを待っているのである。(終わり)


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