『ニューリーダー』2012年10月号



ドラッカー七回忌・追悼対談(上)
リーダー諭として熟読すべき名著の数々
稀代の思想家を育てたのは賢夫人ドリス



斎藤 勝義(元ダイヤモンド社・外国書籍著作権担当責任者)
藤原 肇(慧智研究センター所長[霧島]、フリーランス・ジャーナリスト)


戦後日本の発展に残した多大な貢献

 オーストリア・ウィーン生まれのピーター・ドラッカーは、マネジメントの発明者として世界に知られ、発展期の日本経済に近代的な企業経営を伝授し、大きな影響を与えた。ドラッカーは二〇〇五年に九五歳で亡くなり、一一月に七回忌を迎える。不況の最中、日本ではドラッカー・ブームが再燃し、書店には著作が横積みになり、同氏の名前にあやかった本がミリオンセラーになっている。
 「人間を幸福にするためには、どうすべきか」を説き続け、とりわけ山水画のコレクターとしても知られる親日家のドラッカーは、日本を叱咤激励してきた。しかし、二〇年以上も続く政策不況や、原発事故で露呈した日本のマネジメントの欠陥を、どんな気持ちで眺め下ろしていることだろうか。  ドラッカーと家族ぐるみの親交を続けた二人の日本人に、秘話を含め改めてドラッカーついて語りあっていただいた。

藤原 斎藤さんはダイヤモンド社の出版部に在籍されていた間、ドラッカーの著書を翻訳する交渉を一手に引き受けていました。彼のカリフォルニアの自宅に十数遍も通って、ドラッカー夫妻とはツーカーの関係でしたね。

斎藤 初期の本から、いろんな著作に関係させてもらい、とても良い経験をすることができました。ダイヤモンド社のドラッカーの著書の取り扱いは、延べにして三〇〇万部を超え、ドル箱です。もっとも、最初の頃はマネジメントという言葉を誰も知らず、マネジメントとは何だということで、編集部でもなかなか受け入れられず、苦労したことを覚えています。

藤原 ドラッカーが日本に紹介されたのは、池田内閣で始まった高度成長政策の時代でした。若い頃に『変貌する産業社会』を始めとして、私も『明日のための思想』などを塾読しました。彼の日本語訳は何十冊にもなりますが、一人の著者でこんなに多い人は珍しい。斎藤さんがその隠れたプロモーター役を果たした。日本経済の発展に貢献した点では、ドラッカーの役割は絶大で嘗賛すべきです。

斎藤 日本経済が戦後の発展を実現して、経済大国になった背景にはマネジメントがある。企業も官庁もマネジメントを学ぶことで、組織をかなり整えた。でも、バブル経済で吹っ飛んでしまいました。

藤原 マネジメントまでは付け焼刃でも可能で、その点、日本人はドラッカーの弟子としては、マスターしたものも多く非常に優秀でした。だが、弟子は先生を超える必要があるのに、経済大国の虚名に陶酔して満足したので、バブル経済とヤクザ政治を放置してしまった。繁栄が途切れた最大の理由はリーダーシップの欠如です。しかも、三流の人物に国の運命を任せてしまい、適材適所を実行しなかった。その前段階で本物の人材を育てる努力にも欠けていた。

斎藤 『マネジメント』はリーダーシップに関しての奥義書ともいえます。ドラッカーの本は、指導者になる条件として読み取る能力がある人には、バイブルになる深い内容を秘めています。

藤原 そうですね。マネジメント能力の育成と熟達は、リーダーになるための必要条件ですから。その点でダイヤモンド社の宣伝は、経営問題に偏向しすぎ、教養人としての姿を薄めたのは残念でした。

斎藤 マネジメントという言葉が持つ牽引力に引かれ、ドラッカーの存在に照明を当てたということです。とはいえ、ドラッカーは「自分は経営者ではない」と断言して、思想家と言われるのを喜んでいたことは事実です。

ドラッカーが描いた二〇世紀の光と影

藤原 マネジメントを乗り越え、リーダーシップまで学び、さらに哲学書として彼の本を読み、人生の指針に活用した人も多かったはずです。私の印象に深く残ったのは『断絶の時代』と『傍観者の時代(冒険)』ですが、『傍観者の時代』は最高傑作だと確信しています。

斎藤 ただ残念なことに「傍観者」という言葉の響きが良くなく、売れませんでした。Bystanderという言葉の訳語として日本語に適当な言葉がなかったのですが「観察者」としておけば良かったと後悔しています。『断絶の時代』で大儲けしたので、会社からは文句は言われませんでしたが、良い本は売れないという実例になりました。

藤原 日本には『傍観者の時代』を楽しむ読者は少ないですが、この本はヨーロッパの生きた現代史の名著であり、読むたびに強い感銘を味わいます。特にフロイトやポラニとの交友の記録などは、ウィーンの上流ユダヤ人社会の雰囲気が、実に生き生きと描写されていて、二〇世紀の光と影が見事に読み取れる。現代史の精髄を活写した芸術作品ともいえます。

斎藤 風間禎三郎さんの翻訳も実に風格があり、ドラッカーの人格が生き生きと表現されていて、あれが定本であることは疑いの余地がない。最近、自伝のような形で、同じ本が改訳されて読まれていますが、一種の省訳本に属すもので、かなりの部分が削られています。夫人のドリスが事実を知れば憤ると思います。特に女性の描写がカットされています。

藤原 冒頭にある彼の祖母の古風なウィーン気質の描写--風邪気味の夜の天使に同情して、咳ドロップを取りに五階の部屋まで戻った話などには味があります。また、四通のパスポートを持った旅の話は、まさに一幅のバロック様式の絵画で、よき時代のウィーン情緒が漲っている。この本の中での圧巻ともいえる「ヘムとゲーニア」は最良の官僚の生きざまや、サロンの在り方を活写したもので、「ポラニ家の人びと」における人物描写も感動的です。

斎藤 ドラッカーはよく離婚しなかったというほど、美しい女性に目がなかった。流石にウィーン子で、華麗でした。親友で経済学者の中には、何度も離婚と再婚を繰り返した人もおられましたが、ドラッカーもそうなりそうなエピソードには事欠かなかったのです。何回も離婚していて不思議ではない人でしたが、ドリス夫人が完全にリードして、実に円満な家庭生活を維持していた。ドリス自身、パリ留学時代に失恋を体験し、ドラッカーとは米国に駆け落ちをしている。人生の酸いも甘さも熟知している。この間、彼女と電話で話しましたが、「一〇一歳になった」と意気軒昂でしたよ。

ドラッカーをマネージ 賢夫人ドリスの叡智

藤原 ドラッカーは地位肩書きや収入には関心が薄く、若い頃から好条件の話でも「ノー」と断った。そんな彼も歳と共に脇が甘くなり、お人好しぶりが目立つようになった。そんな時、頭が良くて性格も磨き抜かれていたドリスが傍にいたことでずいぶん救われた。

斎藤 ドリスは賢さを外には出さない女性ですが、あるとき、自宅で着ていたTシャツに、「Behind successful husband, there is a suffered wife」とあったを見て、大笑いしました。ドラッカーもドリスにぞっこんで、「人生で最大の幸せは、ドリスに出会えたこと」と言うほど、完全に惚れ込んでいた。

藤原 彼女はパリ留学で法律を学び、英国留学ではLSE(ロンドン大学)で経済学を勉強し、次に米国に渡り物理で理学博士を取っている。そこらの賢夫人のレベルを超えていますね。

斎藤 彼女の回顧録を読むと、結婚後には弁理士になって、自分の発明で特許を取って、会社経営までやっています。生きたマネジメントではご主人以上でした。ただ、回顧録である一五年前に彼女がシカゴ大出版部から出した『あなたにめぐり逢うまで』は、売れなくて絶版になった。ところが、今回のブームの便乗で『ドラッカーの妻』というタイトルでかなり売れたという噂を耳にしました。別の出版社から違う題で出たと彼女が知れば、日本のやり方に驚くだろうと思います。

藤原 『ドラッカーの妻』という題名は主客転倒で、いかにもドラッカー・ブームに便乗しようと企てた、売らんかな主義が見え見えですね。『ドラッカーをマネージした女性』とつければ、ドリス夫人にぴったりの題になるのに。私が知る限りでは夫人のドリスこそが、ピーター・ドラッカーその人を育てた功労者だったし、彼女はドラッカーの真のメンターです。

斎藤 その通りです。ドラッカー先生は彼女を"My boss"と言って敬い、ドリスは講演から執筆の手配や面会客との時間取りまで、全てのマネージを司っていた。私が日本でのゼミナールを提案してお願いした時にも、"Don't kill my husband"と言われたことがあります。夫を人材としても大切に取り扱っていた点でも、素晴らしいパートナーでした。

藤原 私もそれを痛感しました。ドラッカーは寛容で「ノー」というのが苦手な、育ちのいい教養人でした。「極楽トンボ」と呼ばれても気にしなかった。右脳型のドラッカーに対して、左脳型だが右脳機能もいいドリスは、ドイツが生んだ傑作です。

斎藤 長女のドリスは母親から厳しく育てられ、彼女の回顧録に、娘時代、母親から「あなたもキュリー夫人のように、ラジウム以上のものを発見しなければ、私はお前の髪を引っこ抜くからね」と言われたことが書いてあります。また、親の束縛から逃れて留学した時にも、「あなたはロスチャイルド家の息子しか、結婚相手に選んだらダメよ」と言われた。でもドリスは「私には自由がある」と高らかに宣言し、外国留学に出発した。パリに留学したドリスは母親に背き、熱烈な恋愛をし、最後にはドラッカーと駆け落ちをした。

藤原 その相手のドラッカー青年に向かい、「極楽トンボのオーストリア人」と言い放ったというのだから、強烈な母親だった……。

斎藤 母親の追っ手を逃れるために、二人が石炭倉庫の中で一夜を過ごしたことなどちょっとしたドラマまで、その回顧録には書かれています。

成功する男の陰に日本の賢夫人あり

藤原 私は三〇年ほど米国に滞在する中で、ほとんどのジャパノロジスト(日本研究者)を観察してきましたが、成功している学者は圧倒的な割合で、日本の女性を夫人か愛人にしていました。彼女たちに共通するのは、モルガンお雪やグーデンホフ光子からの伝統です。育ちのいい賢い日本女性のお陰で、夫が成功するケースが多い。

斎藤 ライシャワー博士にはハル夫人がいました。ジョン・レノンの夫人になったヨーコ・オノにしても、安田財閥の安田善次郎の孫娘で、女子学習院卒の画家として渡米し、最後にはビートルズを陰で操るほどの女傑です。

藤原 特に日本を相手に活躍する人は例外なく、日本女性をパートナーにしている。だから、日本女性を抜きにした米国の日本学者は、ほとんど力がありません。

斎藤 その意味では男は大した存在ではないようで、成功の秘訣は利口な夫人を持つことでしょうか。

藤原 日本学者として世界的に知られている政治学者のチャルマーズ・ジョンソン博士も、オランダ系のシーラ夫人のほうが人類学者として、格段に優れている。そう言ったら、チャルマーズに「藤原はレイシストだ」と新聞に書かれた。私がアメリカ人を差別していると誤解されたが、男には見栄があるからひがみやすく、夫人を褒めても恨まれてしまうのです。

斎藤 そういえば大統領のケースが分かり易い。クリントンやブッシュも夫人の方が賢こかった。ドラッカーの場合も例外ではなかったかもしれませんね。

藤原 最近、日本学者として台頭しているコロンビア大学のカーチス教授も、自民党の佐藤文生代議士に密着して、選挙活動をリポートして学位を取っただけの学者にすぎません。
 彼は津田塾出の才媛であるみどり夫人の指導で、日本のメディアに足場を築いて出世して、小泉進次郎の育ての親とまで見られている。まさに内助の功です。みどり夫人と、菅直人前首相の信子夫人は津田塾の同窓です。さすがに米国は情報大国だけあって、巧妙な夫人の使い方を心得ています。鳩山内閣の対米独立路線を潰して、日本の属領化の継続を果たしたことと、無縁ではありません。

斎藤 奥さんが利口なら、夫人の母国で出世できる好例ですね。それならば、日本の男もせっせと国際結婚をして、外国で成功すればいいとおもいますが、女性に比べて日本の男は国際性が低い。この作戦はむりでしょうね。

藤原 最近の日本がダメになったのは、賢い女性が日本を見限って外国に行き、そこに新天地を見つけてしまうからです。悪妻でいいのは哲学者だけです。悪妻を持つことで成功した例は、クサンチッペにいじめられたソクラテスが、歴史的な事実として証明しています。

ドラッカーという"穏やかな"闘士

斎藤 政治の陰に女ありを地で行くみたいな話ですが、女性の役割は予想以上に重要ですね。だから、ユダヤ人は女の血統しか認めようとしないし、日本でも藤原氏は娘を上手に使って、政治を動かした。男が女に操られるのが歴史の真相です。

藤原 ドラッカー家はセファラダム系のユダヤ人で、彼の父親はフロイト家やポラニ家とも親交があり、オーストリアのメイソンの団長だった。だが、彼が書くものにはユダヤ臭がないし、育ちのよさと独立心が漲っている。それは彼がユダヤ人を超越しており、ヨーロッパ人になっているからで、そこに彼の人格の素晴らしさがあります。ある意味ではハプスブルグ王朝が持つ、寛容な多様性と包容力に満ちた伝統が、バロック的な馥郁とした香りを伴いながら、彼の柔軟な人柄に宿っている。

斎藤 本当にユダヤ臭を感じさせない人ですね。彼がオランダ系のユダヤ人であると、知らない人も多いのではないですか。

藤原 彼をヨーロッパ人だと感じたのは、山で遭難して半身不随になった親類の伯爵が、第一次世界大戦前の社会主義に希望を託し、平和を希求したけれども裏切られた話を読んだ時です。ヨーロッパの紳士階級の若者が戦争で死に絶える悲劇が起きて、未来の指導者が世代として失われ、信念もビジョンも理想も喪失する悲劇を招いた。しかも、戦争への熱狂と国家主義によって、虚偽と絶望へと猛進して行く--今の時代と二重写しになって不吉です。

斎藤 高校を卒業して直ぐオーストリアを脱出し、彼はハンブルグで仕事をするわけですが、その後、ロンドンやフランクフルトに行き、働きながら大学で学び学位まで取り、二〇代で凄い体験をしている。それがドラッカーの見識の基礎を作り、豊かな人格を育て上げた。それが日本人の理想主義と共鳴したことで、多くの信奉者とファンを生んだのだと思います。

藤原 人間としてのドラッカーの魅力は、高潔さと品位を誇る紳士としてヨーロッパのエリートが引き継いできた、豊かな感性と優雅な人となりにある。ノブレス・オブリジュの精神というか、金儲け優先のアングロジュダサクソンと違い、拝物主義を感じさせないことで、接した人に信頼感を与えるのです。

斎藤 高度成長期を支えた日本のエリートは、理想主義と挑戦への意欲が強かったし、信頼への誇りと責任感を意識していた。だから、人材育成の重要性を訴え続け、経営責任と成果主義を強調するドラッカー理論は熱烈に受け入れられました。しかも、日本美術の愛好家のドラッカーは、趣味の良さを誇る財界人たちにも敬愛されて、実力で信用を勝ち取ったのです。

(次号に続く)


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