『財界にっぽん』2002年9月号



広島市立美術館に贈られたサン・ミゲルの娘たち

──原爆とホロコストを結ぶ平和運動の礎石──

文と構成 藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)在米



サン・ミゲルの娘たちの持つインパクト

 新世紀を期して「サン・ミゲルの娘たち」と題した作品が、世界で最初の原爆を被災した広島を訪れて、世界中から平和への巡礼のために集まる人々に展示されることになった。
 「サン・ミゲルの娘たち」の作者は抽象画家サム・クリスツェンシュワイクであり、ロスに住むオランダ生まれでポーランド系ユダヤ人の彼は、スピノチュアリストとして独特な画風を持つことで知られている。
 その出発点にピカソの「アビニヨンの娘たち」があり、ピカソに対峙するサムの独特の表現様式は、暗さと悲惨さを徹底的に描くことによって、悲劇のスピリチュアリストとしての地歩を築いている。サムはナチスのホロコストの生き残りであり、父親がアウシュビッツで殺されているし、身内の多くがホロコストの犠牲になっている。
 広島が定住の地となった「サン・ミゲルの娘たち」は、三年を費やして、一九七〇年に仕上げたもので、これはサムの最高傑作の油絵である。






 物質主義と技術至上主義に汚染された近代人は、戦争と拝物主義で二〇世紀を毒して自己疎外に陥ったが、この絵は前世紀の悲惨さを執拗に告発しているので、合計で五〇〇号になるこの三部作の絵は絶大な迫力を持つ。
 生きる喜びを謳歌しているメキシコ娘たちが快活で陽気であればあるほど、一瞬の暗転は悲惨な情景に激変してしまうのであり、悪魔性と共存する現代文明に無知であれば、人間の良識は「蜘蛛の糸」に似た存在になってしまう。近代における多形倒錯の欺瞞に挑んだサムは、病理的な文明の悲惨さを収束と爆発の形で描き、警鐘をイコンの形で統合して告発するのである。
 三原色を主体にした色がパースペクティブの中で、収束と爆発の果てしない繰り返しで破壊、分散、解体の後に、点に集まり、次に飛び交いながら拡散して行くエネルギー渦として生命体の生と死を表象する.しかも、生き残ったことの罪悪感に苦しんだサムは、生と死の相克を血と肉の色で表現して抽象化し、不幸な時代性を乗り越えようとしているのである。


ロスのアーチスト村で知ったエピソード

 ロサンジェルスが誇る、巨大なサンペドロの埠頭には、自動車や電化製品を始めとしたアジア諸国の商品が、太平洋を横断のコンテナ―船で連日のように到着し、好況が続いたアメリカ経済に生命力を供給している。港口のファーミン岬のマッカーサー基地は、第二次大戦の時は堅固な要塞だったが、現在ではアーチスト村として多くの芸術家たちが旧兵舎をアトリエに使っている。
 このアーチスト村にアトリエを持つ画家の一人に、帯米三〇年を越える坂田英夫画伯(一九三五年生れ。当地風に以下ヒデオと記す)がいるが、垂直と水平の交差の奥に生命の炎が燃える彼の絵のライトモチーフには、原爆被爆者としての体験がカンバスに凝縮しており、彼は主にヨーロッパ諸国を個展の舞台にしている。
 あるロヒデオのアトリエを訪れたら顔を赤くして苛立っていたので、何事が起きたのかと怒りの理由を尋ねたら一枚のファックスを示して、「藤原さん、これを読んで下さい。全くふざけている」と吐き出すように言った。ファックスは手紙というより見積書みたいなもので、梱包料が五万円で輸送料が二五万円といったことが書いてあり、私には文面の意味がさっぱり分からなくて目を自黒させた。
 ヒデオは噴き出した汗を拭いてからいきさつを説明したが、それは絵の寄贈の申し入れに美術館が輸送料の負担をほのめかす、非常に無礼な返事を寄稿したということだった。絵を寄贈する話には興味深い話が絡んでおり、思いがけないいきさつが縁結びになり、私はこの話に深くかかわることになったが、不思議な因縁の話は次のような内容である。
 同じ画廊でサムとヒデオが個展を開いたのが縁で、二人は緊密に交際するようになったが、ホロコストの生き残りのサムに対して、同じ歳のヒデオは八歳の時に長崎で原爆に被災していた。絵のスタイルだけでなく過去の人生において、共通する不思議な体験で結びついており、地上を生き地獄にした戦争体験を持つので、技術文明を克服するための心の表現を試みる二人は、同じ芸術家村で作品化を続けていると言うのだ。
 ヒデオが原爆の被災者であると知ったサムは、自分が白血病で余命が残り少ないことを考えて、戦争の悲惨さと技術文明の暴挙を告発することが、平和の確立と人間性の復活に役立てばと思い、長崎に自分の作品を提供したいと相談した。感激したヒデオは出身地の長崎の美術館に連絡を取り、サムが自分の作品を寄贈する意志を持つので、美術館として五〇〇号の大作をどんな形で受け入れるかに関して、長崎側の意向を問い合わせる手紙を出したが、半年が経過しても何の音沙汰がなかった。そこで再び問い合わせをしたところ送料負担を臭わす返事がファックスで届き、偶然そこに私は行き合わせたのであった。


広島の持つ偉大な歴史性への覚醒

 サムは現代文明の悲惨さを病院制度に象徴した病院シリーズを始め、同棲した日本の女性を通じて得たものをジャパネスク作品にしているが、私が最初に「サン・ミゲルの娘たち」に接した時は、何とも言えない強烈な苦悩が沸き上がって来て、これはたまらないと叫びたくなるような衝動に包まれた。
 自らの巨大な絵を運んで展示してくれたサムは、「人間性の喪失が挫折体験になった後で、人間は失ったものの価値を再発見するのであり、女性が持つ神秘性と永遠性の確認を通じて、エロスによる救済がもたらされるのだ」と眩いたのだった。
 「サン・ミゲルの娘たち」を作品化した動機の中に、悲惨さからの救済の思いが籠められているとしても、私には残酷さへのルサンチマン(恨み)の結晶として名高い、ソフィア王妃美術館にあるピカソの「ゲルニカ」を見た時と同じように、耐え難いほどの胸苦しさに支配された。
 「ゲルニカ」はスペイン北部の古い町の名前で、スペイン内乱下の一九三七年四月二六日に、フランコ将軍を支援するナチス・ドイツの空軍が、無差別爆撃で市民を大虐殺したことで知られている。この野蛮で非人道的な破壊行為に激怒して、その悲惨さを描いたピカソの記念碑的な作品は、ニューヨークの近代美術館からスペインに返却され、マドリッドを世界の巡礼地にしたほどである。
 戦争と共に技術の非人間性を告発するサムは三年を費やして、「ゲルニカ」を越えた作品の完成を目指して血と肉の色をキャンバスに塗り込み、この「サン・ミゲルの娘たち」を仕上げたのだから、私はこの作品はどうしても広島に飾るべきだと考えた。そこで、広島軍司令部参謀部員として広島で被爆して生き残り、特異な体験を通じて戦争の悲惨さを強く意識している、読者の宍戸幸輔さんが住む横浜の自宅を訪口の時に訪ねた。
 彼は広島の原爆記念館の展示が実際を示しておらず、飾り物で悲惨さの実際と隔絶が大きいとしてNHKや中国新聞を訴え、独力で最高裁まで正しい報道を求めて争った熱血老人だ。しかし、幾ら努力しても絵の寄贈を受入れる体制がないので、次にお互いが読者である鹿児島の烏帽子山最福寺の住職で、広島大学医学部の非常勤講師の池口恵観さんにサムの気持ちと希望を伝えて、この絵を生かす名案を考えてもらうようにと依頼した。
 そして、春の連休にジャーナリストの若宮清さんの案内で、池口大阿闍梨がロスを訪れサムのアトリエを訪問したことで、サムの生命力が再び活性化したのである。
 サムの余命が奇病で残り少ないと知った池口さんは、百万枚護摩炎の行者として加持祈祷でサムの白血病を消すと共に、その年の秋にアウシュビッツに慰霊の旅を実現している。また、RPJ(ラジオ・パシフィック・ジャパン)の水野社長が広島に行き、現地の関係者と受入れについて話しを進めたので、最終的に広島市立美術館が受入先に決まり、美術館の代表が確認のためにロスを訪れ、寄贈されるサムの絵を展示することになった。
 ジャーナリストとして私が残念に思うのは、日本の美術館は寄贈を受け入れるお上の体質を持ち、芸術家から寄贈を受けても展示式に招待もできず、国際的な礼儀の点で失格といえる貧相な体質を克服できないことだ。こんな状態なのに文化国家だと自称すれば滑稽であり、世界から物笑いになるのは当然であるが、アメリカの富豪が美術館にコレクションを贈って、フィラントロピイ(社会への恩返し)が普及しているのに対し、日本のお粗末な対応は恥ずかしい限りと言うしかなく、文化三流国の実態を垣間見る思いがした。


広島を真珠湾やアウシュビッツ以上の聖地にする夢

 アメリカに二〇年ちかく住んでいる私は、毎年一二月七日(日本時間で八日)になると全米規模で、大規模な戦没慰霊式典を行うだけでなく、真珠湾の戦艦アリゾナの記念館を中心にして、死者に対して追悼を行う光景を目撃している。そして、いつも厳粛なセレモニーをくり返す伝統を積み重ねて戦争の悲惨さと愚行を強調することにより、歴史の教訓を次の世代に伝えるという意味で、真珠湾が一種の聖地になっていると実感する。
 その点で広島は真珠湾以上の価値を持つのに、戦争体験の記憶や歴史が風化するに伴って、日本人はその価値の偉大さを見失っており、世界に向けて核廃絶を訴えるメッセージが、必要な迫力において欠けていると痛感する。二一世紀の平和運動の世界的な拠点として、人類最初の原爆の被災地広島ほどの場所はなく、ここに戦争や環境破壊に対決するセンターを作れば、日本人は新しいビジョンを確立できるのではないか。
 宗派や教団の枠組を乗り越えて宗教界が結集し、役人根性と無縁な民間人の力(NGO)を中心にした、新しい文化運動の潮流の源泉にすれば、広島は核兵器だけでなく戦争廃絶の拠点として、平和を願う全世界の人々の心の故郷になる。一つ覚えのように靖国神社への参詣にこだわり、軍人だけを戦争犠牲者にして市民の犠牲者を無視し、世界から孤立した状態で戦争問題を強調したがる、偏狭な国際感覚の首相しか持ちえなくても、日本人は市のレベルで世界と連携する上で、世界に誇る尊い犠牲者の聖地を持っている。
 しかも、過去の過ちを反省するのも確かに大切だが、将来に同じ過ちを犯さないことは更に重要であり、過ちを生む可能性の芽を現在において摘み、過去の教訓を次の世代に伝えなければならない。そして、犠牲者の冥福を祈ることに留まらずに、原爆だけでなく原子力発電の被爆をも含めて、犠牲者の悲惨な様子と被害の実態を示すことで、広島はアウシユビッツやチェルノーブル以上の存在になる。また、恐ろしい放射能による生命への脅威と共に積極的な姿勢で戦争を告発することで、軍備の廃止と地上からの戦争の根絶を訴えて、新生広島を聖地に結びつける鍵は日本人の決意の中にある。
 サムが寄贈する絵を軸にして展示施設を作り、世界中の芸術家に呼びかけて作品の寄贈を求め、反戦と平和をテーマにした美術館に育てて、そこを世界における文化センターにすれば、広島に新世紀の巡礼者たちが集まるだろう。
 現在の日本は後ろ向きの対応に終始しており、太平洋戦争が関係すると謝罪するだけで、戦争を廃絶して平和を確立する点に関して、確固とした意志の表明と実践の姿勢がない。だから、核武装を国是にして力の妄信に陥り、生命の生存を絶つ危険を認めようとしない。米国、英国、フランス、ロシア、中国に対して、断固とした態度で抗議も出来ないでいる。
 核兵器を保有して誇示するのは国家であり、傲慢な核クラブのメンバーを構成することで、地上における生命の存続を脅かしている。だが、平和を希求する全世界の人びとと連帯して、正義を掲げて戦争の廃絶に立ち向かう上で、「サン・ミゲルの娘たち」が切り札になる日が来るならば、それが「地上の平和」へ第一歩になるに違いない。


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