『ニューリーダー』 2005.09月号



《対談》歴史角発掘(中)
正慶孝 明星大学教授
藤原肇 フリーランス・ジャーナリスト




『成功が失敗の元』となった日露戦争の教訓
帝国主義の世紀と情報時代の黎明の狭間で



歴史を立体的にとらえる発想

藤原 日露戦争の勝利を頂点に日本の没落が始まり、それが太平洋戦争の無条件降伏に結びつくわけだが、日露戦争の個々の局面を取り出して論じる以前に、世界史の中で日露戦争を位置づけることが必要です。そうすると、黒船に強要されて徳川幕府が開国した一九世紀の半ばの時期が、植民地主義から帝国主義への移行の段階であり、二〇世紀に入って帝国主義の隆盛期になる。そのへんのところを、正慶さんの手馴れた語り口で、簡単に総括してもらうことから始めたいのですが……。

正慶 世界史的な視点で事件をとらえることは大切です。日本人はともすると、歴史を時間の流れで縦に見がちで、織田信長から豊臣秀吉を経て徳川纂府が成立し、天草の乱を契機に鎖国政策が二五〇年も続いたと考える。しかし、関が原の戦いがあった頃を世界の歴史との関連でとらえれば、オランダの「リーフデ号」が漂着した同じ時期に、ロンドンのグローブ座はシェークスピアの芝居を演じ、英国の東インド会社が設立された二年後には、株式会社形態のオランダの東インド会社が生まれた。
 こういう具合に歴史を横に見ることによって、ある事件が起きた時代が立体的に理解できます。

藤原 そういう具合にパースペクティブに歴史をとらえる習慣が、日本人にあまりないことが歴史感覚の欠如の原因になっていますね。

正慶 同じように、幕末の日本を観察してみれば、日本の開国から混乱を経て明治政府ができるまでは、植民地主義が世界的規模で拡大した時期です。南北戦争も北の工業資本と南の農業経済が覇権を争い、それが内戦になったのだと考えることにより、イタリア統一やプロシアのドイツ支配に呼応するとわかる。
 また、明治維新はスエズ運河の開通とほとんど同じ時期であり、アメリカではJ・P・モルガンやロックフェラーが支配を始め、ヨーロッパでは普仏戦争でプロシアが勝っている。産業資本主義が独占化の時代になったことによって、帝国主義が世界に君臨し始めるわけです。

藤原 歴史の動きが実にビビッドにわかりますね。

正慶 そうです。しかも、最近読んだ本で興味深かったのは、『石の扉』(新潮社刊)というフリーメーソンについて書いた本の中の記述です。長崎で貿易商だったグラバーはフリーメーソン会員ですが、若き日の伊藤博文、井上薫、五代友厚、森有礼など、薩摩や長州の若者を大量にイギリスに送り込んでいるし、坂本竜馬や岩崎弥太郎に対して商売のノウハウを教えている。こういう人材教育をしたのは実に意味深長です。

藤原 要するに、秦の始皇帝に対して「奇貨を置いた」呂不章のイギリス版です。金や物にスペキュレーションするのではなくて、人材に対し投資しているのは大したものです。
 日本人も碁を打つ時には名人は布石をするのに、最近の日本は碁の王国のくせに人材が枯渇しており、布石を打つのを忘れるような人ばかりですね。

正慶 人材育成は影響が長期にわたるという意味で、以前から布石をしておくことによって効果が期待できるのに、布石を文字通りストーンと落としている(笑)。

藤原 いつの時代にも洞察と先見力を持つ人はいるし、一八世紀から一九世紀にかけては啓蒙の時代だった。だから、フリーメーソンには人材を育てる人が多かったのでしょう。ただ、二〇世紀は個人主義が支配する時代だから、有能な人は組織の中に入ることは少ないし、卓越した人が世の中で活躍している。要するに、それは枠組みを越えた人であり、時代を越え利害を越え、己を越えという具合に発展して……。

正慶 国境を越え……。

藤原 すべてを越えて人間として自立していく。

正慶 だから、普遍的な人間として活躍するわけですね。

藤原 その通りです。


菊と葵≠ェつながった明治政府

正慶 グラバーは長崎で商売をしていた関係もあり、彼が密航の手続きをして留学した日本の若者の多くは、主に英国で勉強し明治政府で仕事をした。一方、幕府側には西周や榎本武揚のようにオランダ留学とか、渋沢栄一のようにフランス体験をした者がいる。明治政府は能力のある人材を活用したから、かつての敵だった幕府の人間も勝海舟や陸奥宗光のように、明治政府の中で活躍しているのは面白い。

藤原 榎本武揚のように五稜郭で官軍と戦った者でも、ロシア公使や外務大臣に抜擢されて活躍した。勝海舟だって海軍卿や枢密顧問官にまでなり、伯爵の位までもらっている。そのため攻撃され、意地の汚さを福沢諭吉に皮肉られている。

正慶 大久保一翁だって活躍しているし、徳川公爵だって貴族院議長になっている。

藤原 明治の華族の圧倒的な部分は徳川家であり、皇女和宮の結婚を見ても徳川家茂が相手だし、徳川家は天皇や公卿と縁組をしている。要するに、将軍職を辞めて地下から皇族の中に潜り込んでいて、外務省の紋章は徳川の葵紋なんですね。

正慶 それを象徴しているのが皇居の建物です。江戸城の建物には百人屋敷というのが残っているし、その屋敷の瓦は葵と菊が半々くらいだ。だから、葵が壊れると菊に変わるのだと言われているが、本質的に葵と菊とはつながっている。

藤原 江戸城は徳川将軍の住居としての城砦ですが、城は戦争をするために建造された軍事機構の一部だ。そんな要塞に天皇が住むのは問違いだのに、それを指摘する日本人がいないのはおかしい。天皇は「こんな要塞は自分の住まいにふさわしくない」と主張すべきだし、国民の側からもそういう声が上がる必要がある。

正慶 確かにそれは正論です。しかし、日本国憲法を見ても首都がどこか書いてないし、公用語が日本語だということも書いてない。

藤原 そうですね。また、日本という漢字を日本文字の平仮名で書く時に、「にほん」と書くか「にっぽん」と書くのか決まっていない。コンピュータで「にっぽん」と打ち込むと誤植のサインが出て、「オヤ間違ったかな」と思うことがよくあるから困る。

正慶 そうですか。お札には「NIPPON GINKO」と書いてあるが、果たして国名は「NIHON」なのか「NIPPON」なのかわからない。もっともヘボン先生にしても、未だにヘボンを押し通しているが、あれは女優のオードリー・ヘップバーンと同じ姓でしょう(笑)。

藤原 高橋是清はヘボン先生から英語を習ったようだが、一三歳くらいで渡米する前の頃だったらしいから、きっとヘボンと発音したのではないでしょうか(笑)。

正慶 福沢諭吉も長崎で習ったオランダ語が通用せず、横浜で英語に転向した、と伝記に書いている。誰もまともに英語を発音できなかったのでしょう。それくらい、幕府側の日本人にとって英語は馴染みがなかった。
 ペルリが四隻の黒船で浦賀沖に来た時には、幕府には堀達之助というオランダ通詞がいて、彼が最初の英語をしゃべった通詞だと言われている。「アイトーオクダッチ」としゃべったという話です。アメリカ側はオランダ語の通詞を乗せてきていて、交渉はオランダ語でやったようだが、後になって、長崎から守山栄之助という人が江戸に来て完壁な英語を使った。それで、日本人が英語をしゃべるのは不思議だと思ったら、蝦夷地から長崎に送られて英語の教師をした、あの米国の探検家マクドナルドの弟子が守山でした。 言葉と富を官に簒奪された日本人

藤原 その他にも、英語使いとしてジョン・万次郎もいましたが……。

正慶 ジョン・万次郎は武士の身分でないために、部屋に入れないので隣の部屋で聞き耳を立てながら、会話をモニターするような仕事をさせられたが、後になって十分に取り立てられて通訳になった。それとともに、話が飛躍するけれど、大事だと思うので強調しておきたいのですが、明治の初期に国策をどうするかが問題になって、「富国強兵」という方向で将来進む路線が打ち出された段階で、前田正名という人が『興業意見書』を提出している。そして、国家が強くなるためには国民が強い必要があり、富国は国民の富のことだと論じているのです。

藤原 そうでしたか。それが本当のコモンウェルスの思想ですね。

正慶 前田の洞察力というのは時代に抜きんじており、一人当たりの国民所得をいかに高めるかを考えた点では、アダム・スミスの『国富論』のテーマと同じです。公的部門を大きくすることではなくて、プライベート・セクターの育成が重要だったのに、その後の日本はその方向に行かないで、国家資本主義化をたどった。残念なことです。

藤原 日本では公的部門の発想が狂っているために、官的部分がパブリックを僭称して乗っ取っているが、天下り役人にビジネスができるはずがない。

正慶 おっしゃる通り役人が言葉を簒奪している。日本は明治維新から日露戦争まではもちろんだが、未だに日本人は言葉を役人に奪われている。レーニンは資本主義について区分していまして、市場の発展のしかたに英米型とプロイセン型があり、英米型は下から起きてくる革命になるのに対し、プロイセン型は上からの改革になる、という。

藤原 下からやればそれは市民革命になる。

正慶 そういうことです。レーニンが言う資本主義の二つの道で、日本は上からの改革をつねにやってきた。官立の模範工場を作って儲かるようにし、富岡の製糸工場のように民問に払い下げている。ここにきて公団や特殊法人が問題を起こし、日本の資本主義発展のやり方が改めて問われている。

藤原 「北海道官有財産払い下げ事件」のように、儲からない段階でも利権として処分する政治的な企みの系譜は、小泉内閣の道路公団や郵政の民営化であり、日本人は明治以来「同じ穴のムジナ」にたぶらかされている。とくに最近は情報化時代の威力を使って、メディアを使った情報操作の技術が進み、明治時代と同じ権力による欺瞞が蔓延している。しかも、報道界や国民の情報感覚が立ち遅れて、情報公開がほとんど実現していないために、政府や役人は好き勝手のし放題だ。

正慶 まったくです。明治時代は幕府側のサムライが言論界に陣取って、反骨の姿勢で反権力の言論活動をしていたけれども、今の日本には反骨精神は存在していない。


漁夫の利≠狙ったヴィルヘルム

藤原 日露戦争の原因についていろいろ考えてみたら、日清戦争の結果が大きなコンプレックスになっている。「二国干渉」による遼東半島返還の屈辱感を利用し、政府が「臥薪嘗胆」を掲げて反露感情に火を着け、民主主義を盛り上げた影響が濃厚です。

正慶 確かに、「三国干渉」は日本人の感覚を痛打した。徳富蘇峰をはじめ、日本の、言論人の多くが国家主義に転向して、ものすごい反露感情を燃え上がらせましたね。

藤原 それが日露戦争に踏み切る原因になったとしたら、ロシア、プロシア、フランスの三国の死闘としての第一次世界大戦に、日露戦争の鏡像が読み取れるはずです。またプロシアのヴィルヘルム(カイゼル)とロシアのニコライニ世(ツァー)の二人は、英国のヴィクトリア女王を介して従兄弟同上だから、利害関係で見ると「遠交近攻」の政略を使うことで、自国の立場を有利にしようと画策した。

正慶 ヨーロッパの王室の姻戚関係は複雑に絡み合うので、その間の人間関係を理解しないと歴史の真相がよくわからない。ヴィルヘルムはニコライの妃がドイツ貴族の娘だから軽蔑したし、年下のニコライニ世を馬鹿にしていたが、仏露の仲を裂きロシアの関心をアジアに向けるために、カイゼルはいろんな形で謀略工作をしている。

藤原 カイゼルは太平洋にロシアの関心を向けて、大陸から日本を追い出せと扇動している。その挑発に日英同盟を作る工作をしたが、それが日露戦争への見えない布石になった。そして、ロシアには後方支援で兵器を供給して、クルップやジーメンスを売り込む工作もしている。
 日露戦争を全体像として眺めると、ロシアの場合はレーニンなどの革命運動の動きがあるうえに、ロシア帝室内ではラスプーチンが暗躍している。プロシアではバクダッド鉄道による3B政策をはじめとして、ドレヒュス事件で独仏の国境が緊張しており、地政学的に見ると面白い状況がある。それに、英国はボーア戦争で忙しかったから、ウィリーとニッキーと互いに愛称で呼び合って、皇帝たちが征服欲のために権謀術数を駆使したが、「漁夫の利」を狙うカイゼルが一枚上手でした。

正慶 ニコライは大津事件で日本人に斬られた体験を持ち、カイゼルに比べると小男で風采が上がらない。そのうえ、皇后が怪僧ラスプーチンに傾倒していたから、そこをカイゼルにつけこまれてウィッテまで排斥している。そこで、カイゼルはドイツが抜けた形の日英同盟を種にして、ニコライに露骨な手口で対日戦争を煽ったのです。

藤原 その歴史的な鏡像が第一次世界大戦のパターンですね。

正慶 日露戦争にはカイゼルの謀略と並んで、陸軍武官の明石元二郎の謀略活動が貢献している。あの後方撹乱は面白いですね。「明石の仕事は一〇個師団に相当した」とカイゼルは評価したが、明石大佐はレーニンとも接触しています。

藤原 その意味では日露戦争は謀略戦の要素が強いですね。この戦争は『ロンドン・タイムス』紙のモリソン記者が仕掛けたとする『日露戦争を演出した男モリソン』(東洋経済新報社刊)は、実に教訓的な内容の本です。オーストラリア人で北京特派員のモリソンのペンの力が、情報収集力と分析力の威力で世論を動かし、ポーツマス講和で日本を勝者にした。ところが、日本政府の戦後処理の不手際のために、大日本帝国の滅亡につながっている。

正慶 日露戦争における英国のメディアの威力は絶大で、それが日本を戦勝国にしたのは疑いの余地がない。これが英国流のソフトな戦力の実態であり、二〇世紀が情報時代であることの証明になった。でも、今の日本政府の支離滅裂な外交に比べたら、あれだけ粘って講和を締結した点では、五尺足らずの小村寿太郎外相は実に立派だった。

藤原 しかし、ロシアのウィッテ全権は顧問団を世界レベルのトップで固め、報道担当に英国の国際政治評論家のディコン博士を据え、『ロンドン・タイムス』紙のワレース前政治部長や『パリ・マタン』紙のアデマン記者も同行している。そして、大々的なキャンペーンを展開して、メディア好きなアメリカ人を相手に好評を博した。一方、日本の小村全権はメディア対策をしなかった。それを、伊藤博文の参謀役の小松緑が『明治外交秘話』(原書房刊)に書いている。日本の外交はいつの時代でも見劣りしますね。


見識ある少数意見の価値を知る

正慶 それが「職場で失ったものを交渉の場で取り戻した」という、名高いウィッテ外交とメディア対策の舞台装置です。その後遺症が国論を分裂させただけでなく、「成功が失敗の元」の出発点を作ってしまったのですね。

藤原 「成功が失敗の元」という意味では東郷平八郎元帥もひどい。対馬沖海戦では見事な勝利をおさめているが、退役してからは艦隊派の頭日に祭り上げられ、「日月火水木金金」という精神主義を鼓舞したので、連合艦隊が誇る合理主義を歪めてしまった。

正慶 東郷さんは英国の海軍上官学校に入れなくて、ウースターの商船学校に入って航海術を学んでいる。商船学校は陸地になく海上で操縦訓練したから、敵前であれだけ上手に左転回したT字型作戦をやり、ロシア艦隊を全滅して大勝利を得ている。これは海軍十官学校に行かなかったおかげで、ウースター・ソースを堪能した東郷さんが、間違えて入った失敗を成功に転じた例です(笑)。

藤原 戦争や武力行使は超法規の発動に過ぎず、日露戦争は日本の失政の歴史の一幕です。成功でさえ失敗の元になるのだから、間違いが成功の元になるのは稀なことですね。
 誰の本を読んだのか記憶にないのだが、日露戦争の外債の償還が第一次大戦の前で、利息を払う金がないので高利で借り換えた。この国辱債権が昭和初年に償還期を迎えたが、震災手形と重なり金解禁をやらざるをえず、それが井上(準之助)デフレ≠フ財政的な背景を作っていた。これが昭和のファシズムの台頭を招いたので、日露戦争は日本の軍国主義の生みの親です。しかも、外債は日本政府の赤字国債の借り換えと同じで、問題を解決せずに先送りする愚行だのに、大破綻が近い将来に必ず襲来する点でも、日露戦争の教訓は生かされていない。

正慶 でも、全否定はよくない。日露戦争で最も貴重な教訓だと思うのは、対馬沖海戦の二日前の五月二五日にあった、旗艦「三笠」での作戦会議において、ロシアの艦隊がどこに向かうかという分析の場面です。他の参謀はいろんな意見を開陳したが、対馬海峡だと主張したのは藤井較一大佐だけだった。藤井が意見を変えないので東郷平八郎は彼を別室に呼び、「どういう根拠でそう主張するのか」と糾したら、「最短距離は対馬だから、必ず対馬沖に来る」と断言した。そこで東郷は藤井説を採用して「密封命令」を出し、二日後に運命を決める大勝利を手に入れたのです。
 これはある意味で少数意見の尊重であり、民主主義は多数決で決める原則があるが、大事な時には見識のある人の意見を尊重すべきで、それが愚民政治を避ける唯一の方法です。

藤原 その通り。今の日本のようにポピュリズムが支配して、大衆が雪崩れるようにして同じ考え方に従う時代には、見識ある意見は少数であるがゆえに貴重です。しかも、声の大きな自称オピニオン・リーダーに引きずられ、日本の政治家や財界人が憲法改正に同調して、それがまるで世論であるかを装う時代には、洞察力に支えられた長期的な視野を持つ人が、いかに良識ある発言をするかにかかっていますね。

(次号に続く)


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