『ニューリーダー』2002年8月号

《特別対談》
国際コメンテーター(在アメリカ) 藤原肇
国際政治思想史学者(在カナダ) 将基面貴巳





どう建て直す? どん底まで堕ちた日本の大学教育改革は95%の無能教授解任から始めよ


米国大学の知的水準は西欧に劣る

藤原:将基面さんは政治思想史がご専門で、慶応大学卒業後、英シェフィールド大学で学び、ケンブリッジ大学で教鞭を取った後、カナダで研究生活を送り、10年ぶりに日本に帰られた。一方、私はもともと地質学が専門で、仏グルノーブル大学で学んだ後、カナダで10年、米国で20年近く過ごし、父の死を機に東京に戻った。お互い日本人としてはおそらく1%もいない異端的なキャリアを持つ者であり(笑)、それぞれが実地に体験してきた各国の教育制度との比較検討から、日本の教育問題について討論したいと思います。
まず、現在の日本人は留学といえばアメリカを目指しますが、私のように欧州から米国に渡った人間には、米国のレベルの低さが目につく。というのは、19〜20世紀の西欧文明のメインカレントは、オーストリア・ハンガリー帝国に源を発し、帝国とその周辺に生まれた人々がパリ、ロンドンで研鑽し、北米にいわば輪出したものであり、経済力はともかく、教育や情報においては、末だに一極のドミニオン、独立していない属領のようなものではないか。カナダはもちろん、アメリカも知的には英国の植民地だと思います。

将基面:おっしゃる通りで、カナダの学会は非常に閉鎖的である点で日本に似ています。また、アメリカも縦割りである点で日本に似ている。例えば、北米で政治学を教えるには、政治歴史学のディプロマが不可欠という、いわばタコ壷型であり、各学科が完全に縦割りになっています。一方、ヨーロッパ、とくに英国のオックスフォード、ケンブリッジはカレッジ・システムの伝統が厳格に守られており、カレッジ、日本でいうところの単科大学の集合体でありながら、カレッジ・ディナーなど、専門の異なる教授、学生がコミュニケーションする機会が日常的に用意されている。そこでは時に、歴史学者と宇宙物理学者が隣合わせて食事をしながら話すことによって、互いに切磋琢磨する。自らの専門領域にだけ閉じこもっていればいいというわけには絶対にいきません。

藤原:確かに、オックスフォード卒の私の友人たちも、「オックスフォードでは単位など取らなくてもいい。ディナーに500回参加することが卒業の条件だ」「教室よりカレッジ・ハウスが大事だ」といいます。学生は自分の専門分野に関してはそれぞれのカレッジに属し、チューターと呼ばれる指導教官の下で基本的に一対一の個人授業で学ぶ。一方で、他のカレッジの学生や教授ともつねにコミュニケーションして研鑽を積む。いわばカレッジ・ディナーがアカデミーであり、単位をこれだけ取得せよという枠組みなどない。日本の大学、ユニバーシティとはまったく違いますね。

将基面:アメリカや日本のような専攻ごとのきめ細かいカリキュラムは存在しません。むしろ、カレッジ・システムで養われたヒューマニティやソーシャル・サイエンスのベースこそ、ヨーロッパではごく当たり前であり、縦割り、タコ壷型とはまったく違います。

藤原:要するにオックスフォードは、広大な植民地も含めた大英帝国を担う支配者としての人間を作る場所だったわけです。例えば、19世紀にはインドを支配する官僚育成が伝統的役割であり、アメリカのモンロー主義に比べて、英国の帝国主義のノウハウはやはりすごいともいえる(笑)。米国は伝統的に、政治・経済に限らず教育や情報に関してもモンロー主義で、自国の国益を最優先する一種のローカリズムを待っている。
例えばジャーナリズムにおいても、私は米国の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は金儲けの話ばかりで読むに値しないから、英国の『ファイナンシャル・タィムズ』」紙一辺倒です(笑)。『日本経済新聞』も書けないような、日本のデフレに関する分析に感心されられたりする。問題の全体像や核心をとらえる力に歴然とした差がある。私が米紙で唯一読めると思っているのは『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』ですが、これも、米国のクォリテイ・ぺ−パーである『ワシントン・ポスト』『ニューヨーク・タイムズ』両紙をベースにしながら、パリで編集し各国で印刷している。世界で活躍するアメリカ人ビジネスマンに読んでもらい、ほれぼれするような掘り下げを感じさせるには、ヨーロッパで編集しない限り不可能なんです。

将基面:確かに、カナダの新聞も『グローブ・アンド・メール』なら英紙『ガーディアン』からの転載以外は読むに値しないし、『ナショナル・ポスト』なら読める記事はやはり英紙『デイリー・テレグラム』からの転載だけという皮肉な面がある。

藤原:たんにアンチ・アメリカで片付けられる問題ではなく、欧米における知的な流れの根幹に関わる話です。世界をいかに考えるか、とくに中東やアフリカの問題となると、アメリカはなにも分かっていないのに対して、植民地を持っていたイギリスはさすがで、大英帝国主義のノウハウはあらゆるジャンルですごい(笑)。将基面さんは、帝国主義の一方の巣窟たるケンブリッジで教えていたわけですが、オックスフォードよりはリベラルだったでしょう。

将基面:ケンブリッジは、オックスフォードに比べて緻密なカリキュラムで大量のレポートを提出させ、スピードを要求するという部分で東大型に近く、事務処理に向く人間をより多く輩出しますね。一方のオックスフォードには各教師の自由があります。私の専門である政治思想史ひとつとっても、好き勝手になんでも教え、同じテーマが重なっても各教師が独自性を出すことができる。

藤原:英国のカレッジ・システムとの比較でいえば、フランスでもユニベルシテ(総合大学)はほとんど評価されず、グランゼコール(大学校)が最高峰とされています。高校でバカロレア(大学入学資格)を取得して卒業する、つまり、大学進学リストヘの登録試験をパスすればユニベルシテにはいつでも行けるのに対して、グランゼコールはさらに中国の科挙なみの選抜試験がある。まず高校でリベラル・アーツを学ぶことが大切なのであり、乱暴な言い方をすれば、英国ではカレッジでさらに磨きをかける基礎的資質、横断的総合力を、フランスでは高校である程度身に付けさせる。

将基面:バカロレアを英訳すればバチェラー、すなわち大学卒業資格、和訳すれば大卒の学士ですからね。

藤原:高校でリベラル・アーツを学び、科学も文学も哲学もわかる幅広い視野を持つ訓練をした後で、さらにグランゼコールを目指すわけですが、これが日本のように文部省が一元管理するしろものではない。軍はエコール・ミリテール=軍大学校を持ち、通商産業省はエコール・ド・ミーン=鉱山大学や、ポン・エ・ショゼ=橋と建物の意味でいわゆる工科大学を持ち、と、全省庁がそれぞれ大学を運営しているわけです。そのうち、教育を担当する部分を持っているのがエコール・ポリテクニークとエコール・ノルマル・スーペリオールで、明治期の日本の高等師範学校はこれを真似たものです。高等教育機関として、日本は大学史でいうところのパリ式、つまり先生が大学という施設を使って学生を教えた、フランスの学制を採用した。これに対して英国はボローニャ式、つまり学生が組合を作って教師を任命して、学問の自由と自治を守る。これは世界最古の大学であるイタリア・ポローニャ大学の薫陶です。


大学は政治権力と対峙すべき存在

将基面:ヨーロッパでは大学史という学問が非常に重きを占めており、その研究内容は、大学がいかに組織されていったのかという基本的問題と同時に、大学が社会においてどう位置付けられるのか、つまり、政治権力との関係の問題が重要です。すなわち、学問の自由はどうあるべきかもここで取り扱われる。ところが、日本においては大学史という学問がない。ないということはそもそも、学問の自由を問わない、学問が社会の中でいかにあるべきか、いかに政治権力と対峙していくのか問わないということです。学問の自由を守るという視点がすっぽり抜け落ちているのは致命的欠陥です。

藤原:大学などというものは、たんに建物であって中身こそ大切であるにもかかわらず、日本はそこを評価しない。ただ東大を出た、という履歴だけを評価する。

将基面:と同時に、ヨーロッパは中世からの伝統として、大学そのものがまず学生のものであり、学生が組織し、教師を雇って発展してきた。こうした知識もない。

藤原:一方のパリ式は、教師がユニオンを作り、そこに学生が集まってくる。

将基面:オックスフォードやケンブリッジの場合、ボローニャ式の意識が現在もありますが、日本の場合はまったく逆で、上から与えられたものです。

藤原: 文部省がすべてを統括している。ここからは役人にしかなれない人、あるいは研究者にしかなれない人しか出てこない。日本の大学制度からは、真の意味で政治家になれるような人材は生まれてこないでしょう。

将基面:つまりはガバメント、大学組織は大学人がガバーンする、教師や学生自身が統治運営する、という発想がなければ、日本のようなことになってしまいます。


米国式MBA教育の最大の欠陥

藤原:日本ではお上の属僚になる人間ばかりが育ってきているのであって、国の指導者は育ってこない。肩書きだけは指導者だけれど。日本の若い人々が留学し世界に通用する政治ができるようになるためには、やはりヨーロッパを目指すべきです。80年代以降、米国のビジネススクールでMBA(経営学修士)を取ることが盛んになっているが、ビジネススクールはものを考えること、哲学の問題を重視しない。指揮官としてどういう条件の時にはどうすベきかという、いわば作用・反作用レベルの人間を作っている。

将基面:軍の士官学校の気風があるんです。そもそもビジネスとはどういう存在であるべきか、と問うことが問題にならないのは、軍隊の論理をそのままビジネススクールに持ち込んでいるためです。そういう発想ではなく、社会全体において各企業が社会経営を意識しながら自らの経営を位置付けていく、という発想こそむしろ必要なのです。これはもともとヨーロッパには存在するもので、そういう意味では、オックスフォードがアメリカの真似をしてビジネススクールを設置するのは、伝統的立場からすれば逆なんです。

藤原:あんなものなんだ、となる(笑)。テクノロジーも同様で、MIT(マサチューセッツ工科大学)やCalTech(カリフォルニア工科大学)にしても、インスティテュートであつてユニバーシティではない。たんなる抜術者養成所です。日本の場合、こういう差異を理解せず技術者・技能者の養成機関が大学を名乗っている。しかも技能者イコール官僚です。これではユニバーシティの機能を発揮していないし、かつては教養学部、すなわちリベラル・アーツがあったが、最近はこれもなくなってしまった。


翻訳学者が横行する不思議な国

将基面:そもそも、学問の方向を教えるという態度がありません。例えば、私の専門領域である歴史学部であれば、「歴史学とはなんぞや」のいちばんの基本は「一次資料にあたる」ことです。しかし日本の場合、外国でなにをいっているかがまず頭にあるため、二次資科で外国語のものを読めばよしとなる。つまり、日本語に翻訳されていない二次資科をナマで読む、英語なりドイツ語なりフランス語なりで読めば、それで立派な大学院の研究だ、と錯覚を起こすような側面が確かにあります。

藤原:一次資科を論じた外国語文献を読んで満足している。日本の大学予算の50パーセント以上を東京大学が使い、残りで他の国立大学全校を賄っていることからもわかる通り、東大が大学のモデルです。その東大にしてからが、蕃書調所から始まり、史料編纂所を経てできたもので、外国のものをいかに翻訳しいち早く取り人れるかを一生懸命やってきた。東大の先生たちは、学問をするのではなく書いてあるものを翻訳し、海外の学者の威光で何とか学派の大将になれると血道を上げているだけで、学問として成立していない。

将基面:翻訳についていえば、ヨーロッパでは、もともと古代地中海世界にあった学問が、イスラム世界を経由し、アラビア語からラテン語に訳し換えられることで再び戻ってくる。その翻訳の過程で、古代末期から中世初期にかけて存在したキリスト教との相互作用によって新しい学問が発展した。ところが日本の場合、翻訳というものがただすっぽりと人ってくるだけで、そこに発展的なスパークが起こらない点が大きな問題だと思います。

藤原:概念の議論、意味論の議論がまったく行なわれないから、まさに「仏造って魂人れず」になる。私は、米ペパーダイン大学の総長顧問をしていた経験から、各機関による大学の格付けを徹底的に検証したことがあります。カリフォルニア大学のグアマン教授による米国内外の大学の序列、『ファイナンシャル・タイムズ』紙の世界のビジネススクールランキング、『USニューズ&ワールドレポート』紙のカレッジ、プロフェッショナルスクール評価などが現在も実施されていますが、その評価基準はなにか。スタンダードをコントロールする、つまり、世界を支配するルールを作れること。ルーラーとなり、いかなる精神をそこに盛り込むかには、学問の裏打ちが不可欠である。日本が引っかき回されているBSI(国際会計基準)などのアメリカン・グローバル・スタンダードがその最たる例でしょう。それに対する日本の役人がやっていることはただの作文で、権力者としてここを認めて、こうしたほうがいいというつぎはぎ細工がすなわち法律になっている。
また、フランスを中心に、度量衡や単位の国際基準を変えようとの動きもあります。アングロサクソンのヤード・ポンド法に対するメートル法を筆頭に、キロワットをパスカルに、ミリバールをへクトパスカルにするなど。日本人がせっかく大学で堂えたものが使えないとなると、その人の学問体系はガタガタと崩れてしまう。ハードで負けてもソフトで取り返すという欧米帝国主義の神髄で攻撃され、日本は青息吐息になっているわけです。

将基面:ルールを決める背景となる哲学があれば、きちんと対応できる。


情けない“大学教授の英国留学事情”

藤原:日本の政治がこれほどダメになってきている最大の理由は、留学した人々がルールを作るノウハウをマスターせず、ただマスターズ・ディグリー(修士課程修了)のぺ−パーをもらってくることしか考えいないからです。そんな紙切れにはなんの意味もない。外国の支配者が考えていることを読み抜くだけのトレーニングを受けてこなければならないのに、残念ながらそういう人はあまりいない。日本の留学の大部分はお客さんじゃないのか。現地で見てその点いかがですか。

将基面:その通りで、お客さん、要するに腰掛けですね。留学生に限らず研究者も同じです。日本の大学の先生方は留学と称してイギリスにやってくる。ところがアメリカからは、なにかを教わるためにではなく、自ら独立したひとりの研究者として、研究休暇と称してやってくる。ケンブリッジではアカデミックーコミュニティの中でその便宜を図るため、ホスト役を付けることがありますが、日本人はホストを自分の先生だと錯覚するケースがある。結果、一人前の研究者であるはずにもかかわらず、大学の授業の末席に並んで聞くということになる。 これに関して私の指導教授に「なぜ日本の独立の先生がああいう学部のクラスに出席するのか」と聞かれ、返答に窮したことがある。英語を学びたいからというのもあるらしいのですが、どうも、学問の最先端を無条件に教えてもらえると誤解している。そうではなく、イギリスの大学の授業とは、受講者自身の研究に寄与するであろ素材、あくまでカリキュラムを消化させるための素材を提供しているにすぎないことを理解していない。

藤原:日本が金持ちになった時代、企業が海外の大学に講座を開設し、日本人枠を作って大学に留学生を送り込んだことがあったでしょう。ハーバードの教授によると、この一流企業から1人、外務省から3人とくる連中のほとんどが、ただいい点を取って免状をもらって帰ることしか考えていない。ディスカッションにも参加しないし、自分のものをなにも持っていないということでした。

将基面:やはり、帰るという意識があればこそそうなるわけです。

藤原:この肩書きを持って日本に帰り、教授になろう、部長になろう、などというケチな根性ではなく、世界でいくらでも仕事をしていく心構えの人が、今後、続々と登場してこなければ……。そして、海外で活躍している人材のうち、日本に必要なら適材適所でこの人にこの仕事をやってもらう、例えば外務大臣として迎える。そうした実例が出てきて当然だと思います。

将基面:そういう意味で、まったくフリーの学者であるにもかかわらず、この専門分野に関しては超一流だとなれば、どこそこ大学所属か否かはまったく問題にならない。日本の場合、どういうわけかどの大学の所属かがまず問題になり、結果、サイエンスでさえ、東大を頂点として水も漏らさぬヒエラルキー構造があり、その中でいじめにあうなどという不幸も起こる。

藤原:外務省もまったく同じで、大使、公使、参事参官、一等書記官という厳然たる序列があり、当然、東大卒がトップで私立大学卒はシッポ扱い。その夫人さえ聖心女子大、白百合という調子でヒエラルキーがある。外から見ればまるで滑稽なことをやっている。

将基面:○○大学の博士号取得は意味を持たないことにすればいいんです。むしろ、どの先生についたかが問題の要になります。


「どこの大学」より「誰に学ぶか」が問題

藤原:先程のハーバードの教授によると,ひとり木の下で本を読んでいるのは大体が日本人で、「なぜ本学にいらしたのですか」と聞くと「アメリカでいちばんだがら」。「あなたの専門分野でいちばんの先生の下にきたのではないですか」と重ねて問うと沈黙する、という調子だそうです。私の留学当時、構造地質学ではレニングラード大のベローゾフ教授がトップだったのでまずここを目指したのですが、成績が悪くソ連政府給付の奨学金をもらえず断念した(笑)。2番目がグルノーブル大のテバルマス教授だったので入学したわけです。私は世界で、1、2の先生の下に行こうと考えたのであって、大学に行こうという発想は露ほどもなかった。「偏差値が高いから東大に行きたい、ではなく、自分の専門分野で誰が最高の力を持っているか評価する識見や限力を持たねばならない。

将基面:その識見を持つにはしかるべき勉強をしておかなければならない。それがすべての前提条件になります。東大に行くにしても、どの先生につくために東大に行くのかを最初に問わなければならない。私の場合を申し上げると、日本では慶応大学に進みましたが、高校時代、慶応のパンフレットに教科ごとの担当教授が記されているのを見た私が、「これはいいlと級友にいうと、「そんなことどうでもいいじゃないか」と一言で片付けられた。そもそも、誰に学ぶかという意識がないのが一般的なのです。

藤原:著書を読めば誰がどういう発言をし、どういう思想を持っているかは分かるにもかかわらす、まず学生自身が知ろうとしない。また、日本には予備校が存在し、とにかく東大を目指せ、慶応に行けというだけだ。さらには、大学も情報を外に出さない。例えば医学部なら、内科と外科で教授陣はいかに違い、外科でもこの分野で業績を上げているのは誰である、に至るまで情報を提供するべきです。こうした意味で、日本の教育界に情報公開がまったくない。

将基面:太学における研究のあり方においても、欧米では情報公開が徹底している。すべての研究誌が自由投稿制で、あらゆる国、あらゆる分野のあらゆる学者が自らの研究を自由に発表し、各誌の編集部と外部のレフェリーが匿名で審査する。しかも、審査においては投稿者自身も匿名の形を取るため、もっぱら質だけで評価されるわけです。ところが日本では自分が所属する大学に提出する。共通の土壌がない限り、自由投稿制にしても誰も投稿しようとしない。つまりは、自分の所属外の誰かに評価されることを恐れる。この事実を研究者はいいたくないし、いう人間もいません。


海外で学ぶことの真の意味は何か

藤原:日本の教育改革は、大学の看板を塗り替えても仕方ない。教授の95%は無能であり、これを辞めさせることから始まる。私は数年来こういい続けているのですが、将基面さんも日本の学者は役立たずばかりだと思われませんか。答えると差し障るでしょうから(笑)、私のこれに続く提言「青年は海外を目指せ」について、パイオニアとしてのメッセージを。

将基面:海外に出ることによって得たメッセージとして、私がぜひ伝えたいのは、海外で学べる最大の果実は、市民社会で生きることである−−すなわち、市民社会を形成する柱のひとつとして大学も存在しており、ひとりの市民として生き、ひとりの市民として学ぶという態度の中から、自分を構成する社会を統治し、統治される実相を学ぶ−−これが重要なのです。
日本にいる限り、お上に対する下々の者にとどまらざるをえない。大学においても権力にぶら下がることになる。ならば、これを脱却する意味でも海外留学するメリットは大きい。それも、ただ海外を見てくるだけではなく、その中に身を投じてみないとなにも分かりません。
ちょっと話が固くなったので(笑)、最後に笑い話をひとつ。
−−ある国際組織が象をテーマにエッセイを募集したところ、世界各地から集まった。イギリス人からは「象はいかにして役に立つか」。フランス人からは「象の恋愛関係について」。ドイツ人からは「象に関する研究方法論序説」。そして日本人からは、「世界各国で象についてなにが語られているかについて」であった−−。
これが笑い話としてすまされないところが実に残念です。

藤原:日本の教育はどん底状態だから、すべてご破算にして、まずは日本の大学教授の95%をクビにするところから始めよう。そうすれば、希望が持てるかもしれません(笑)。


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