『NEW LEADER』2007年5月号

《安倍首相に直言する》



意味諭オンチ≠ェ日本の評価を大暴落させた
「美しい国」どころか醜悪な暴政に陥る危険性



フリーランス・ジャーナリスト 藤原肇(在アメリカ)



世界に通用する常識と教養が欠落したインスタント首相

 国内のメディアは安倍内閣の支持率が激減して、七月の参議院議員選挙が問題だと騒いでいるが、世界から見ると末梢事であり、日本の信用と国家の威信が損なわれ続け、日本が蔑視されている現実こそが問題だ。安倍首相が従軍慰安婦問題について「強制性を裏付ける証拠はない」と断言したことが、世界の世論の猛烈な反発を引き起こしたため、安倍晋三のせいで日本の評価は大暴落した。

 中国と韓国は定番どうりで激しかったが、『ニューヨーク・タイムス』や『ワシントン・ポスト』を始め、『マニラ・タイムス』や香港の『明報』までが揃って、政治責任と歴史の改鼠の問題に焦点を絞り、安倍政権の姿勢を非難したのは当然の反応だ。安倍にとって証拠は文書などのハードなもので、証拠を隠滅すれば事件も消えるという、幼稚で時代遅れの官僚発想が根底にあり、世界の理解とは遥かにかけ離れていた。

 日本人なら誰でも知っていることだが、安倍は閣僚になった経験がないだけでなく、政治家としての経験も至ってお粗末であり、世界に通用する常識や政治理念も持ち合わせていない。閣僚になって行政のプロセスの要諦を学び、統治のノウハウと実力を身につけるというのが、日本における政治の修行過程である。だから、幹事長など自民党・党三役や官房長官は、党務経験が政局の手腕を育てるにしろ、国際社会で通用する理念や判断力において、低い練度では指導者として使い物にならない。

 現場での鍛錬と実務体験のない幹部候補生に、指揮官の職務を与えないのが組織原理だが、自民党の現状は人材枯渇もあり、人気や闇取引で誰でも総裁経由で首相になれる。訓練度の劣る安倍でも首相になれた背景に、お祭り騒ぎの頭目選びで、犬や馬並みの血統の良さが高く評価され、指導性や政治理念の崇高さが忘れられていたことが、日本の政治における貧困さを証明していた。

 しかも、安倍が幹事長代理だった二〇〇一年の時点で、NHKの慰安婦問題の報道番組に対して、圧力をかけ映像の改竃を強要しており、東京高裁で違憲判決が下された時にも、安倍は開き直りに終始するだけだった。その程度の情報感覚では首相の器に程遠く、政治責任についての意識水準では、21世紀の国際社会には通用しないが、日本の政界の基準レベルが低かったせいで、情報時代の首相がインスタントに誕生した。

 「事実を裏付ける証拠は無い」と断言した安倍晋三は、この言葉で十分に説明を果たしたと思ったのだろうが、その未熟な情報感覚を見抜かれてしまい、世界から無責任さに対して非難を集めたが、安倍には言葉のすり換えしか出来なかった。彼の理解力だと、証拠は歴史の資料を指しており、それが存在しないと主張するだけで済ませ、事実が存在しなかったと言い抜けられると思ったわけである。

 だが、そんな小手先の誰弁は国内用に過ぎず、世界はすでに構造主義をマスターし終わり、情報理論では脱構築の洗礼を済ませ、倫理観は直接には見えない次元において、自己の責任を取ることが常識になっている。それが分からずに鈍感な状態だった安倍なら、世界から非難されても当然であるが、彼のように閉鎖社会のエゴイズムに執着すれば、無知と錯覚を非難されてしまうのである。


エクリチュールの意味論も知らぬ「高学歴の文盲社会」の象徴的人物

 「日本の常識は世界の非常識」という言葉がある。主観と感情に塗りこまれた日本的な常識は、普遍価値と結ぶ常識と通底しない限り、発した言葉は相手に共有され得ないし、コミュニケーションは成立しない。英語が喋れる程度の会話能力が評価され、それが閣僚や首相の決め手になる国でも、見えない次元の意味を捉えられない限りは、高学歴でも情報時代には文盲に属す。安倍晋三レベルの情報感覚を放置することで、一二世紀の日本は高学歴の文盲社会になる。

 生命活動を営む人間の生活空間の周辺には、文字化された歴史文書や遺物だけでなく、語り継がれた物語や文化現象の形をとった「エクリチュール」と呼ばれる情報の場があり、その意味を読み取る能力が評価される。この能力において卓越していることが、指導者に求められる基本条件であり、意味論オンチは前世紀までの頭目の属性に過ぎないのに、それも安部にとっては理解の将外であった。

 情報理論の基盤を支えているものとして、言葉が示すイメージとシンボルを統合した時に、政治家に必要な意味論の理解が生まれ、そこで初めて理念や理想を語ることができ、その純化した結晶としての憲法がある。そんなことも判らない人間が、情念の赴くままに、飾り言葉に陶酔して憲法をいじれば、美しいものも醜悪なものに成り果てるし、権力者による暴政になると歴史は教えている。

 物理的な力だけで支配の永続はできないから、自らの正統性と統治責任を確立するために、理性と情動の両方に訴える手続きが、人々の納得と承認を得るためのプロセスとして、近代政治における階梯を構成している。

 情動に結びついた象徴儀式の「ミランダ」は、国旗、記念日、音楽、儀式などを活用して、呪術的な威力で一体感や帰属意識を高める。そして、権力や集団の強化を促進する効果のために、宗教や軍事機構が昔から活用して来たし、ミランダ効果は政治運動化に結びつくことによって、暴発して最後を迎えるという性格を持っている。

 それに対し「クレデンダ」と呼ばれるものは、知的で合理性に富む象徴形式に基づく、理論や信条体系などの思考活動を通じて、正統性や信任を保証するプロセスを育てる。また、この領域の発達が近代社会を成熟させたが、時間の経過と頭脳機能の劣化現象に従った老化のために、情動と理性の均衡状態が崩れることで、私が三〇年前に問題提起した「ヤマトニズメーション」を発現させてしまう。

 大衆の情動を掻き立てる運動方式は、「カテコラミン過剰分泌症候群」に属しており、文明の病理現象を特徴づけている。それが最も激しく発熱と痙攣を現すのは、全体主義や宗教的メシア再来運動の高揚で、時にはクーデタや革命に繋がることもあり、世界史はその繰り返しの集大成でもある。

 今の日本には怨念と屈辱感に支配されて、「一つ覚え」のように憲法改正を叫びまくり、不可欠な理念や理想の議論が脱落したまま、強引に押し切る悪しき手口が蔓延している。ホルモン分泌の不均衡は「異胎」の成長を促し、小泉内閣で政治の病理として発現してから、「靖国カルト」の発熱が熱狂を生み、安倍内閣でシコリとして「異胎化」しているが、その病跡学については別の機会にゆずる。

 日露戦争後に皇軍に取りついた物語として、司馬遼太郎が嫌悪したのが「異胎の時代」であり、彼はこの時期を作品に描かず生涯を終えた。だが、ヤマトニズメーションの概念を問題提起した責任と、『平成幕末のダイアグノシス』の著者としての私は、歴史の証言を次の世代に伝えるために、愉快ではないが書き残す責務を痛感している。


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